3.宰相閣下は通いまして。(後半)
――だが、まあ。
フィアナに対して異様に前のめりというか、隙あらばラブアタックをかましてくることをのぞけば、エリアスはいい客だ。忙しいのは本当らしくあまり長居はしないが、短い間でもきちんと食べ、きちんと飲み、きちんと金を落としていく。
それに、最初のインパクトがとんでもなかったのが逆によかったのか、「フィアナ狙いのお偉いさん」と面白がられ、この短い期間ですっかり常連の客たちに受け入れられている。……正直、パン屋のオヤジと仕立て屋のオネエと宰相の3人が寄り集まって何を話すことがあるのかフィアナにはさっぱりわからないが、本人たちが楽しそうなのだからよしとしよう。
それだけじゃない。
「見て見て、あの人よ」
「まあ! 噂以上に素敵な方ね」
身を寄せてひそひそと囁きあうマダムたちに、フィアナはぐっと拳を握る。ここ数日、これまで顔を出さなかったような奥様方が、グレダの酒場に顔を出すようになったのだ。
その目的がエリアスにあるのは、火を見るよりも明らかである。やはりイケメンは共有財産。ひとたびイケメンが足繁く通う店だと噂が流れれば、女はきゃっきゃと足を運ぶのだ。
と、本人も意図していない(というより、気にも留めていない)部分で、エリアスはグレダの酒場の売り上げアップに貢献してくれている。ちょっとばかり言動が残念でツッコミが追い付かないのを我慢すれば、むしろ店にとってはプラスとなる上客だ。
(いやあ。今日もしっかり、稼がせてもらっちゃったな)
そろそろ帰るというエリアスを見送りに外に出ながら、フィアナは今夜の売上を思ってほくほくとほほ笑んだ。噂のイケメン宰相を覗きに来たご婦人方も入れて、今夜も店は満席。前週に比べて売上は大幅アップとなっていることだろう。
そんな風に喜ぶフィアナの内心は知らずに、エリアスもまた幸せそうに微笑んだ。
「今夜もありがとうございました。今日も楽しいお酒と、美味しい食事と、天使で可憐でマイスウィートハニーなフィアナさんでした」
あ、やっぱりこの人面倒くさい。そう思ったとたん、フィアナのなかで『良いお客さん』から『面倒くさくて残念な変な人』へと天秤の秤が大きく振れた。
もはや、もう何も突っ込むまい。そう固く決意をして、フィアナは笑顔のまま彼の背後の馬車を指し示した。
「楽しめたのなら良かったです。さ、さ。明日も早いんですよね? 早く馬車にお乗り下さい。で、お風呂入って寝てください」
「フィアナさん……。貴女を置いて帰ろうとする無慈悲な男を、そのように気遣ってくださるなんて……。貴女はどこまで慈しみ深いのでしょう……」
「いえいえ。可及的に速やかにお帰りいただきたいなあって、それだけですよ?」
「ああ! 素直じゃないところも、なんてお可愛い……」
「照れ隠しとかじゃないですから! どこから来るんですか、そのポジティブマインド!」
前言撤回。スル―するには突っ込みどころが多すぎる男、それがエリアスである。
どっと疲れてしまって、フィアナは大きくため息を吐いた。これ以上エリアスと話していたら、どんどん彼のペースに呑まれてしまう。サジを投げたフィアナは、くすくすと楽しそうに笑うエリアスを置いて、くるりと身をひるがえそうとした。
「じゃあ、エリアスさん。私、お店の手伝いがあるので戻りますね。どうぞお気をつけて」
「あ、気を付けてください。後ろに看板が……」
「きゃあ!」
エリアスの制止は、一瞬間に合わなかった。
ものの見事、店の看板の足にけつまずいたフィアナの体は、ぐらりと後ろにかしぐ。転ぶ! そう、ぎゅっと目を瞑った矢先、背中がとんと何かにぶつかった。
「大丈夫ですか、フィアナさん!」
心配そうに降ってきた声で、エリアスが背中を受け止めてくれたのだとわかった。おかげで転ばずには済んだが、そのかわり彼に寄りかかるような姿勢になってしまったことに、フィアナは慌てた。
(ていうか、エリアスさん、やっぱり背が高い……)
いつもふざけた言動ばかりで忘れてしまいがちだが、こういう姿勢でいると、エリアスが幼馴染をはじめとする近所の子たちとはまるで違う、フィアナよりもずっと年上の大人の男であることに気づかされてしまう。
「す、すみません! ありがとうございます」
ぽんと顔が熱くなる心地がして、慌ててエリアスから距離を取ろうとする。けれども、その肩をエリアスに押さえられてしまった。
「エリアスさん、あの……?」
なぜ、放してくれないのだろう。戸惑い振り返ろうとするフィアナだったが、返ってきたのは奇妙な問いかけであった。
「知っていますか? 一輪の薔薇の、花言葉を」
「花言葉、ですか?」
突拍子のない問いに、フィアナは動きを止めてしまう。――だから、身じろぎひとつすることなく、耳元にエリアスが唇を寄せるのを許してしまった。
「『私には、あなたしかいません』」
「っ!」
低く、つややかな声が耳を打ち、フィアナの背がびくりと跳ねる。思わず手を振り払って飛び退けば、いつものようににこやかな――それでいて、どこかぞくりとする色気を漂わせたエリアスがそこにいた。
月夜を背負い、美しい男は一層深く唇に弧を描いてこう言った。
「私、このまま『いいお客さん』で終わるつもり、ありませんから」
それではおやすみなさい、と。艶美な笑みをひとつ残し、エリアスが馬車に乗り込む。からからと車輪が回り始めて、初めてフィアナは我に返った。
(な、な、な、なに、今の!?!?!?)
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ、と痛いほど主張する胸を押さえ、フィアナはどうにかその場にへたりこんでしまいそうになるのを堪えた。
うっかりトキめいてしまった。あのエリアスに。変態的なほどに前向きな残念イケメンのエリアスに。アピールすればするほど好感度が下がっていくことに定評のあるエリアスに。
だ、だが、いまのは不可抗力だ。あれだ。目と鼻の先にクモが落ちてきたら、あるいは温いはずだと思って足先をつけた風呂が水風呂だったら、誰でもその場で飛び上がり、悲鳴をあげるだろう。それと同じ、同じでしかないのだ。
同じでしかないのに――!
なぜだが無性に悔しくて、声にならない悲鳴をあげながら、フィアナはお月様の下でひとり地団駄を踏む。一方のエリアスは、そんなフィアナの姿は夢にも思わず、ご機嫌に鼻歌を歌いながら馬車に揺られていたのだった
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