第1章 4
王城や官庁が立ち並ぶ区域から少し外れた一角に、その屋敷は密やかに建っていた。
丁寧な手入れの賜物か、比較的古風な造りの館は、不思議にも
香り立つ庭に降り立ったハルの頬を、やさしい春風がくすぐる。心なしか柔らかさを増した表情を多少なりとも引き締めながら、彼は足取りも軽く内門をくぐった。
大きな樫の扉は、既に開け放たれている。そこから垣間見える屋内の調度を前に立っていたのは、彼が望んでいた人の姿だった。
「お帰りなさい」
笑顔とともに紡がれたソプラノの声が、耳に心地よく響く。
優雅に膝を折ってハルを出迎えたのは、彼とさほど変わらない年頃の娘だった。
少し線の細い頬の輪郭には、すでにしっとりと落ち着いた女の雰囲気がある。背中に流れる長い銀髪と深い緑色の瞳は、その可憐な美貌に華やかな色合いを添えていた。
薄い若草色のドレスを軽やかに翻しながら、彼女はハルへと歩み寄った。
「出迎えなんて、どういう風の吹きまわしだ……セレナ?」
「……風が、ずいぶん荒かったので。あなたの飛び方のせいでしょう?」
驚きに弾む青年の声に、乙女――セレナは朗らかな声を返した。
優しい煌きを増したその視線に、ハルの顔が緩む。
全く以って正反対の色味に彩られながらも、ふたりの面差しは何故かよく似ていた。
「ハルは飛び過ぎです。王城からここまでなど、たいした距離でもないのに。たまには歩いて戻ってきて下さいな」
乙女の言葉に軽い微苦笑を返しながら、ハルは己が背で光り輝く透明な翼を見遣った。
持ち主の意思によって顕現し、自由自在に大空を駆ける‘
緑の目と銀髪に並ぶ‘フィルナ人の象徴’は、太古の昔‘
青年の肩甲骨の辺りから真っ直ぐに伸びたそれはしかし、彼が纏う‘
「……
指を鳴らして‘保身の
その背にふわりと繊手を遣り、セレナは彼を室内へ迎え入れた。
狭くも広くもない居間には、大量の書物が収められた棚が整然と並んでいる。その書架達に囲まれるようにして置かれた簡素な卓には、庭の花を生けた花器とともに、可愛らしい茶器が準備されていた。
「散らかっていてごめんなさい。図書室が一杯になってしまって……」
「……術式分析論に高等数学、それに……何だ、合成術?相変わらず、すげえ量。これ、本当に全部読んだのか?」
「他に、することもありませんもの」
本の背表紙を追いつつ青年が漏らした科白に、セレナはくすりと笑みを零した。
「術を組んでいると、時が経つのが早いのです。思った通りの結果が出れば、面白いものですよ」
「……そりゃ、そうだろうけどよ」
さらりと返された言の葉に、青年が思わず肩を竦める。
その様子を知ってか知らでか……ポットを手にした銀髪の乙女は甘やかな声とともに湯を注いだ。
「御前試合はいかがでした?」
「いかがも何もねぇよ。開いた奴をはじめ、バカばっかりで参っちまう」
カップから立ちのぼった香ばしい香りに目を細めながら、ハルは短く吐き捨てた。
乱暴に引き寄せられた砂糖壺が、がちゃりと大きな音を立てる。
茶に当てつけの如く砂糖を放り込みはじめた青年を見つめたまま、セレナは少し困ったような表情を浮かべてみせた。
「……また、何かなさったの?」
「別に……。胸くそ悪い試合の帰りに、鬱陶しい奴に会っただけさ」
仏頂面でカップを持ち上げたハルの声に、小さなため息が重なった。
「……つまりコーザ様に叱られた後、アースロックと喧嘩なさったのね」
「……はっきり言うなよ」
砂糖が足りなかったのか、茶の苦味に顔をしかめたハルが低く呻く。
再び伸びたその手から壺を取り上げ、セレナは彼の正面の席に腰を下ろした。
翠の瞳に落ちた憂いが、青年の顔を真っ直ぐに射る。まともに注がれるその視線に身じろぎしながら、ハルは決まり悪げに言葉を紡いだ。
「……どいつもこいつも、うざったいんだよ。人の試合は邪魔するし、ごちゃごちゃごちゃごちゃ口出ししやがる。呪法は使うな、飛ぶのも禁止、武器の刃は潰せって、どんな子供の喧嘩だよ。御前試合が聞いて呆れるぜ」
音を立ててカップを置いたハルの挙止に、ちくちくと鋭い棘が混ざる。
長い髪をぞんざいな仕草でかき上げながら、青年はぶすくれた顔で嘆息した。
「大体、アースもアースだ。俺と同い年のくせに、顔を合わせりゃ説教だぜ?態度が悪いだの、真面目にやれだの、鬱陶しいったらありゃしねぇ。そんなに言うなら、お前が試合に出ろっての。そうなりゃ、堂々とばっくれられたのに!」
「……アースロックは、参加しなかったのですか?」
「出場できるのは、成績上位の四名だけなんだと。あいつ、クソ真面目な割に、何をやっても中の中だろ?事前選考で、見事にはねられてやんの。口だけは一人前のくせによ」
「ハル……少し、言葉が過ぎますよ」
思わず咎めの声を上げたセレナを横目に、ハルはいよいよ唇を尖らせた。
「いいんだよ、あんな馬鹿。しかもあいつ……しまいには、母上のことまで持ち出しやがった」
低い声で紡がれた科白は、壺の蓋を閉めようとしていた乙女の手をひたりと止めた。
唐突に下りた沈黙の中、甘い香りを含んだ湯気が霞む。
ごくわずかな……しかし見れば明らかにそれと分かる翳りを帯びたセレナの視線をついと躱し、ハルはふと皮肉めいた苦笑を零した。
「……これ以上、レティル王家を……そこに連なる母上のことを、けなすなってよ」
「ハル…………」
不意にきつく握り込まれたハルの手に、白くたおやかな掌が重なる。
諭し慰めるようなその仕草に、青年は重い溜め息で以て答えを返した。
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