百合マヤ

 ちょうど、工房の前の通りに、一台のタクシーが停まっている。乗車賃の清算中のようだ。

 お客さんでも来たのかと思って、少し立ち止まって様子を見ていた藍子は、中から降りてきた人物の顔を見て、驚いた。


 話題の女優、百合マヤだ。


 かつては本名の宮守摩耶で、よく母に加賀友禅の振袖を発注していた、得意客の一人。今は、綾汰に舞台用の衣装を依頼している。


 声をかけようかどうしようか、迷ってしまう。

 最後に会ったのは、母の葬儀の時、藍子は当時一一歳だった。あれから長い歳月が経ち、すっかり大人になった自分のことを、果たして百合マヤが気付いてくれるかどうか、不安である。


 ためらったまま、何も出来ずにいるうちに、百合マヤは工房の中に入っていった。


「綾汰、本当に、あの人の依頼を請けたんだ……」


 テレビの特番で紹介された時は、スクリーンの向こうの話で、いまいち実感が湧かなかったが、こうして本人が工房に現れたところを見てしまうと、嫌でも本当のことなのだと認めざるをえない。


 手に持った巾着袋へと、目線を落とす。

 綾汰と自分では、やっている仕事の次元が違う。そのことに、ふと虚しさを感じてしまった。


「ま、仕方ないか。いまさらあれこれ考えても」


 どんな内容であれ、仕事は仕事だ。他人と比較して落ち込んだりしている暇はない。

 自分は、自分が依頼されたことを一所懸命やるだけだ。

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