第2話 第二生




 俺、田村仁が死んだのは32歳の夏だった。


 原因は日頃の不摂生に加えて仕事で3徹したのが原因だと思う。数年前まではもっと徹夜して働いていたから感覚がマヒしていたのかもしれないが、体に蓄積していた疲労が遂に限界を迎えたのだ。


 死の間際を今でもハッキリと覚えている。家に帰ってきた瞬間疲労からシャワーも浴びずベッドに飛び込んだが、次に目が覚めた時には既に体が動かせなかった。


 霧がかかったような意識の中でとにかく助けを呼ばねばと思ったが、全身は糸が切れた人形のように弛緩している。一人暮らしのため誰かが運よく見つけてくれるということもあり得ない。


 俺は正しく絶望した。これでは生きている間どころか死んだ後も暫くは見つかるまい。夏場に腐敗した肉体は放置され、体中の穴という穴から水は垂れ流されるだろう。きっと第一発見者は汚物を見るような思いで俺を見付け、死体を処理する業者へ連絡することも億劫になるに違いない。孤独で、惨めで、人の尊厳もなにもないような死に方だ。


 俺が死んでも悲しむ人間はあまり…いや、殆どいないだろう。家族とは家を出た時からほぼ絶縁状態だし、恋人もいなければプライベートを共有した友人もいない。


 唯一職場には長い間献身的に働いていたこともあって人間関係と呼べるものがある。だが、それも所詮仕事上の付き合いで俺が死んでから一週間くらいは悲しんでくれるかもしれないが、直ぐに本社から代わりの人材が派遣されて忘れ去られるだろう。他でもない、俺自身がかつて退職した同僚のことを忙殺される日常の中で忘れ去ったように、俺のことを憶えていてくれる人間もまた、一人も居なくなるのだろう。


 (…臭い)


 他の器官はロクに働かないのに何故か鼻だけは敏感に腐臭を感じ取る。これは一体何の匂いだろう…片づける気力も無くして洗面所に放置している生ゴミの匂いがここまで漂ってきているのだろうか?


…いや、これは俺自身の匂いだ。嗅ぐ者の瑞々みずみずしさを奪い去るような、汗と砂(すな)埃(ぼこり)を更に腐らせたような…卑屈で諦観を誘う酷い匂いだ。


 (嫌だ…死にたくない…、こんな…こんな死に方…っ!)


 今までの思い出が浮かんでは消えていく。思えば生まれてから今まで何かにがんじがらめにされ続けたような人生だった。自分では必死に抗って生きてきたつもりだったが、何一つ成し遂げられなかったことへの後悔、虚しさばかりがどす黒く心を覆っていく。


 俺は生きた意味とは何だったのだろう。いや、こんな惨めな結末を迎えるのなら何故生まれなくてはならなかったのだろう。


窒息しそうな悪臭にまみれ、何一つの救いを見つけられないまま俺の人生は幕を閉じた。






                ◇






 深い水底から浮上するような感覚と同時に沈むような眠気が繰り返されているのを感じる。かなり時間がたっているような気がするが、猛烈に襲ってくる睡魔には抗えず眠りつく。


 次に意識が昇り、自我が芽生えた頃には何もかもが変わっていた。


 「見て、目元なんてアナタにそっくりよ…なんて可愛いのかしら」


 「ああ…それに医者の話ではここまで泣かずに落ち着いているのは珍しいらしい、何となく言葉も通じているような気もするし賢い子なのかもなぁ」


 目が覚めて初めて目にしたのは心優しそうな男女だった。二人とも映画に出て来る俳優のような美男美女で、投げかけてくれる視線や言葉には親愛の情を感じる。


 「あぅ…たっ!?…?!」


 声を出そうと思い失敗し驚き、自分の手の小ささに気付き二度驚く。体が赤ん坊になっている!


 夢でも見ているのかと思ったが、目の前の親らしき人物たちの触れる感触も生々しい、前世の死の記憶もこれが紛れもない現実だと教えてくれる。


 …どうやら俺は現世にまた新たな生を得て戻ってきたらしい。それも、見ず知らずの家庭にいわゆる転生という形で。




                ◇




 転生してから数か月経ちだんだんこの家庭のことが分かってきた。


 「はい、あ~ん♪ん~!綾音ちゃんはいつも食べるのがお上手ですね~」


 今食事を食べさせてくれているのは転生後の母親、鳴上(なるかみ)静(しず)香(か)。旧華族出身のお嬢様でよくコロコロと笑う可愛らしい人だ。


 我が家では何人かの使用人を雇っているが、子供の世話を面倒がらずに殆ど母親一人でしている。優しく性根は真っすぐで、いるだけでその場が明るくなるような不思議な雰囲気を纏(まと)った人でもある。


 この場所…子供部屋として与えられている部屋の面積もかなり大きく、置かれている家具や調度品もかなり高そうである。元1LDKで生活してた身としては今の時点で前世より幸福だといえてしまいそう。


 「今日も残さず食べれて偉いね~!はぁ~い、ごちそう様でしたぁ~♪」


 この人には日常を何かに追われている人間特有の余裕の無さが全く感じられない。専業主婦であり、一日の内多くの時間を共有して何の隔たりも無い愛情を日々注いでくれる。


 (こんな幸せなことってあっていいのかな…)


 優しい母親、新しい衣服、栄養を考えられた美味しい食事、清潔かつ美しい部屋…。


 想像やフィクションでしか知らなかった不安の無い世界。家族や使用人の間で交わされる会話一つとっても品格や知性を感じるし、親戚や近所から貰うお歳暮が一ケース数十万の名産品だったり、元の生活とは何もかもスケールが違って毎日驚くばかりだ。


 (この空間にいると…何だろう、根拠のない自信に満ち溢れて来る気がする)


 赤ん坊として同じ家で寝ているだけなのに、すごそうな人たちに囲まれて生活しているものだから何となく自分も凄いような気がしてくる。だが、今世で本当に驚くべきことはこの生活水準の変わりようでは無く自分の体にある。


 「は~い綾音ちゃん、そろそろおしめ代えましょうね~♪」


 (うっ…)


 綾音という名前、長めに整えられた髪、そしてたった今下半身を脱がされてもかつてあった「それ」が確認できないという事実。


 恐ろしいことに俺は女として転生している。Transgender…いわゆる性転換という奴だ。


 母親も父親も娘の体の中にまさか成人男性の人格が入っているとは思う筈も無く、女児用の服やおもちゃを当然のように与えてくる。赤ん坊は男でも女でも性別関係なしに可愛がられるものかもしれないが、こう毎日かわいいかわいいと言われ続けるとだんだん妙な気分になってくる。


精神は体に引っ張られると言うが私は…じゃなくて俺は、この先女性の体で生きていく中で果たして男の心を保てるのだろうか?


 (いやいや…何を弱気な、これまで30年以上培った人格がそう易々と屈してたまるか)


 これから年をとる事に女らしい肉体や思考に変わっていくことは容易に想像できる。だが、大きくなっても髪を短くしたり、胸を潰すことで男らしさをある程度保つことは不可能ではあるまい。


 例え肉体としての性別は変われども、男としての誇りを決して忘れはしない!


 (女体化に負けはしない!絶対に!!)


 母親におしめを代えてもらいつつもそう胸に誓う俺であった。




                ◇




 「パパ~!私あの水色のワンピースがいい!!」


 「おーそうかそうか、欲しいものは遠慮せずにどんどん言いなさい」


 『女体化TS』には勝てなかったよ…。


 転生してから既に6年が経った。月日が経つ度に髪を伸ばし、着る服もスカートやフリルの付いたカワイイ服を好んで着るようになった。女の子らしい日常を辞められない。


だっておしゃれが楽しいんだもん。仕方がないじゃない。


 パッチリとした二重、流れるような黒髪、スラリとした肢体、美形な両親から受け継いだと思われる遺伝子は早くも容姿に現われ始めている。優秀な素材には何を足しても映えるのか、周りの人たちは私が着飾る度に可愛いがってくれる。


 前世では最終的にはともかく、学生時代に虐められていた原因の一つは容姿だ。そんな私にとっておしゃれという人に好かれるための努力が、ストレートに結果として反映されるということ自体まるで奇跡のように感じるのだ。


 誰かに出会い、人の輪に入ろうとするたびに嫌がられ、それまで楽し気に話していた人達が一瞬にして真顔になる。調和を乱す自分という不完全な存在を前世では自ら呪わざるを得なかった。だが、今は違う。人前に出ることも、誰かと話すことも、今は楽しくて楽しくて仕方がないのだ。


 …もう、関わる全てを不幸にする異物ではなくなれたのだ。


 「この前のチェロコンクールで優勝したお祝いだからな、何着でも買ってやるさ」


 機嫌よさげにそう言ってくれるのは今世の父親鳴上是一なるかみこれかず、つまりパパである。代々大臣や官僚を輩出している名家の出身で、彼自身も現在経産省に務めている。


 「ありがとうパパ…大好き」


 「いいんだよ、綾音は普段からいい子だからね。妹のお世話をしたり、家の手伝いを進んでしてくれていることもママから聞いてるよ」


 普通なら6歳はまだまだ遊びたい盛りの年齢かもしれないが、こんな恵まれた環境に生まれ生活させて貰ってることには感謝しかない。私が出来ることで今の家族が喜びそうなことなら何でもしたい。


 「チェロも習い始めてから触らなかった日は無いと聞くよ、頑張ったなぁ」


 知育教育の一環なのか、ママが音楽を好きなのか、あるいはその両方が理由で習い事として幾つかの楽器を習わされている。元々音楽は好きで、前世では時間的にも経済的にも余裕が無く何も出来なかったが、常々機会があれば何かの楽器を演奏したいと思っていたのだ。


 中でもチェロはお気に入りで、大好きな映画のワンシーンで使われており前世ではそれを見返すたびに聞き惚れていた。ヴァイオリンと比べて重く女児の腕では支えづらいため最初は苦労したが、誕生日にママが特注品として軽量のチェロを買ってくれたのだ。


 所詮は子供の手習いだと軽い気持ちで楽しんでいた私は感謝するより先に青ざめた。高い買い物をさせてしまったのではと心配したが…


 「大丈夫よ、そんなことより今の演奏ママ隣で聞いていたけど…綾音は天才かもしれないわ」


 そう真面目な顔をしてプレゼントしてくれた。流石に親バカなのではと思ったが、チェロの練習も好きで苦にはならなかったし、コンクールに優勝した今となっては本人ですら気が付かなかった才能を感じ取ったのかもしれない。


 …正直な話、優勝した時に一番驚いたのは私自身である。生前の知識を引き継いで使える勉強面ならともかく、音楽的な才能を評価されるとは夢にも思わなかった。演奏した曲も、そこに乗せた感情も決して明るく楽しい類のものではなかったのだが…他の子と違い物珍しかったからそれが受けたのだろうか?


 「帰りに何か新しいアニメ映画でも買って後で一緒にみようか」


 「うん!」


 我が家の居間では薄型60インチのテレビが備え付けられている。前世で愛用していた小型ブラウン管テレビとは似つかないどころか多機能すぎてもはや別種の家具である。


 私がよく居間でアニメ映画を見ていることもあってパパの休日はよく家族一緒に作品を鑑賞して楽しむ。それが一家団欒の時間にもなっていた。


何を隠そう、私の前世唯一の趣味は映画鑑賞なのである。来年からは小学校に上がれるし、そろそろアニメ映画以外を見ても怪しまれることは無くなるだろう。


 「あはははははっ!!」


 「こらこら、走ると危ないよ」


 未来を想像して楽しくなり、訳もなく走り出してしまう。


 これからの人生が楽しみだ。




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