第2話 逐電

2―1 炎の脱走


 だが、しばらく前に勃発した乱は、劉炎にとっては、新たな世界に身を投じる機会の到来であった。しかし、どのようにして、隊を抜けるか。このままでは、脱走が目立ってしまう。いくら、規律が乱れがちとは言え、そのままの姿で兵営から外に出るのは、勿論まずい。又、隊長にとって、兵は自身の私兵のような存在である。隊長自らが、反乱側に身を投じる、と言えば、劉炎自身も反乱側に参加できそうであるが、部下に冷たい今の隊長のもとで反乱側に身を投じても、場所を替えて今の状態が続くだけである。好機は来ているというのに、寝返るだけの手段的な機会がないのである。炎は心中、

「どうにかならぬものか」

と思った。

 このまま、好機を逃すのも、惜しいことである。しかし、口実が見つからない。よくある世の常かもしれないが、そこで好機をつかみうるか否かが、人生の分かれ目でもあるのである。炎は、持ち場にいながら、思いを巡らせていた。そこに同僚の兵が来た。

「劉、隊長殿がお呼びだぜ」

「分かった」

 炎は、いつものごとく、無神経な隊長のいる幕舎へと向かった。あの隊長には、できるだけ、顔を合わせたくないのだが、藩鎮の一員である以上、最も身近な上官である彼からは逃れられない。逃れられないから、自由になれない。これが、現時点での炎にとっての、「世の常」と呼ぶべき状況であった。

「お呼びでしょうか」

 幕舎に入って、炎は隊長に問うた。

「うむ、お前も承知しているとは思うが、暫く前に、賊が反乱を起こした、という知らせが入っている。そこで、我が藩鎮を統べる節度使様は、村々に自警団を設けよ、と仰せだ。して、お前には、村々を廻り、自警団を呼びかけてもらう。お前は、普段から塩を買いに出ているので、村の者とも話が通じやすいであろう」

 思ってもみない口実の到来である。嫌な隊長の前では、笑顔になることも自然と少ないのであるが、今回は自然と何かしら、顔がほころんだ。

「分かりました、隊長殿。行かせていただきます。但し、塩を買いに行く時同様、庶民の格好をしてまいります。村々の者も、その方がなれているはずと思いますので」

「うむ、急ぎ、村の者に知らせよ。村々が我が藩鎮から賊軍の手に落ちぬようにな」

炎は、直ぐに幕舎を出た。彼は内心で言った。

「勿論、急いでやるさ。俺自身の自由と、あんたらの束縛からの逃走のためにな」

甲冑を脱ぎ、庶民の格好となった劉炎は、村々への警戒の呼びかけ、という大義名分の下で、兵営を堂々と離れることができた。但し、道中の警戒用のために、剣のみは持って出た。これから、しばらくの間、逃避行となるが、その間、本当に賊に会うかも知れない。その時の護身用である。劉炎は脱走したものの、「炎の如く」格好よく脱走したのではなかった。しかし、個人で抜け出すとなれば、これまた、このようなものが「世の常」かもしれなかった。

 炎がまず向かったのは、浩士の家だった。村人に理由を聞かれたら、その時は、隊長に言われた建前を言えば良いのだ。劉炎としては、自分一人で黄巣の陣営に身を投じても良いのだが、流石に反乱側に身を投じるとなると、右も左も分からない。ならば、同じ境遇にある者と一緒の方が良いではないか。但し、浩士が賛成するか否かは別問題なのだが。

 暫く歩くと、村が見えて来た。いつも、炎が塩を買いに行く市場の近くの村である。炎は、暗がりの中、浩士の家に向かった。浩士の家には灯りが点いていた。まだ、床にはついていないらしかった。

炎は、張家の戸を叩いた。

「藩鎮から派遣された兵の劉炎と申す。賊が乱を起こしたとの報を聞き、用あって参った。申し訳ないが、戸を開けられたい」

 家の中で足音がして、暫くすると戸に向かって歩く音になった。それから戸が開いた一人の少年が顔を出した。


2―2 百姓の家庭事情


 応対に出たのは浩士の弟だった。彼は言った。

「どなたですか。どうしました?」

「先にも言ったように、藩鎮から派遣された劉炎と申す。兄者がおられたら、お目にかかりたい」

「分かりました」

 弟はそう言うと、炎を中に通した。弟は

「浩士は家の裏側の小屋で作業しているので、呼んで来ます」

と言った。

 しかし、炎はそれを制止し、自分自身で家の裏側に向かった。

 浩士は、炎を見るや言った。

「どうした。こんな夜更けに。藩鎮での軍役の方はどうしたのだ」

すかさず、炎は言った。

「脱走してきた」

 浩士は驚いた。

「何?本当なのか?」

「本当だ。実は先日、俺達が世話になっていた闇塩商人の親分が造反に起ったという知らせが飛び込んできた。いつか、夕刻の道端で言ったとおりになった」

 浩士は言った。

「お前、謀反の側に身を投じるのか?」

「そうさ。今の世界にはもう懲り懲りしている。唐朝に仕えたとて、給料もろくにでない有様だからな。浩士はこれからどうするんだ」

 浩士は即答しかねた。浩士の父は、寧二の父とともに、龐勛の乱に加わり、やはり、行方不明だった。その後は、母と弟と自分の三人で、この張家の暮らしを支えては来たが、唐朝の税は重い。唐朝に味方する気は全くないし、反逆してみたい気もする。しかし、一家の働き手である自分が乱に身を投じたら、残された母と弟はどうなるのだろう。一家の中から、賊の味方が出たと、母と弟が非難されたり、唐朝から圧迫を受けたり、ということがあるかもしれない。そうはならなくても、母と弟が路頭に迷いかねなかった。   

 彼には未だ、家族の情が残っていた。そこが炎とは違うところだった。しかし、ろくに食料もなく、先が見えない乱れた世を生み出した既存の体制に未練などなかった。

「炎、俺も乱に身を投じてみたい。しかし、おふくろが認めてくれれば、の話だ。俺には家族があるから」

 炎は言った。

「分かった。お前の自由だ。但し、俺が藩鎮からの脱走兵であることは、黙っていてくれるか」

「それは良い」

 浩士は、家の中に戻って行った。この間、炎はこのまま、ここから去ろうかとも思った。浩士が万が一、母親に密告しているかもしれないし、その際、それこそ、村を自警せんとしている連中に逮捕されるかもしれない、と思うのである。あるいは、しかし、村の連中も、唐朝に苦しめられているのだから、脱走兵一人などどうでも良いか、いや、しかし、藩鎮が金をくれてやる、と言ったら、どうだろうか。炎は、そのようなことを考えているうちに、浩士に早く態度を決めて欲しい、と思った。わずかな時間のはずが、ひどく長い時間に思えた。そう思っているところに、浩士が出てきた。浩士は言った。

「母に別れを告げてきた」

 つまり、浩士も炎と行動を共にするという意味である。浩士は言った。

「好きになさい。おふくろの言葉だったよ。弟も一七になるが、この世の有様じゃ、どうにもならんので、丁稚に出すことになったんだ。おふくろは殆ど学はないし、一人でこの家を切り盛りしていけるわけでもない。近々、実家に帰ることになった。張家は一旦、解散だ。何もない家だから、そうするしかないんだ」

 劉炎と張浩士は、脱走兵と小作農という身分の違いがある。しかし、藩鎮の兵とは言っても、そもそもは小作農の出身である。浩士の今の姿は、炎のかつてと同じことだった。浩士は、手に鍬を持っていた。財産と言えば、農作業に使う鍬程度だったものの、それでも、賊に出会った時などには、戦うための武器にはなるだろう。この時点で、最早、平時ではなくなっていた。

 二人はとにかく歩き出した。最早、王仙芝、黄巣等の陣営に加えてもらう他、行き場はないのである。とはいえ、反乱軍はどのあたりにいるのだろうか。そんなことを話しながら歩いていると、もう一人の人影が現れた。


2―3 落ちこぼれの参加


 人影は寧二だった。夜だというのに、村の中の道端にいたのである。浩士が話しかけた。

「寧二じゃないか。夜分にどうした」

 寧二も、浩士に驚き言った。

「お前こそ、こんな夜更けにどうした」

「彼が劉炎。この前言った藩鎮の兵だ。脱走してきたんだ。俺の家も財はないし、さ

っき、家を出てきた。弟は街に出て行くだろうし、おふくろは、実家に戻ることにな

った。唐朝の下で暮らしていてもどうにもならないし、一家解散だ。今のままでは、

道も開けないし、先般、起きたとかいう乱に加わることにした」

 その言葉を聞いた寧二は、

「そうか」

 と言って、さらに続けた。

「なら、俺もここで、君らに加わる。家にいるのが嫌になってしまった」

 浩士は自分のような小作人とは違い、地主の家なら、まだましな生活のはずなのに、と思って、理由を問うた。

「科挙のことをうるさく言う母に嫌気がさした。もうやってられない」

 浩士は、自分とは違う身分の者による自分とは違う次元の悩みであるとは思いつつ、寧二を仲間に受け入れた。ここに、李寧二、張浩士、劉炎の三人は、落ちこぼれ、小作農、脱走兵の違いはさておき、三人でまとまって、とにかくも、反乱軍の陣営を目指すことになった。

 勿論、講談等で聞いた事のあるような、三国志の劉備、関羽、張飛のような“桃園の誓い”などなく、祝われることもない出発だった。現実の問題として、ここ数年、飢饉もあり、一刻も早く、反乱軍陣営に加わる必要があった。

 中途、呉という一族の屋敷のそばを通る時は、近くの側溝の中に身を隠しながら、見つからぬように注意した。呉の家は、唐朝への官僚を出し、又、大地主として、村一帯に対する実質的支配者であった。屋敷には所々、警備の兵もいる。支配の拠点として、藩鎮等から派遣されて来たものなのだろう。村における唐朝支配の象徴的存在であった。この家には、呉倫という寧二等とあまり年の変わらぬ息子が居る。呉家は村人を収奪していたが、その息子の呉倫は、大した能力もないにも関わらず、幼い頃から家の権勢を笠に着て、村人を顎で使い、寧二等も幼い頃から無理難題を押し付けられる等、随分といじめられ、泣かされてきたものである。

 幸い、呉家に見つからず、通り過ぎることの出来た三人は、村を抜け出し、とにかくも出奔した。

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