第9話 黄巣の決断
9―1 広州陥落
福建を出る際、黄巣軍の兵力は既に、数万に膨張していた。大軍と化した軍勢が広州に向かったのは、広州の富を求めてであることは言うまでもない。兵力の膨張は、益々、その必要性を高めていた。そして、僖宗乾符六年(八七九年)九月、広州は一日で陥落、占領された。朱温等の軍勢は、広州の街の一隅を占領、ある屋敷を本拠とした。
この屋敷は、広州の街の大商人の屋敷らしかった。しかし、広州陥落の前に恐れをなしたか、屋敷内には誰もいなかった。但し、住人は慌てて逃亡したのか、金銀珠玉や珍奇な物品、更には、明光鎧等の甲冑が残されていた。ここの住人は、商人であると同時に、かつては唐朝の軍に参加したこともある人物かもしれない。あるいは、単に趣味で手に入れた甲冑かも知れない。いずれにせよ、今や朱温や寧二等が住人となっていた。
寧二は、明光鎧を我が物とした。無論、一種の略奪である。しかし、これから、どのようになるかわからない情勢の中で、まずは自分を守ることが第一である。部下に対する「公正な態度」は同時に、軍勢の幹部の一員として、組織の中心にして命令者になりうる自分を守らねばならない、ということであり、それが、「まずは自分を守ることが第一」という論理を正当化していた。
彼等、新たな住人は、広州占領の宴を開いていた。無論、朱温が中心である。しかし、朱温は複雑な表情である。曹が朱温に問うた。
「大将様、如何されましたか。我々は広州を陥し、新たな富を手に入れましたぞ」
朱温は言った
「うむ」
そして、少し間を置き、酒杯を置いて答えた。
「兄者が、此度の広州攻めで戦死した。わしがこの乱に身を投じる時、共に加わったものなのだが」
他の武将が言った。
「それは気の毒にございます」
同席の寧二は思った。
「俺は、朱温の下で、軍師というか、書記のような身分になっているが、浩士や炎、あるいは呂等はどうしているだろうか。殆ど、接することもなくなってしまったが、広州攻略の時点で、生きていたならば、最前線にいただろうし、今回、討ち死にしたかもしれん」
そのように考えると、ふと、かつての浩士の「百姓風情」云々の言葉が脳裏に蘇って来た。自分だけが、ある種の身分の違いで生き残っているのかもしれない。そうだとしたら、そんなことが許されるのか。否、この乱世である。自分のことだけ考えていれば良いのだ、と思い直してもみた。そうでなければ、自分自身が命を落とすかも知れないのである。
実際、朱温と同じように、兄弟で参加して来た者も少なくないであろう。しかし、それらをも含めて、数万単位に膨れ上がったからこそ、広州を奪う必要があった。そこで非情になれなければ、軍勢全体の死活問題になるのは明らかであった。
今回の広州攻略で兄を亡くした朱温が、どのように考えているのかは定かではない。朱温自身は、それでも、自分だけが良くなれば良いという考えなのだろうか。あるいは、表情から察するに、以前、聞いたように、預け先で幼い頃に折檻を受けたとすれば、ゴロツキ上がりとは言え、肉親としての兄が戦死してしまったことは、やはり、心中、辛いものがあるのかもしれなかった。
寧二が、心中、そのように考えていると、その朱温が口を開き、寧二に言った。
「そなた、近日中に黄巣様の下に行ってまいれ。黄巣様の今後についての意向が知りたい。急激に大きくなった軍勢を養うには、今後、どのように動くべきかが重要だ」
「かしこまりました」
朱温が内心、何を考えているのかは分からぬが、今後の動向については、寧二をも含めて、皆の問題でもあった。
寧二は、黄巣にはまだ、対面したことはない。自分と同じく科挙落第者とは聞いているが、それ以上のことは、何も分からなかった。寧二は朱温に問うた。
「総大将の黄巣様に何かお持ちしましょうか」
朱温は答えた。
「いや、わしも、何をお望みかは分からぬ。何かお望みのものがある、と言われれば、その時の話だ」
軍勢の中の首脳部と部下、というよりも相対する軍勢同士の交渉のような話である。
「かしこまりました」
寧二はそう答えると、さらに、杯を上げた。
広州は華南であり、寧二等が生まれ育ち、そして、乱が決起した華北とは勝手が異なる地であった。寧二は、何かしら、疲れのようなものを感じ、朱温に願い出て、宴席を後にし、その日は休んだ。
その後、数日、寧二は体調を崩し、自室で寝込んだ。流石に、華北と華南は大きな距離がある。寧二は改めて、自国の巨大さを思った。この巨大な自国を支配してきた唐朝は、今や屋台骨がぐらついていた。かと言って、自分達、反乱陣営が唐朝に取って代わりうる状態にまでなったとは言えない状況であった。但し、一つの拠点を広州に得たことは、大きな変化であったと言えた。寧二が病を得たのも、その大きな変化、つまり、常に流動していなければならない、という緊張感から解放されたという一面もあったかもしれない。勿論、それは、風土の違いが、予想通り、北方人を苦しめている、ということである。
しかし、まだ二〇代の寧二は、数日して体調を回復し、朱温の命に従い、黄巣の陣が置かれた屋敷に向かった。
9―2 総大将との対面
寧二は、馬で黄巣の陣が置かれた屋敷に向かった。屋敷の前で寧二は言った。
「我が軍の大将・朱温様から遣わされた李寧二と申します。全軍の総大将・黄巣様にお目通り願いたく存じます。お通し願います」
寧二は中へと通された。以前の時のように、怪しまれることはなかった。各軍の大将付の存在となった者は、上層部内では、名が知れた存在なのかもしれない。
中に通された寧二は、総大将らしき人物に向かって言った。
「総大将様、我が軍の大将・朱温様の命により、まかり越し申しました」
黄巣は言った。
「うむ、よう参られた。座られよ」
何となく、朱温よりは知的な感じを受ける。やはり、かつては科挙受験生であり、それなりの知識人であったからか。寧二は勧めに従って、座った。
黄巣は聞いた。
「して、何用か」
「はっ、大将の朱温様が、我等軍勢は、今後、どのように動くか、について聞いて参れ、とのことでございました」
黄巣は答えた。
「うむ。わしはこの地の節度使の地位を唐朝に求めておるところだ」
寧二は内心で思った。
「節度使?自分は王仙芝が唐朝に官位で帰順させられそうになったら、ぶん殴ったくせに。自分も節度使などという地位を欲しがるのか」
そう思いつつ、こうも考えた。
「確かに、この広州の土地を抑えてしまえば、一定の根拠地が確立できる。そうすれば、我々にとって、ある程度の安定が得られる」
考えつつも、寧二は黄巣に問うた。
「して、我が軍の大将には如何、伝えましょうや」
「うむ。暫く待機するように、伝えてもらいたい」
寧二は重ねて言った。
「かしこまりました。しかし、我が軍は、この広州を占領して以来、これまでの行軍の苦労の裏返しでしょうか、外国商人の持つ珍奇な物品に目を奪われたり、食料に目をつけたり、あるいは、女を襲う等、規律を乱している様子にございます」
実際、朱温の陣からここに至る道中、野蛮な笑声、女性らしき叫び声、何かを哀願するような商人の態度、おびえる子供達、といったものを見聞きして来た。
寧二は続けた。
「総大将様が節度使として、広州の街を治められるのであれば、軍律を正さねばならぬのでは、思われますが」
黄巣は答えた。
「うむ。そこが、我が軍の最大の問題だ」
そう言いつつ、黄巣にも、どうすべきか、良い案は浮かばないらしい。略奪暴行を止めれば、さらに、軍律を乱すかもしれなかった。更に聞き慣れぬ広東語等も、自軍内に地元の広州人達との同胞意識を生まず、略奪の対象として見る傾向を増長させているのかもしれなかった。まして、外国商人となったら、尚更かもしれなかった。
そこへ、警護の者であろうか、兵が一人入って来た。
「黄巣様、唐朝より、使者と称する者が参っております」
黄巣の顔色が色めき立った。何らかの重要な使者であろうことが、寧二にも分かった。
「何用の使者か」
兵は答えた。
「長安から、節度使の件で参った、と申してございます」
黄巣は命じた。
「うむ、すぐに通せ」
「はっ」
暫くして、兵に促されて、二人の使者が入ってきた。一人の使者が言った。
「天使様からの勅使でございます」
黄巣は問うた。
「して、如何な内容か」
勅使は答えた。
「天子様はじめ、唐の朝廷は、広州のような重要な地は、賊には与えられぬ、との仰せにございます」
再び、黄巣の顔色が変わり、怒りの表情が顕になった。その表情から節度使を強く期待していたことは明らかであった。
「賊だと?塩の専売をはじめとする失政で、民を苦しめておきながら、唐朝は我々を続呼ばわりするか」
使者は、平然と答えた。
「如何にも左様でございます」
黄巣は、腰の剣を抜くと、二人いた使者のうち、平然と答えた方の首をはねた。もう一人は、こうなって、黄巣を賊呼ばわりしたことの重大性に気づき、恐怖したらしい。先程の言葉には、何かしらの見下した響きがないでもなかった。この二人には、あるいは、科挙に合格し、自分たちは一般の民衆、ましてや賊などとは異なる次元の存在だという自負のようなものがあったのかもしれない。
黄巣は言った。
「左様か。それならば、それで結構。わしは、唐朝との妥協は、今後一切いたさぬ。必ず、長安を陥し、唐朝の天下を終わらせてやると伝えよ」
怯えた表情の使者は、部屋より逃げ去った。
一部始終を見ていた寧二に対し、黄巣は言った。
「李寧二、自らの軍に帰って伝えよ、我が軍は北帰し、長安を目指す。我等の動きによって、唐朝を滅ぼす、とな」
寧二は既に何度か、行軍の中で、血の現場を見て来ていた。ある程度の血には慣れていた。同時に、先の使者の見下したような態度に、寧二自身が怒りを感じたこともあり、然程の恐怖は感じなかった。
寧二はかしこまった旨を言うと、部屋を出た。往路を乗って来た馬に再び乗って、朱温が待つ自陣の屋敷へと戻った。
道中で、相変わらず、野蛮な光景があちこちに見られた。しかし、広州市民が生きた人間ならば、自軍の軍勢の将兵も又、生きている人間である。広州市内の状況は、生身の生きた人間同士の生存競争であるとも言えた。
9―3 帰営
寧二は、朱温達の屋敷に戻ると、見て来たことを報告した。
朱温は言った。
「なるほど、そうか。いよいよ、総大将様も、唐朝と対決する腹を固めたか。我々にも天下が見えてきたようだ」
天下、と言っても、唐朝が倒れた場合、皇帝に即位するのは、勿論、黄巣であろう。朱温は、そのもとで出世しようという腹積もりであるようである。朱温は好色家なので、権力を持つことにも目がないのであろう。しかし、この件について、朱温だけを責め立てるわけにも行くまい。それは、既に戦死した王仙芝、先程の黄巣、そして、ある意味、浩士や炎とて、同じであった。
朱温は続けた。
「して、黄巣様は、何時、軍勢は北に向け発つ、と仰せか」
「まだ、分かりませぬ。その件では、何も仰せではありませんでしたので」
朱温は言った。
「うむ、良い。暫く待とう。兵達には好きにさせておこう。わしに逆らわなければ、別に構わぬ」
朱温は、兵が軍律を乱すことについては、特に気にする様子ではなかった。そもそもがゴロツキ上がりなので、このようなことは、気にならないたちなのかもしれない。或は、軍勢を率いる将として、できるだけ、略奪等を許し、今後の兵達の食料を確保し、又、「英気を養う」ことを狙っているのかもしれない。かつて、寧二の指揮の下で、劉炎等が蘇の屋敷を焼き、食料等を略奪したように、である。
寧二は思った。今の広州での、暴行略奪等を、後世の史家はどのように書くだろう。三国時代、曹操の徐州攻略が虐殺を伴ったことが史書に残されているように、後世の史書にも、黄巣軍が広州の街で虐殺した等と記されるかもしれない。広州の街は、外国商人も多いので、その悪評は海外まで届くかも知れない。しかし、現在は、自分達とて、生活が掛かっているのだ。後世の史書の評価など気にしている場合ではなかった。
そこに、黄巣の本陣からの使者が来た。
「申し上げます。総大将の黄巣様は、来月には広州を出て、北帰するとのことにございます」
朱温が答えた。
「うむ。我が軍勢も行動を共にすると伝えよ」
「はっ」
伝令は、答えると、部屋を出て行った。
朱温は寧二に伝えた。
「寧二、各隊の長に対し、北帰する旨、この陣の兵を伝令として使い、伝えよ。来月の進発なので、出陣準備を急がせよ」
「かしこまりました」
寧二は、朱温の命を受けると、陣内の兵に、その旨を伝え、各隊に伝達せよと命じた。
随分と急な話であると思われたものの、慣れぬ広州の気候に苦しむ者は、おそらく寧二同様、兵の中にも多くいるだろうから、広州には拠点を持たず、長居しない方が良いのかもしれなかった。
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