むこうがわ
「あ、これはまずい」
久々に焦った。同時にワクワクした。身体の芯が沸騰するように、心臓がドクドクと波打つ感覚。この一瞬で、身体中の毛がゾワッと太くなったと思う。
いっせーがPB出した。パーソナルベスト。自己ベストってヤツ。しかも今日二回目の! これはまずい。大変まずい。油断してなかった訳じゃない。一番あいつに期待してたけど、それでもだ。
頭上から声が降ってくる。
「リク、イッセーにそろっと食われるんでねー?」
バッと見上げれば、二階応援席にいるニヤニヤ顔のはるとと目が合う。子犬みたいなきゅるきゅるお目目のくせに、きっとはるとは何でも知っている。
「リクさぁ、もう、あぐらかいて待ってるのは出来ないね。王さま出来るのもあとちょっとよ?」
サァーって背中が冷たくなって、汗がドバっと出た。なんだっけ、これ。血の気が引く、って言うんだっけ。
はるとの言うような王さまではないよ、なんてきっとオレは言っちゃダメな側な人間。あぐらなんてかいた覚えないけど、きっと周りにはそう見えてて、自分が思っていないだけできっとそうなんだと思う。
天才。きっと期間限定でオレはこっち側。
さっき大会記録出した路風の、まきくんはホンモノだけど、でもオレときっと
オレは身長が人よかあって、たまたまバネがあって、ひょろっちぃけど、身体も丈夫だったからケガもしない。だから、ちやほやされているだけ。春ヶ丘の先生や先輩たちも、オレがまじめに練習しなくても、そこそこ良い結果出すから、だまーって見てるの知ってるよ。
別にいっせーを凡人とか思ってない。
だけど、心のどこかで負けるはずない、って気付かないうちに見下してたのかも。自分の方が幅跳びも、陸上の才能あるもんだと思ってた。
確かに、さっきはるとに言った「オレの一番の友だちで、ライバルで、相棒で、アコガレ」も心からの言葉だし、今みたいにすっげぇ記録出せば「さすがオレのいっせー」っていう気持ちにもなる。
中学生の今は身長も立派な「才能」になる。別にオレは他が全然ダメってわけじゃないと思うけど、でも、オレのいちばんの武器は中学生のわりに高身長であること。
いつの間にか出来た身長差は、今のところ一〇センチちょっと。この先、いっせーがどれほど伸びるかは分からない。いっせーに追いつかれるまで、それまではちょっこしオレのが先を跳んでいられると思っていた。
努力に負けるかもしれない。
誰にも負けない、そんな自信があったからこそ、すぐ前のいっせーが急に大きく見える。
オレは同世代にも大人にも、もちろん後輩にもちやほやされていたから。負ける、なんてずっと、そう、ほんとに長いこと考えていなかった。その頭が無かった。
走って、跳ぶ。そこそこの練習で出来ること。ほんの少し頑張れば、賞状も、拍手もぜーんぶオレのもの。すごいね、さすがだね、の言葉は嬉しくて、でも、本気で練習に打ち込めば、その分みんな置いて行ってしまうから、どんどんつまらなくなって、そんな風にして今。
いっせー。ねぇ、いっせー? オレはお前と走る楽しさも、競争のワクワクも忘れちゃってたのかもしれない。
「つかまえた」
Tシャツの色が汗で変わるほど走った日。鬼ごっこだけは、なぜかオレのが弱かった。すっげぇ良い顔しながら、いっせーは笑ってさ。オレの背中をバシンと叩いてきたよな。もう一度、ちっちゃかったいっせーに言われた気がした。
「つかまえた」
喉奥がヒュっと冷たくなる。
声変わりも終わって、足も速くなって、水溜まりの向こう側にも一足で跳べるようになった。いっせーも同じなんだ。オレが出来ること、いっせーも簡単に出来ることだ。
振り返って足踏みなんて出来ない。水溜まりの向こう側にいるいっせーを、ぼんやり待ちぼうけなんて出来ない。鬼ごっこと一緒だ。オレは全力で走らないと。前だけ見て、前だけを見て走り続けないと。次の瞬間には「つかまえた」が待っている。
鬼さんこちら、手の鳴る方へ。
余裕ぶって走り続ければ、鬼は手を伸ばし、捕まえる。一気に頭からパクリ。食われる。アイツはもう鬼だ。骨をしゃぶられるまで食べられるのはオレの方。
「リク、そろっと本気だせや」
はるとは鼻で笑いながら、顎をクイッと晴れやかに歩いてくるいっせーに向ける。
本気、だす。本気ってなんだっけ。一〇〇パーセントの力ってやつ? いちばん速く走って、思いっきり跳んで、そしたら本気になるのかな。競技に集中する、周りを一切見ないで跳べばいいのかな。こんなもんかな、で手を抜かないってこと?
ねぇ、本気って何だっけ?
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