稀代の夢想家

 身長は三代目より少し大きいくらいか。

 東京に来てから美人は多く見てきた。真智子、澪、背油のシズカ、ヘクセン。だが、今現れた女は格が違う。うっとりするほど美しいし、手を合わせたいほどかわいらしい。感情を錯綜させる、しかし魔性ではない輝きを有した容姿である。

 ブロンドのロング、ブルーの大空に似た瞳。頭にはウサギの耳のように左右が跳ねた青いリボンをつけている。素朴なエプロンドレスを着て、縞々のストッキングとストラップシューズ。そんな身なりの割に、右手の五指にはゴツいドクロや十字架があしらわれた指輪をはめており、それがひときわ目立つ。

 年齢は十代……かもしれないし、二十代なのかもしれない。かなり若く見えるのだが特定できない。少女と女性の間を行っている。もっとも美しい歳で停止しているかのような不思議さがある。

 怪人。

 それがその夢想家と呼ばれる女を最初に見て、三代目が思ったことである。

 手を引かれ、背中を押され、心底嫌そうにリング横に立った彼女。すべてが掴めず、捉えきれず、理解の範疇を超越した人の心を惹く怪人。三代目にはそう映った。

「稀代の夢想家……アリス=リデル! この方こそがあの名高きアリスなのです!」

 興奮気味にアナウンスが叫んだ。

 ホール内がしんと静まり返っている。完全に呑まれていた。暴走していたヘクセンも魅入られたように、アリスを見ている。

「さあどうぞ、リングの上へ!」

「なんで?」

「皆さんがあなたを待っているんです!」

「待たなくていいんだけど」

 はあと溜め息を吐いて、アリスがリングに上がった。

「ヘクセンを止めてください!」

「止まってるじゃない」

 ヘクセンは止まっている。完全に正気の顔、素面しらふで立っているだけだ。

 三代目は横の山谷たちを見てみた。山谷も澪も真智子も李も、ぼんやりとしてリングを見詰めている。

「ヘクセン!」

 アナウンスの叫びに我に返って、ヘクセンは凶暴な顔を戻した。

 そういう設定なのか、と三代目は理解した。どうしてもアリスの戦う姿を見せたいがために、ヘクセンに暴れてもらう筋書きを用意していたのだ。もしヘクセンではなくウッドマンが勝っていたら、ウッドマンが暴れていたのだろう。なるほど、プロレスだ。

 ウッドマン戦とは違って、猛烈なスピードでヘクセンがアリスに飛び掛かった。その動きに迷いはない。我慢できずに走った感じすらある。今、彼女は演技をしていない――

 ヘクセンが鞘からショートソードを抜いて、振った。のだと思う。速過ぎて、三代目には追えなかった。

 ぱちん。

 いやに軽い音が鳴った。

「ええ?」

 すさまじい光景であった。

 ヘクセンのショートソードを、アリスが左手の人さし指と親指で摘まんで停止させていた。ヘクセンは押す引くという動きを必死に取っているが、微動だにしない。

 アリスは純粋無垢な、なんでもなさそうな顔をしながら、グイとほんの少しだけ摘まんだ手を前に出した。

 ボグッと不快な音を出して、ヘクセンの肩が外れた。

 摘まむ指から、ショートソードを伝い、ヘクセンの右手に至り、腕を抜けて、力は彼女の肩へ。骨が肉の上で盛り上がっていた。

「ぎゃあああ」

 ウッドマンに殴られても声ひとつ上げなかったヘクセンが叫んだ。アリスが摘まんだ指をこれまた少しだけねじっている。それに反応して、ブチブチとヘクセンの外れた肩から筋組織や神経といったものが千切れていく肉肉しい音を響いた。

 池に石を落とすと波紋が広がってゆくように、少しねじるだけで力の波紋が広がり、それがヘクセンの肉体を破壊しているかのようだった。

 バチンと完全に分離する音がするころには、ヘクセンの腕はわけのわからない曲がり方をしていた。

 シュッとショートソードを摘まんだまま、アリスが右に拳を作って振った。拳になって初めて、ゴツい五つの指輪がひとつのメリケンサックに化けた。コツンとヘクセンの右こめかみを、アリスは打った。

 膝からヘクセンが落ちる。腹を地面に伏せる。頭を落とす。完全にダウンした倒れ方である。あの「コツン」でヘクセンは意識を彼方へと飛ばされた。

 アイスはショートソードをポイと捨てて、

「ゾス」

 両手を拳にして交差させ、発声と同時に腰の横まで開いた。押忍おすのノリのようだが、なにを意図したのかは定かではない。

「あれが、稀代の夢想家だ」

「その……夢想家ってなんですか?」

「知らん。そう呼ばれている」

 山谷が神妙そうに答えた。

「誰も仕掛けないんですね。頂点がいるのに」

「上位がゲストで現れると、ボウズの考えているとおり、乱入戦は起こる。腕に自信のある奴が集まってるし、そういう奴らは常に強い奴と戦いたがってる。もし戦う理由のない乱入戦でも上位に勝てば、ただ事じゃない見返りが生まれるだろうしな。だが……アリスが現れたときだけは誰も手出ししない」

「たしかに想像を絶する技でしたが、それが理由ですか」

 だとすれば弱い。

「アリスはほぼ戦わない。マトモに戦うところをおれたちは見たことがない。それでもこうやってゲスト参加したときに見せる技や捌きで、べらぼうに強いことはわかっているが……らないのは、あの雰囲気だろうな。相応しくないと、とても前に立てない。恥は誰もかきたかない。ヘクセンはよくやったと思うよ」

「なるほど」

 言わんとすることはわかる。

 わかるのだが、むず痒い。

 三代目は震えていた。恐怖で震えているわけでもなければ、歓喜で震えているわけでもない。だが恐怖も歓喜もあっただろう。

「か、帰るってなんでですか! もうちょっと、もうちょっと!」

 リング上で、男が帰ろうとするアリスを止めた。

「もうちょっといてどうするの」

「せっかくだから戦いたくないですか? 今、相手を探してますから!」

「もういいわ、ホント。どうしてもって言うから寄ったけど、最初から別にそんな興味ないし、大体私は普通に日本旅行したいの」

 ポケットから折りたたまれた日本観光パンフレットを取り出し、バサッと開いて見せて、

「スカイツリー、東京タワー、両国国技館、東京ディズニーランド。ここらは行くわよ。それでね、北海道。青森の恐山も興味深いわね。富士山。大阪は通天閣と西成区。アメリカ村とかいうところもおもしろそうだわ。京都も絶対、外せないわ。それで沖縄ね。ほかもいろいろ含めて、順不同で遊びに行く予定なの。どう、以上の予定からわかってもらえたかしら? 私はすごーく忙しいの、こんな試合なんてどーでもいいわ」

「ほ、ほんとーに観光に来ただけ……?」

「だから、そうだって言ってるじゃない」

「緊急来日って話だから……強者との死闘が決まったとかそういうのじゃ……」

「は? なにそれ……バーサーカーじゃないの、それじゃまるで……キモイ……」

 マイペースな人物で間違いはないらしい。

 破格の戦闘力を持ちながら、勝負事にはたいして興味がない。

 きっと勝つも負けるもどうでもよく、目の前の面白そうなことを追う性質なのだ。

「もう眠いから帰るわ」

「あ、ちょ、ちょっと」

 お上品に手で口元を隠しながらあくびをして、アリスが去って行く。会場のざわめきが強くなる。賑やかな、まるでどこかの大きな朝市のような――

 心臓がドクン、ドクンと脈打っている。

 このまま見送っていいのか? 頂点に逢えたんだぞ、今夜。またとないチャンスじゃないのか。ぼくは邪智暴虐な母を超えねばならないのだ。アリスという伝説に指南を受けられたら……また一歩進める……!

「おれがボウズをここに連れて来たのはだな」

 山谷が目を細めてリングを眺めながら言う。

「二代目を超えるってことは、こういう次元の勝負をやっていかなきゃならんってことを示すためだった。二代目ポポアックとは直で会ったことはねぇし、戦う姿も知らんが裏でずいぶんとやっていたとは聞いている。東京にも来ていたし、今も裏闘士どもを名前だけ震え上がらせるビッグネームなんだ……その領域に至るってことはな。今夜の試合をやった連中くれぇは倒せねぇと話にならん。そんな道を選んでどうする。思うところはあるんだろうが、ボウズはまだ若く、未来もある。こんな気の狂った場所で骨を埋めるかもしれない、なんていうのはだな……やめといたほうがいいんじゃないか」

 山谷の不器用な説得を、三代目はほぼ聞いていなかった。聞いていたのは、自分の心臓の鼓動だけだった。

 鎖に繋がられた彼の内側のなにかが解き放たれそうになる。もう限界まで鎖が伸びきって、ギチギチ……ギリギリ……とうめいている。両肩を掻きむしりたくなる。

「待ってよ、稀代の夢想家」

 鎖が千切れた。

 思えば、真智子と試合をしたときも。モヒカンを殴ったときも。ならず者たちのお礼参りに応戦したときも。中山に蹴り掛かったときも。会話の最中いきなり山谷に新技を試したときも。すべての瞬間に、この鎖が切れる確定演出があった。

 鉄柵に足を掛け、一気に跳んだ。松葉杖を持ちながら。

 どこへ。リングのほうへ。違う。

 アリスの前を目指して。

「あのバカ!」

「なにやってんの!」

「挑む気ネ!」

「バカ、殺されるぞ!」

 さすがに退場する途中のアリスの前までは跳べなかった。跳べたらスーパーマンだ。三代目はリングの上に辛うじて受け身を取りながら着地して、

「夢想家アリス=リデル! りましょう!」

「乱入者だァーッ!」

 ホールを揺らすほどの、観客たちの歓声が上がった。バーニングムーン・マッチが始まって最大の盛り上がりである。

「きみは?」

 アリスを必死に止めていた男が訊いた。

「三代目ポポアック。最近だと喧嘩師中山を倒しました」

「決まりッ!」

 パチンと男が手を叩いた。また、ワアアアアと沸く。

 中山戦で負った負傷はまるで癒えきっていない。左腕はまだ利かないし、腹筋も痛い。片目が開けない、目の上が腫れている。なぜか跳躍できてしまったが脚は基本的に松葉杖を要する。

 なぜか跳躍できた。そのが大事なのだ。

 少なくともここに来るまで全身にあった激痛が収まっている。試合を見る内に苦痛を超えて、戦いたくなってくる。アリスを見たときにはもう、まるで自分が万全の状態にあるようにすら思えた。

 アリスが振り返った。風が微笑するように、物静かに。

 勝てば人間、負ければ餓鬼畜生。うるせえ、黙ってろってやつだ。きっとぼくは負ける。負けるんだろうけど、もう少しだけ怪人アリスについて知りたい。こんなにも優しそうで、無害そうで、超越的なカリスマ性を持っている彼女に興味が尽きない。

 ヘクセンを倒したときもコツンと優しく打って済ませたのに、その前に容赦なく腕を潰した。どういう考えであんな別ベクトルの攻撃を? 戦いに対する精神性を知りたかった。

 知りたいなら、るしかない。そういう人種だ。ぼくたちは語り合うよりも殴り合ったほうが早い。そっちのほうが心で繋がれる。まだまだ弱いから相手のすべてをわかりはしないけど、片りんくらいは掴み取れる。ぼくのはなしもできる。そういうのが、好きだ――

「ボロボロじゃない」

「気にしないでください」

「やめときましょ。私は暴力よりも茶会――」

 松葉杖をアリス目がけてブン投げた。同時にリングから降りて、前に突っ切る。

 松葉杖を軽くアリスがかわした。

 その時点で、三代目はアリスの目の前にまで接近していた。拳のセットも終わっている。今まで生きてきて最高の攻撃の流れを作れた。

 なのに。

 べきり。

 振り切ろうとした右のカッターナックルが、ひしゃげていた。折れていた。

「え?」

 アリスは腰を低くして、左脚を前に、右脚をうしろに引いて、大きく両脚を開きながら体全体を横に向けている。彼女の左手が、三代目の右腕を掴んでいる。その掴む手の人さし指だけがピンと伸びて、これはなにかの技を掛けられている最中なのだと実感した。

 ぶんと三代目が空中へ跳ね上げられた。どこにそんな力が?

 べきり。

 宙を舞っている途中で、右脚が折れた。アリスがその指輪でガチガチになった右拳で殴ったのだ。

 情けなくどしゃりと地面に落ちる。左脚だけが浮いている。アリスの手に掴まれ、浮いていた。まずい。体をねじって逃れないと、また関節技を極められる――回ろうと努めたが、両腕が死んでいてとても体を動かせない。

 べきり。

 ――嗚呼、そういうことか。

 お優しい攻撃で仕留めるのに、得手を奪うかのように四肢を破壊してくる流儀スタイル。それは残虐な意図ではないと、折られてみて理解できた。どんな理由であれ、相手がると決めた以上は相応の攻撃で応える。たとえ、自分と相手の間にどれだけの技量の差があろうと、きっちり極めて、折り潰し、しばらくは再起不能になるくらいまで痛めつける。情けを掛けない主義、きっちり倒す主義。でも殺すほどじゃない。

 芋虫のようになってしまった。

 両手両足を折られて、喘鳴ぜんめいをあげながら三代目が這う。

 アリスが右足を上げた。

「今度は、完治するまでベッドから出られないわね」

 伏せた三代目の後頭部を、アリスが片足で踏み潰した。靴底で頭を押すのではなく、蹴るように加速して、一瞬だけ強烈なインパクトで叩いた。

 それからすぐに、倒れ伏したままの三代目の後頭部がぷくーと、餅のようにふくらんだ。

 三代目とアリスとエキシビション、松葉杖が投げられてから時間にして約五秒であった。


 稀代の夢想家アリスが旅行とはいえ東京に降り立ったことで、裏の格闘地獄は大きく動き出すことになる。

 二代目ポポアック、イタリアのゴスロリメスゴリラ、フランスの怪力人造人間、タイの永世ムエタイ王者、プロレス界の元締め、相撲界の伝説、ボクシング最強の金の亡者、レスリングを極めた霊長類最強の男、テコンドーの怪物、総合格闘技の闇闘士、暗殺者にして某国の姫、海外武器術の名手(でもバカ)……

 格闘の潮流が東京で起こる。裏にいる限り、それは逃れられない。のちに山谷もそんな強豪たちとの戦いに身を投じてゆくことになる。

 そして――

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