第15話 神様トンボとマリーゴールド
たくさんの猫扉をくぐり抜けて、みたらしがやってきた場所は、綾野姫実篤邸宅の離れで御座います。
日本庭園の池のほとりにその蔵は御座いまして、元々は酒蔵でありました。
言い伝えによると、この蔵の中の酒樽に落ちて命を落とした猫というのが、かの有名な吾輩。
神聖なる赤レンガ造りの蔵を、満月のミルク色がぼんやりと照らしています。
所々に剥げた塗装と、頑丈に施錠された大きな青銅の扉には、長年野ざらしにされた錆まみれの鎖が、幾重にも連なってうな垂れているかのよう。
何のためにあるのでしょうか、低すぎる煙突にも絡まる鎖。
みたらしは、ぼわっと毛を逆立てて、隅っこに設けられた猫扉の前で丸くなってから言いました。
「出ておいでよ。ちゃんとわかってるんだから」
すると、石灯籠の隅から雪之丞がひょっこりと顔を出しました。
照れくさそうに舌を出して、タッタタッタとみたらしに近付くと。
「勘が良いわね。恐れ入ったわ」
と、悔し紛れの毛繕い。
「ぼくだって猫のはしくれだもん、はじめからお見通しさ。でも、それも今夜までだけどね」
「ふうん」
「で、雪之丞はどうするんだい?」
「え?」
「人間になるのかい?」
「私は・・・」
「結構毛だらけなの?」
「人間なんて・・・だけど・・・」
「だけど?」
「どうしてもって言うんなら、なってあげても良いわよ」
「え?」
「心細いんじゃない・・・?」
「え・・・でも・・・」
「もお、頼りにされても良いのよ」
雪之丞は、本心を見破られない様に一生懸命毛繕いをしておりますが、尻尾は正直で御座います。
緩やかに左にぺったん、右にぺったんとご機嫌うるわしくウキウキワクワク。
もう、恋する気持ちが抑えられません。
人間になって、佑月から翔也の心を略奪しようと考えている乙女猫は、実はと云うと変幻したくてたまらない。
だから尻尾は、いつまでも経ってもぺったんぺったん地面を叩く。
それにしても、鈍感なのがみたらしで御座います。
「ぼくだけじゃ確かに淋しいから、雪之丞と一緒なら心強いけどさ・・・」
「うんうん」
「無理強いするのもあまりよくない気がするんだ、やっぱり自分で・・・」
「決まり!」
「え、良いのかい?」
「良いわよ。じれったいんだから。仕方ないもん、頼まれたんじゃあ」
「やったやった」
雪之丞はえへへと笑って、みたらしの身体をペロペロ舐めてげました。
ざらざらの舌で綺麗に仕上げられていく毛並み。
雪之丞の毛繕いが大好きなみたらしは、猫タンクになってまどろみながら夢心地。
満月に照らされた2匹の影に、ひらりはらりと近付くシルクハットの神様トンボ。
それが雪之丞の目の前で、上昇下降を繰り返すのですから、どうにも本能が止められない訳でして。
グググッと姿勢を低くして狙いを定め、右腕をそぉーっと伸ばしてからの猫っ跳びしゃらり!
神様トンボも負けてはいません。
ウインクしながら、はらひらと舞い踊る。
細長い身体はエメラルドグリーンに光り輝いて、黒紫の羽根は月明りでもって虹色に輝いています。
その美しさは宝石さながら。
みたらしもつられて、赤レンガの蔵の前。
愉快なおにごっこの始まりです。
神様トンボを追いかけながら、時にじゃれ合ってがぶり。
疲れてはひっくり返ってごろりんこ。
そろりと近付くみたらしを、脅かしてやろうと顔を洗うのは雪之丞。
先に仕掛ける戦略猫に、男みたらし涙顔での大ジャンプ。
神様トンボはにんまり笑っておいでです。
花壇いっぱいに咲きほこる、見事なまでのマリーゴールド。
オレンジ、山吹色のくしゅくしゅも、風に吹かれて唄っています。
聖母マリア様の黄金の花と、神様トンボのシルクハットとシルエット。
転生したくて仕方のない2匹の猫が奏でる、月夜の素敵なシンフォニーはしばらく続いたのでありました。
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