桃園の誓いなき三兄弟―唐末後梁を生きた若者達 (とうえんのちかいなきさんきょうだい―とうまつごりょうをいきたわかものたち)

阿月礼

第1話 人々の生活

1-1 日常の風景

 

 寧二は、家の庭で飼っている鶏の鳴き声で目を覚ました。李寧二は、今年、一八歳になるが、正直、日々の生活に疲れているのだった。

 寧二の家は、中小規模の地主なだけあって、家の中には、書籍も多い。とはいえ、その多くは、科挙受験用の参考書類、即ち、儒教や詩歌についてのものなのである。それらは、居間にあるのだが、寧二は、毎度のごとく、居間でそれを見るのが不快であった。これまで、即ち、唐朝の僖宗乾符二年(八七五年)に至るまで、これらのせいで、どれほど、苦しめられただろう。そもそも、母が、寧二に科挙受験をさせようとして、半ば、押し付けたものなのである。

 寧二は、必ずしも、本を読むのが嫌いではない。遠い昔、この国であった三国志の時代(二世紀~三世紀)に思いを馳せるのが、彼の楽しみであった。三国時代であるならば、例えば、曹操も富裕な家の出身である。そして、後漢末に活躍したように、自分も活躍してみたい、と思うのであった。曹操が実家の財産を叩き売ったその資金で挙兵したように、自分も名を成して・・・・・といった空想を自身の心中にて回していたのである。そもそも、科挙受験に拘束されるのが嫌なので、空想の世界に逃げるのが彼の最大の楽しみだった。

「兄さん、まだ寝台の中?もう起きて。お母さんが朝食を用意して待っているのよ」

 いつもの声である。寧二の妹・玉花の声であった。ちょうど空腹になって来た頃合である。儒教の本など見たくもないが、起きて、居間に向かうことにした。

居間に行ってみると、母が朝食を用意して待っていた。いつものように、饅頭と簡単なスープの朝食である。味付けは塩によるものだが、財政が傾く唐朝が塩を専売にしていることから、食生活に欠かせないはずの塩も一般庶民は闇業者に頼っていた。

「寧二、又、町の市場に行って、塩屋さんから、塩を買って来てちょうだい」

 これもまた、いつも通り、母の声である。李家でも、闇業者に頼らなければ、塩は手に入らない日々だった。科挙受験を押し付ける母に言われて、塩を買いに行かされるのは少々、不快に感じるが、寧二とて、塩がなければ,生きていけない。闇業者との接触は、母への反発以前に、生きるための当然の行為なのである。

「母さん、いつもの量でいいんだね。市場に行けば、塩屋に会えると思うよ。塩屋に払う金をくれよ」

「朝ごはんが終わったら渡すから。それよりも、科挙の受験勉強の方は進んでいるの」

 朝から不快な一言である。寧二はおざなりに答えた。

「まあまあ」

「お父さんが行方不明になってから、この家は、寧二が頑張らなければ、傾いてしまうんだからね」

 寧二の父は、その十年前に発生した「龐勛(ほうくん)の乱」に参加、行方不明になっていた。乱に加わると言って、数人の農民を従えて家を去った後、全く帰宅していないところからして、戦死、戦病死、あるいは、処刑等されたのであろう。既に、生存の望みは薄かった。李家は地主であり、父はその家長でありながら、反乱に参加したのは、唐朝の庇護にあずかれない可能性が高まっていたからであった。傾いていく唐朝の重い税は、李家をも苦しめていた。

 龐勛の乱は、そもそもは、辺境警備の兵が悪条件の下での駐屯継続を拒否しての反乱であったが、そこに生活に苦しむ様々な人々が参加したことによって、大乱と化したのであった。寧二の父も、自分たちの生活が苦しいことに怒り、小作農等とは立場の違いはあったものの、彼等とともに、唐朝の圧迫に対する反乱に身を投じたのであった。幼かった寧二には、勿論、当時の事情は分からなかった。唯、夜、父が家を出ようとしていた時、母が泣いて止めようとしていたことだけは覚えていた。それ以来、父は家に帰らず、李家は、母、玉花、そして寧二の三人の生活になっていた。

 食後、母から銭を受け取ると、寧二はいつもの市場に出かけた。市場は、いつも通り賑わっているが、人びとの多くが塩を求めて来ているのある。塩は、建前としては、朝廷の専売である。闇塩は、死罪をも含めた重刑なのだが、売買しないわけにはいかなかった。しかも、闇業者は、専売のそれより、安く塩を売ることによって、却って巨利を上げていた。

 市場に入った寧二は、顔見知りの野菜商に声をかけた。

「塩を買いに来たんだ。塩屋はどこだい?」

「ああ、塩屋ね、あそこの市場の隅に、金品を扱う貴金属屋のふりをしている。塩屋だとばれるとまずいからな。一応は他の商売のふりをしている。まあ、もっとも最近じゃ、取り締まりの兵も、規律が乱れているので、金目の物さえ渡せば、見逃してくれるようだが」

「分かった。有難う」

 野菜商に礼を言った寧二は、その方向に向かった。「貴金属屋」は直ぐに見つかった。高価そうな沢山の商品を屋台に並べていた。或は、これらは取り締まりに来た兵士や役人に渡す賄賂に化けるのかもしれない。賄賂が高価であれば、見逃してもらえる確率も高い。そうやって、闇塩を扱う闇業者は、自衛の一手段としているのであろう。寧二は「貴金属屋」に声をかけた。

「塩をくれ」

「ようがす」

 この会話のみで、取引は成立した。闇業者にとって、安価な塩を売ることは、巨利の源であり、一般庶民にとっては、生活の糧を得ることである。もし、摘発者が、一般庶民からの密告によって、取り締まりにきたとしても、やはり、賄賂を渡せば、済むことである。一般庶民が彼らを密告することについては、そもそも、それ自体があまり心配要らないことであった。密告は、一般庶民の生活そのものを成り立たせなくするものであるからである。

 寧二は、塩を隠すように自宅へ持ち帰った。せっかく、入手した塩ではあるが、道中では、摘発されるかもしれないし、その際に渡せる賄賂を彼は持ってはいなかった。

 家に帰ると、母が居間にいた。

「塩は手に入ったの?」

「市場にいた闇屋から買って来た」

 母は続けざまに言った。

「早く科挙の勉強をなさい」

 予想された言葉ではあったが、寧二は立腹した。毎日の受験勉強に加えて、畑仕事やらで疲れていたのである。少しくらい自由時間、休み時間をくれても良いではないか。

「母さん、少し休ませてくれよ、ここ数日、勉強ばかりの上に、畑仕事やらで疲れているんだ」

「何言っているの?科挙に合格しなきゃ、うちは傾くかも知れないのよ。色々と重い負担で困っているのに、お前が科挙に合格しないで、どうするの」

 科挙に合格すれば、免税等の特権を得られることがある。生活に苦しむ李家としても、免税等の特権が得られることはありがたいことだった。しかし、重税を課しているのも、また、唐朝であり、藩鎮(本来は、辺境警備のために置かれて軍管区。その長が節度使)によって、半ば国中が分割されているという事実があった。先ほどの市場に取り締まりに来るのも、藩鎮の兵である。庶民の立場から見ても、唐朝が既に実権を失いつつあるのは、明らかだった。それは、先ほどの市場での会話にも明らかである。寧二は言った。

「母さん、今、科挙に合格することに何の意味があるのさ。唐朝はもう大分、弱っているんだぜ。塩だって、闇屋に頼らねばならない状況じゃないか」

「だから、何なの?」

「科挙に何の意味があるんだ」

 母は顔色を変えて言った。

「寧二、あんた、科挙の受験をやめる気?」

「出来ればやめたい」

「一体、何言っているの!お父さんがいなくなってから、重い税で苦しんでいるの

よ!」

 寧二とて、黙ってはいない。

「一体、誰の人生さ。この家、この家って。俺は母さんの操り人形かい?」

母は話にならない、という顔で別室に入って行った。居間に並んでいる科挙用の書籍が憎たらしく見えた。これらは母の寧二に対する押し付けの象徴なのだ。一気に焼き捨ててしまいたいとさえ思った。霧のような不快さを心中に持ちつつ、寧二は、自室に戻った。寧二は思った。

「一体、俺の人生って、何なのか」

 寧二には、父がいなくなって以来、母から「科挙」について、勝手な期待が寄せられてばかりいた。無論、科挙は、書物を買う等、色々、資金がかかるので、ある程度、経済的余裕がないと難しい。李家は、中小地主ということもあり、そうした余裕のある家であった。それが却って寧二を苦しめることになったと言えよう。

そんなことで、不快な感情を抱えていたところへ、玉花が入って来た。

「兄さん」

 その声に寧二は振り返ろうとしなかった。

「兄さん、母さん、自分の部屋で泣いていたわよ」

寧二は、余計に不快になり、立腹した。一体、何の涙なのか。母自身の勝手な思いの延長でしかないはずである。そんなことに何と言えば良いのだ。

玉花は寧二の背後に暫く立っていたが、無言で部屋を出て行った。このままだと、不快な霧を心中に引きずったまま、母と夕食を共にせねばならないかもしれなかった。寧二は家中に居ることに嫌になり、夕暮れが迫っていたものの、外出してみることにした。


1―2 夕暮れの道端


 夕暮れの中、寧二は道を歩いていた。周囲には、田畑、所々にレンガ造りの家、夕食時が近いからか家々の煙突から煙が上がっているのが見えた。

暫く歩いていると、正面から人が歩いてくるのが見えた。寧二の幼い頃からの友人・張浩士である。

 浩士は寧二の姿を見ると、手を挙げた。互いに友人である。寧二も釣られて、手を挙げた。浩士は言った。

「寧二、どうした。こんな時間に一人で」

 寧二は返答した。

「いや、ちょっと。家に居たくなくなって」

「何かあったか」

 寧二は浩士が友人だから、打ち明けた。話を聞いた浩士は

「うむ、なるほど」

と言いつつも、どのように寧二に返答して良いか、分からなかった。浩士は、寧二の幼い頃の友人とはいえ、寧二の家の小作人であり、それ故、然程の学もなく、そもそも、科挙には無縁の存在であった。寧二の悩みは、唐朝による圧迫があるから、とはいえ、浩士にとっては、地主層の贅沢な悩みであると同時に、小作農とは対立している層の人々の声であった。ただ、いずれも唐朝の圧迫に苦しみ、又、未来が見えないのは同じだった。両税法(年に二回の納税)の実施以来、どの家も唐朝の圧迫には苦しんでき来たのだ。

 寧二と浩士は、道の脇にある大きな石に腰掛けて、暫く話した。

「寧二、お前、どうしたい」

「どうすることもできない。科挙以外、どういう道があるのか、わからない」

 浩士は言った。

「俺には学はない。そもそも、科挙は、俺にとっては無縁の話だ。ただ、今の時代、昔の三国の頃に似ているかもしれないな」

 学がない、という割には学のありそうな事を言うので、寧二は少々、驚いた。寧二は浩士に聞いた。

「三国志の話をどこで聞いた。結構、物知りだな」

「幼い頃、時々来る講談師から聞いたじゃないか。それに、お前が得意そうに俺に聞かせたんだ」

 そういうこともあったな、と寧二は、昔を思い出した。立場は違えども、子供同士の友情関係は存在していた。浩士は更に言った。

「お前も分かっているだろう。最近は、藩鎮の奴等の収奪がひどい。唐朝の天子様は、勿論、俺は見たことはねえが、この状態じゃ、きっと操り人形だぜ。それに俺達は、皆、いつも、闇塩を買うが、闇商人の奴らは権力に潰されねえように、互いに武装しているし、それこそ、闇で大きな力になっているらしい」

 そのことは、寧二も噂とは言え、随分と聞いていた。今日の市場での野菜商人も、先日、そんな事を言っていたのだ。世の中の状況は、三国時代の幕開けとなる後漢末に似て来ていた。そんなことを考えていると、浩士が更に言葉をかけた。

「俺たち農民は、何時も損だ、こんな国、どうにか、なっちまえ、と思う。今のままの暮らしを続けていても、うだつが上がらないんだぜ」

 寧二は切り返した。

「だからって、どうするんだ」

「わからん。先は見えん」

 浩士のこの言葉は、劉備でも、曹操でもない、寧二や浩士、あるいは、一般の民衆の多くに共通の言葉に違いなかった。寧二は言った。

「お前、いつも農作業を頑張っているから、ある程度、体力には自信があるよな。今の暮らしが嫌なら、街に出て、働いてみたらどうだ。体力があれば、どこかが雇ってくれるかも」

 浩士は即座に行った。

「嫌だね。俺の家はもともと、逃戸(元の戸籍地からの逃亡者)だったんだ。朝廷に税が払えなくて、戸籍地を離れて、あちこち、彷徨った過去があるって、じいさんから聞いたことがある。今更、どこかへ行くあてなどないさ」

そうは言いつつ、浩士も現状からは、何とか逃れたいと思っているのである。寧二が科挙という体制の象徴に怒っているように、浩士も、形を変えて、既存の体制に怒っていた。

 さらに浩士が続けた。

「俺の友人の藩鎮兵に劉炎って奴がいる。劉炎は俺と同じように農民の出身なんだが、幼い頃、丁稚に出されて、長安の街の商人の家で働かされた。だけど、慣れぬ仕事で、商人の奴に、散々ひどい目に遭わされてばかりで、結局、藩鎮の兵士になったんだ。とはいえ、規律は乱れているし、各隊は、その隊の長を親分とする私兵の寄せ集めだ。給料も遅配するから、あいつも結局、生活は闇塩に頼っているところが大きい」

 市場での闇塩という存在は、唐朝側の存在である藩鎮の兵士にとっても命綱のようなものである。いくら取り締まっても、闇業者がなくならいのは、藩鎮等、権力の側としても、末端の兵の命をつなぐには黙認せざるを得ない、という事情にもよるのであろう。

 浩士は続けた。

「劉の奴が言っていた。別に俺は、今の藩鎮での身分はどうでも良い。食わせてくれるところなら、どこへでも行くってな」

 寧二、浩士、炎の三人は、地主、小作農、兵士といった現時点での立場の違いはあれども、皆、唐朝の既存体制に不満であることでは共通しているらしかった。

 浩士はさらに続けた。

「寧二よ、お前、どうする。後漢末の黄巾の乱みたいなことになったら、加わってみるか」

 寧二は、半ば、浩士の冗談と思った。つまり、後漢末の黄巾の乱のような反乱によって、唐朝を揺るがすなどとは冗談のような話と思ったのである。確かに、中国では、農民反乱が度々、繰り返されてきた。黄巾の乱がその代表的存在であった事は言うまでもない。しかし、唐朝とて、既に二百年以上の歴史を有していた。唐朝は存在そのものが当然であった。寧二にとっては、科挙に嫌気が差し、又、闇商人に見られるように大分、ぐらついてきているとは言え、唐朝が容易に倒れるとも思われなかった。

 そうこうしているうちに、日が暮れたので、寧二と浩士は別れた。それぞれが、嫌な家に帰らねばならなかった。


1―3 ある藩鎮兵


 浩士が家に向かって歩いていると、劉炎と出会った。炎は、藩鎮兵でありながら、甲冑もつけず、平民の格好をしている。

「炎、お前どうした」

 炎は答えた。

「塩を買った帰りだ。兵の格好をしていては、取り締まりと思われて、闇業者にも警戒されるかもしれないしな。兵営の外では、庶民の格好をするようにしている」

 別に驚くことではない。いつものことである。炎は言った。

「噂だが、この辺り一帯で、闇塩商人の大きな反乱が起こるらしい。俺たち兵士には戦う義務があるかもしれないが、給料も遅配、欠配で、塩だって、俺たちも闇屋に頼る始末だ。俺は、反乱が起きたら、そちらに身を投じるぜ」

 二人で話しているとはいえ、浩士は、何処かで誰かが聞いているのでは、と心配になった。

「おい、良いのか、そんなことを口にして」

 と思わず、言った。炎は言った。

「構わないさ。兵の中には、自隊から脱走する奴もいる。しかし、落ちぶれた民衆か

ら、代わりの兵など補充できるし、隊長だって、もともと、落ちぶれた農民の出身だ。隊長その人だって、今後どうなるかわからないし」

 世はそこまで乱れていたのである。

 炎と別れた後、浩士は自宅に戻ったが、夕暮れ時、寧二と話したように、先の見えない時代ではあった。しかし、後漢末がそうであったように、大乱の幕開けが迫っているのかもしれなかった。

 浩士が自宅に帰った頃には、炎も兵営に帰隊していた。隊長に塩を渡し、自分のいる隊の将兵、―といっても小隊だが―、の塩が確保できたことを報告した。

隊長は、自分の命令通りに兵が動いたことに別になんの礼も言わない。そうしてくれて当然、といった態度である。給料の遅配、欠配の上に、こんな人間関係では、心中、怒りも溜まってくる。幼い頃から、良いことの然程ない炎にとっては、一応の身分が得られた以外には、この藩鎮も、安住の地ではないようだった。

 その後、炎は、甲冑を着込み、当番として、与えられた持ち場の歩哨に立った。暫くして、少し離れたところを、馬に乗った伝令兵が、慌てた様子で兵営内に駆け込んでいく様子を見た。火急の要件のようである。

 間もなく事情がわかった。塩の闇商人たる王仙芝と黄巣という者が、ついに河北にて、反乱に蜂起したというのである。噂は正夢に姿を変えた。僖宗乾符二年(八七五年)夏のことであった。

 しかし、寧二や浩士、そして炎は、すぐには、それまでの生活から離れなかった。心中、何かしら未知の勢力への恐怖があったのかもしれなかった。

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