ほんき

「いきます」


 高らかに堂々と。いっせーの声が響く。

 ゆっくりと地面を踏みしめるように助走が始まる。自信満々に一歩一歩をしっかりと走るよなぁ。細かくピッチを刻んで、風に乗るように加速する。ポン、っと踏み切って身体が投げ出される。あ、空に生まれた。

 ぱっと砂場の上に、紺色の鳥が羽を広げた。急にいっせーは知らないになった。このまま捕まるんだ、オレは。高いところからあいつはオレを捕まえに来ちゃうんだ。


 ざぁっと砂が巻き上がって、いっせーが着地しても、あの一瞬の跳躍が、何度も何度も頭にこびりついて繰り返される。これはもう、永遠だ。


 もしかしたら、そう、きっと、うんとすごいんだろうよ。オレが見ていないだけ、それでもいっせーは汗だくになって、いやオコガマシイか。知らないだけで、たくさん努力ってコトをしていたんだろうからさ。今日までの日を想像でしか出来ないよ。倒れるまで走ったかもしれないし、泥だらけで跳んでいた日もあるだろうよ。


 さよなら、いつかの予想。

 まっさらにされたよ。自慢じゃないか。


 路風の紺色の背中は誰よりも大きい。

 オレが伸ばした手の向こうにいるよ。ねぇ、それはほんとにオレの相棒? 別人みたいに立派で誇らしくて、悔しい理由は考えるのもイヤかもしれない。

 届かないなんて、妄想であってくれ。

 オレはいつだって、いつだって。それでも逃げているだけに変わりはないか。わかっちゃいるけど認めたくないな。


 審判の声がノイズがかって聞こえた。こんなにも現実味が無いのに、数字だけは理解出来てしまうんだ。


「いっせーが誰よりも遠い人になるのかよ」


 自分の記録を塗り替えられた。そうか、黒板の数字も順番も変わって、いっせーの、今の記録がいちばん前に来るってことか。ちょっと待って、信じられるか。うそでしょ、なんて言ったとしても、離れて、離れていってしまっている。そう、お前はもう向こう側に飛び立ってしまったのか。

 置いてかないで、なんて泣き言も、腕にしがみついて引き止めたとしても、いっせー、お前は後ろを振り向いてなんてくれないんだろう?


「リク、言ったろう? 次の王さまはイッセーなんだって。どうするよ?」


 くちびるを噛んで、無理に笑って目を細める。ザワザワする胸を知られないように応援席のはるとを見る。


「ほんっとうに、いっせーはやってくれたよ。すげぇやつだ。王冠は今だけくれてやる」


 その気にさせたのか、ちっぽけなプライドをへし折ってきたのか。それは飛ぶまでオレにもわかっちゃいないけど、なぁ、いっせー? お前にオレはどんな風に映っているよ?


「ゼッタイオージャってやつなんだろ? リク、お前は負けられないな。テンカ取り返せよ」


「期待してくれんのは、はるとだけじゃないからね。春ヶ丘の若松は負けちゃダメなんさね 」


 ふっと息を吐いて、小さくため息。何、自分で首絞めてんだか。期待されて、そのイメージに沿うように、でもつまんないからそこそこに。枠から外れなければいいんでしょ、って。

 あぁ、でも負けたくないな。まだ。いちばんのまま、落ちぶれたくないな。捕まりたくない。春ヶ丘の若松利久をこのまま殺せるか。オレの天下を終わらせるつもりはない。


「利久、悔しかったら勝ってみろよ」


 後ろを振り向くと顔まで砂まみれのいっせーがいた。

 さも、あの記録は当然です、なんて顔しやがって。腹立つ。

 鼻で笑いながら、右の親指で首の前をシュッとスライド。口パクだけどはっきりと、二文字。お前言ったな?


「オレは死なねーよ」


「そうこなくちゃ」


 見返そう。そんな風にいっせーに対して思う日が来るなんて思わなかった。

 オレだって戦える。じゅうぶん立派に勝ってやるよ。いっせーに捕まっても、逆にオレが喰ってやるよ。こんなもんじゃない。オレだって高みに行ける。


 音を立ててウィンドブレーカーのチャック開ける。身体を動かしながら助走位置に着く。

 浅く息を吐いて、目を瞑ると、いっせーが飛んだ一瞬が見えた。小麦色に焼けた手足が紺色のユニフォームから伸びて、高く遠く、ぱっと飛んだんだ。

 オレは走って、踏切板を蹴って、あんな高い空を飛ぶことが出来るだろうか。跳んだ時に手を伸ばせば、一瞬だけ見えたいっせーの羽すらだろうか。オレはまだ空を知らない。いっせーだけが知ってるなんてそれは、なんてうらやましいことなんだろう。


「いきまぁす」


 コツコツと、右足のつま先で地面があることを確認する。

 さよなら、オレは空に向かって飛ぶ。

 鳥はどうやって空を飛ぶのか知らないけど、凧揚げの凧は思い切り走らないと風に乗らない。空に上がらなければ高くにも行けないし、遠くにだって行けやしない。

 走れ、走れ、走れ。もっと早く。風に乗れ、飛び立つ準備だ。

 加速して、今、ここ。カッ、と右足の親指の付け根、スパイクのピンが踏切板を思い切り蹴った。

 走れ、飛べ。もっと高く。もっと遠く。伸ばした手足をさらに向こうに。あの一瞬の、紺色の広い背中はこんなところにいなかった。まだ、まだ!

 ズザァ、と転がるように砂場に着地。

 歓声とどよめき加減が「飛んだのかも」と思わせた。

 身体を起こして、後ろを振り向くとちょうど旗が降りた。


「バツ」


 赤旗。ファウルだった。記録は測ってもらえない。


 くそ、くそくそくそくそ!!

 なぁ? オレは今、飛べていたのか? あの一瞬のお前に追いつけていたのか、届いていたのか、こえたのか??


 踏み切り位置を教える後輩の声も「いらない!」ってさえぎって、砂も払わずにまっすぐにずんずん歩く。今は他にいらない。


「いっせー!」


「やっぱり利久はかっこいいよ。あと一本だな」


 はるとのいる応援席の真下。ユニフォームにウィンドブレーカーを肩から羽織っただけのいっせーは、とっても満足そうに笑った。赤なのに。ファウルなのに。二番手、いっせーの次なのに。なんて言葉かけてくれるんだよ。鬼ごっこで、オレにタッチした後の顔と一緒じゃんか。

 捕まった。完全にいっせーに捕まった。


「本気だす。いっせーに勝つ。絶対勝ってやる」


「望むところだ!」


 逃げて、逃げて、いっせーと目を合わせすことから逃げていた。失敗を恐れて、そこそこで満足して、高みを目指すことから逃げていた。一位じゃなくても、周りのレベルに馴れ合うことがいいと思って、いちばんにこだわることから逃げていた。

 ずっとそばに居たんだ。いっせーはオレのすぐ後ろを追いかけていたんだ。気付かないふりしていただけだ。ばっかだなぁ、オレ。距離が近くなってもよそ見して、 手を叩いて鼻歌歌って、捕まらないだろうってゆっくり走って。


 あと一本しかない。ばかだなぁ、オレ。

 今までのふらふらした態度も、真面目にしなかった練習の日々も、くそ。諸共死ね。気付くのが遅すぎるんだよ、ばぁーか! こんなにも面白いことから目を逸らすなんてな!

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