怒れる藍子
「無いさ。手紙も、メールも、一切無い。どこへ消えたのか、まるで見当もつかない。あの子が来るなら、ここかと思って、それで訪ねてみたんだけどね」
「この旅館の話は、綾汰から聞いていた、と?」
「そうさ。先週、ここへ寄る、という話は聞いていた。それで、工房へ帰ってきて、百合マヤと会ったら、次の日にはいなくなった、というわけさ。ひょっとして、ここで何かあったんじゃないかと思ったら、まさかあんたがいるとはね」
千都子は、藍子のことを睨んできた。ただでさえ印象は最悪な状態であったというのに、さらに評価は底の底まで落ちてしまったようだ。
「このまま、綾汰がいなくなったままだと、どうなる?」
「さてね。ただ、一応はうちの工房を通して受けた仕事だからね、最悪の場合、あたしが依頼主に頭を下げるしかないね」
「綾汰は、協会から処分とかされるのか?」
「よほど重いことでもしなければ、除名されるなんてことはまず起きないよ。ただ、この業界も狭いからね、依頼中の案件から途中で逃げ出した、なんて友禅作家に、誰が仕事を頼もうと思う? メディアにまで大々的に取り上げられたんだ。やっぱり出来ませんでした、なんて話が広まったら、もうあの子の作家生命は終わりだよ」
「そんな、言い方って、ないじゃないですか!」
ついに我慢しきれず、藍子は声に出してしまった。
一瞬、千都子の体から、真っ赤な炎が噴き出したように見えた。この先生が激怒するとここまで鬼気迫るものがあるのかと、藍子は縮み上がったが、怯んでいる場合ではない。
「そもそも、綾汰が何も相談しなかった時点で、先生にも何かしら落ち度があったんじゃないですか⁉ こんな風に、任された仕事を放り出して、行方不明になるような、そんな綾汰じゃないのに」
「面白いことを言ってくれるじゃないか。あたしが悪い、と言いたいのかい?」
「そこまで言うつもりはありません! でも、これじゃあ、あんまりにも綾汰がかわいそうだから!」
知らず知らず、涙がこぼれてきた。
あんなに酷いことを言われ続けて、プライドも傷つけられて、腹の立つ弟ではあるけれども、嫌いにはなれない。
いや、好きとか嫌いとか、そんな話ではない。
たとえ新しい父親の連れ子であったとしても、家族は家族だ。その存在が多少疎ましかったとしても、姉として、自分の弟が非難されているのを、黙って見過ごすことなんて出来ない。
「かわいそうとか、哀れとか、あんたが綾汰にどんな気持ちを抱いて同情しているのか知らないけどね、あたしにとってはどうでもいいんだよ。これは単なる仕事の話だけじゃないんだ、加賀友禅という大きなものに関わってくる、信用の問題さ」
「だったら、先生が支えになってあげるべきじゃないですか!」
「知らないよ。あの子だっていい大人だ。甘やかす気は、さらさら無い」
「……先生は、綾汰を見捨てるつもりですか?」
「誰がそんなことを言った」
千都子が、ギョロリと目を剥いた。
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