第38話 GAMEの行方 3
都心から各駅停車で30分足らずのベットタウン。
荒川河川敷の公園のベンチ。
チカチカと点滅する電灯の明かりに包まれたミキは、鼻を真っ赤にしてわんわん泣いておりました。
綺麗なお星さまも、季節を知らせる鈴虫の音も、水面に浮かんだ月光のダンスも、希望をなくしたミキの慰めにはなりませんでした。
離れの駅から、最終電車の案内を告げるアナウンスが流れても、ミキの涙が止まることはありません。
ひとりぼっちでした。
どうやってこの場所に辿り着いたのか、どうして此処にいるのか、今日の為に背伸びをして買った濃い目のルージュはどうなっているのか、チークやネイルは可愛いままでいてくれてるのかー。
そんなものは、もはやどうでも良くて。
「ほら、俺の言った通り犬の方が人間に従順だろう。柴犬も流行りだからさ、3回払いにしてもらったけど、散歩は君に任せるからお願いね」
「いやよ、あなたがやって頂戴」
「おいおい、猫の次は犬が良いって言ったのは君だろう?」
「それは、7つ子だったからよ。トイレ掃除だけで大変だったんだから」
「それじゃあさ、ペットシッターでも雇うか!」
「それいいわね」
頭の中で輪廻する、盗み見た米倉英雄と妻との会話。
庭でじゃれる子供の柴犬。
元は自分たちの遊び場だったのに・・・。
あぶらたにの7つの子たち。
いちばん末っ子のミキは、米倉と出会った当初から、懐かしい我が家の匂いを感じ取っておりました。
雷が鳴ると逃げ込んだベッドの裏。
みんなで毛づくろいをし合った大きな出窓。
トイレの後に走り回ったリビングと和室。
ゲージで囲まれてはいたけれど、週に一度のお庭での運動会。
顔は覚えてなくとも、市議会議員・米倉英雄は、間違いなく7つの子たちの元・飼い主だったのです。
匂いが全ての想い出を蘇らせてくれました。
懐かしい景色をみんなに見せたら、バラバラになりかけた兄妹の絆は元通りになるかも知れないし、米倉夫妻・元飼い主だってきっと喜んでくれるだろう。
ミキは心をときめかせながら、会員制クラブ・美遊兎の帰り道、米倉の後をそっと着けたのです。
月が綺麗な夜でした。
「猫なんて薄情なもんだから、やっぱ犬だろ」
「そうよね・・・でもあなた?」
「ん?」
「北北東の島のペットホテル、後々問題にならないかしら? 大事な選挙も控えているんだし、このご時世、動物愛護団体とか、慈善事業団体とかうるさいじゃない・・・」
「大丈夫だよ。あちらさんにはちゃんと土産はつけといたから」
「ならいいんだけど・・・」
ミキは、子供の柴犬とじゃれ合いながら冷酷な話を続ける2人が許せないんじゃなくて、飼い主をひたすら想い続けていた自分が許せませんでした。
手のひらに刻まれたあの日の十字架は、涙で見えなくなっていました。
周りからは天真爛漫に見られる一方で、そのそつのなさは信頼度が高く、関わる全てのみんなに愛されたミキは、実は努力家であり我慢強い女の子でした。
笑顔を絶やさないでいられたのは希望があったからで。
猫は直ぐに恩を忘れる。
と云った俗説を覆したい想いもありました。
何もかもが不自由な関係性で繋がる社会。
優しさとか絆とか、温もりや想いよりも、権威による忠告で動かされる世の中で、人間に生まれ変わったばかりのミキは実にちっぽけな存在でした。
ススキの葉が、さらさらと音を立てながら風にあおられています。
ちょっと前までは、河川敷に広がる多年草のジャングルの中を駆け回っていたのに、今では偉そうにそんな世界を見下している。
目線が高くなっただけで。
偉そうに。
2本足で踏みつける。
踏み躙る。
踏み潰す。
ヒトに化けた自分。
散々泣きはらして喉が渇いても、コインがなければ飲み物さえ手に入れることが出来ない不都合。
そんな世界で、これ以上生きて行く自信はありませんでした。
ミキはふらふらと立ち上がりました。
真っ赤な鼻を手の甲で拭って、足元のくぼ地の前で跪いて、顔をゆっくりとその水溜りへ近付けました。
取り戻したかったのです。
柳ねこ町3丁目の自分を。
仕合せだったあの頃を。
だけど、水溜まりに映る顔は所詮は創り物です。
ちょこんと上向いた鼻や、厚ぼったい唇も本来の姿ではありません。
目にしたもの、聞こえた音、記憶の匂い、触れた指先、心の動き、生きていること、死ぬということ、存在しているということ、それら全ての理由は、テンシキの儀によって曖昧に放置されたままでした。
思考を放棄した愚行を、ミキは後悔していました。
人間の姿のまま舌をそっと突き出して、四つん這いになって水溜まりをペロペロ舐めていると、不思議と救われた気がしました。
その時でした。
背後から、拍手と笑い声が聞こえて振り返ると、ふたりの若い男が近付いて来るのが見えました。
「おねえさん何やってんの、酔ってんの?」
「一緒に遊ぼうよ、あ、可愛いじゃん」
ミキは、恐ろしさのあまり動けないでいました。
猫の時代なら、高い木の上に登ってやり過ごせていた恐怖も、鋭利に尖った爪と、バランスを取る為の尻尾を失った今となっては、ぶるぶる震えるしか方法はありません。ミキの額には大粒の汗が滲んでいました。
男達はいやらしい笑い方をして、ミキの前後に立ち塞がると。
「車行こうぜ」
と、ひとりが言って、その華奢な肩に手をかけました。
咄嗟の出来事に、ミキの身体は反応しました。
ぬかるんだ河原を走って、舗装されていない堤防を駆け上がり、遊歩道を突っ切って国道へ出ました。
男達の声が聞こえなくなっても、ミキは走り続けました。
そして、交差点の真ん中でその身体は大きなトラックに跳ね飛ばされてしまいました。
街路樹の上に、枯葉みたいに落っこちたミキは即死でした。
月が綺麗な夜でした。
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