第一歌 三代目ポポアック来日篇
道場破り
ずらりと伸びる青空の下の商店街を少年はとぼとぼ歩いていた。
ぐうとお腹が鳴る。ちらと辺りを見回せば、団子屋やメンチカツ屋、大学芋と書かれた旗をでかでか立てた芋屋、かりんとう屋など食べ物の店ばかりが目に入る。
お気に入りのくまさん財布をポケットから取り出して、中身を確認する。やはりというべきか当然というべきか増えていない。茶色の硬貨が二枚あるだけだ。
ハーフフィンガーグローブから出た指で硬貨を摘まみ上げた。なんの足しにもならない全財産を、紫の瞳で見詰める。
「はあ~……」
ため息を吐いて、空をあおぐ。
貧乏空腹少年はキョロキョロ戸惑いながらも、商店街を抜けて下町に入った。民家をひとつひとつ覗き、道ゆく人々に怪しまれつつ微笑まれつつ、奥へ奥へと進んでいった。
緑に色づく木々に囲まれた門にたどり着いた。少年は立てかけられた看板を何度も見直し、大きくうなずくとギギと門を押し開けて、中へ入った。
「ハロゥ……」
木造の建物の玄関に立ってみるが、人が出てくる気配はない。おとなしく待っていると昼間の静けさに紛れて、話し声が聞こえてきた。
少年はブーツを脱がずに軒に上がると、声のするほうを目指してみしみしと廊下を進み、板間の道場に出た。
奥で正座する道着を着た男女が不思議そうに少年のほうを見ている。初老の男のほうが「これ、靴を脱ぎなさい」と注意した。少年もまた不思議そうな顔をする。まだ日本語がわからない彼は、なにを言われたのか理解できなかったのだ。
土足で道場を進み、ふたりの前まで行く。
「外国人の子どもですかね」
また男が言った。女のほうはじっと少年を見るだけで、なにも口を利かない。
「ああ、これこれ」
男はちょんちょんと少年のブーツを指さしてから、正座をあぐらに変えて、自分の足を指さした。
その動作がなにを意味するのか最初はわからなかったが、彼の裸足と自分の履くブーツを交互に見て理解した。慌てて少年がブーツを脱いだ。とんでもない無礼をしてしった気がして、なんとかその分を取り返そうと、彼らを真似てちょこんと正座した。
「何用……と聞いても伝わりませんね。どうしたものか」
「入門か道場破りだろう」
女が淡々と言った。
「ファイターの体つきだ。眼にも闘志がある」
ハスキーな声の美人である。実年齢は定かではないが、二十代後半か三十代前半に見える。狼のような鋭い眼と流れるような髪。ピンと張った姿勢が美しい。左手のしなやかな薬指には安っぽい指輪がはめられている。
「あー、ワット?」
なに? と、男が聞いてきた。
「えー。趣味はー」
少年が日本語を口にした。うまく
東京に渡る前に父から教わった唯一の日本語を思い出して、つなげてゆく。
「趣味は道場破りです」
と、のそりと立って、少年がファイティングポーズを取った。ゆさゆさと体をわずかに揺らしながら備える。
日本の道場で先の日本語を述べれば、御指南いただける。そう教わっている。実際、なぜか空気は悪くなったがここまで訪ねたどの道場でも相手をしてもらえた。
「道場破りでしたか。困りました、子どもとはちょっと……」
「ただの子どもではない、問題ないだろう」
「いやしかしですね……」
煮えきらず、男が腕を組んだ。
どうも今までの道場の人たちと雰囲気が違う。怒るでもなく、笑うでもなく、子ども相手にやるのはイカンでしょというような遠慮が見える。それでは困る。
少年は「ヘイ!」と声を荒げた。折り曲げた四本の指をクイと引いて「カマン」と挑発した。
「カマ? 私は男ですが」
「私は歴とした女だぞ、オカマとは失礼なガキだ」
少し怒っているらしいが、動き出す様子ではない。どういうことだろう。少年はうまく事が運ばずに困惑した。
こうなった場合は致し方ない。仕掛けるほかにないだろう。
タンと前に出て、彼は回し蹴りを放った。挨拶代わりである。当たっても大したダメージにはなるまい。いや、こんなテレフォンに当たるようでは、とても糧になる相手とは言えまいが。
女は少しだけ上体を逸らして、それを回避した。男は床に置いてあった長い木の棒を手に取りながら、後転して蹴りをかわし、立ち上がった。
ダンと棒を床に立てた。その棒の天井を向く側の先端には綿を布で包んだボールが巻かれている。稽古で使われるタンポ槍である。
少年が勝負を仕掛けたのは、槍術道場であった。
土足でいきなり現れ、道場破りを宣言し、蹴りで攻撃してきた異国の少年に道場師範の
小さな少年である。短パンと半袖ジャケットがトレードマークの、小学生くらいの少年。もこもことした髪が似合うのは、一重に端正でかわいらしい顔であるがゆえであろう。日本人の顔ではない。海外の良いところ取りともいうべき顔だ。
傷がところどころ残る白い腕は柔らかそうだが、どこか筋肉質でもある。絶妙なバランスを保っている。それは太ももや脚においても同じだった。少なくともなにもやっていない少年の肉体ではなく、運動をしているとしても、運動以上の過程を臭わせるだけの肉体である。
――楽な相手ではない、そう思わせるモノを持っている。
「真智子さん、少年を打つのは心にきますね」
少年と樋口のちょうど真ん中辺りに正座する女、真智子はハハと小さく笑った。
拳を握り、左を前にしてファイティングポーズを取る少年に対し、樋口も槍を構えた。中段構えだ。槍の本懐どおり突くことだけを考えている。
樋口は単発突きで終わらせるつもりだった。少年になにもさせずに胸をしたたかに打って、それで手打ちにしようと考えている。だがもし、少年がそれより先をやれる傑物だった場合には、三段五段と突き退きを重ねるつもりでもある。
双方がじりじりと動かない。機を読み合っている。
――なかなかどうして……堂に入っている。
対峙して、全身がひりつくのを樋口は感じた。こんなにも小さな、女の子にも見えなくもない少年がこれほどの圧を持つとはにわかには信じがたい。
徒手に対して、おのれは武器を持っている。それも長尺の刺突武器である。向き合う内に、有利はこちらのはずなのに果たして五段でも足りるのか否か……という気になってきた。
少年の縦の揺れ、そのリズムが一瞬崩れた。いきなりテンポを上げた。
外してきたかッ!
「セイッ!」
気を吐いて、槍を突き出した。
少年が跳ねた。アクロバティックに宙で回って、がしと槍の柄を両手でがっしり掴んだ。
上から掴まれているだけなのに、その一瞬、押すも退くも効かなくなっていた。なにか妖術でも使われたかのように槍が動かない。
滞空した少年は、その掴みを支点にしながら全身を勢いよく振って、ブオッと蹴りを放った。
樋口の右顔面にすさまじい衝撃が走った。視界がブラックアウトする――……
「おい」
頬をパチンとはたかれ、樋口は目を覚ました。道場の天井と、自分を覗きこむ真智子と少年が見えた。
「ああ……」
むくりと起き上がる。ビリリと全身に電流が走った。少年に負けたのだと実感できるだけの痛みであった。
「負けましたか」
「弟子たちがいないときでよかったな」
「ははは……」
悔しい! と、年甲斐もなく暴れ回りたかった。床をごろごろと転がって、わあーとわめきたかった。
衝動を必死に抑えながら、自分を一撃で倒した少年を改めて見た。
心配そうに、いたわるような顔で見詰めている。そして彼の瞳の奥には感謝のような、親愛のような素直な輝きがあるように感じた。
そんな顔をされてしまっては、余計に悔しさを発散できないと樋口は苦笑した。
「樋口の無事は確認したし――」
真智子が立って、少年に視線を向ける。
「今度はあたしとやるか、ん?」
「……」
言葉は通じていないのだろう。しかし、みるみる内に我慢できずというふうに少年から笑みがこぼれた。真智子もめらめらと炎を剥き出しにしている。目と目で語り合っている。
「槍を借りるぞ、樋口」
道場の壁に寄って、真智子が稽古用の槍を一本、手に取った。
本当にやる気らしい。これは珍しい。めっきり現役から遠ざかり、道場を経営しながら各道場の指南に回る彼女が試合を受けるなど、実に珍しい。それだけ樋口と少年の勝負に燃えるものを見出したと見える。
今度は樋口が、少年と真智子の間合いの中央に座った。
万歳するように少年が天に両手をあげた。一呼吸して、バッとファイティングポーズを取った。改めて少年を別の立場からながら見ていると、ますます堂に入っていると感じる。いったい、どのような修練を積んできたのか知りたくなる美しい肉体と精神を持っている。
真智子はというと基本に
少年は明らかに先ほどよりも緊張している。揺れが一定ではない。汗が彼の頬を伝っている。息も荒い。
なにかを振り払うように少年が出ようとした刹那、真智子が踏み込んだ。少年の動きに乗せて、先手を獲った。
下方に向かって槍が伸びる。少年が緊急回避というふうに跳ねてかわした。
真智子がグンとその場で回転して、槍を振った。ブオンブオンと強烈なスピードで持ち手と位置を変化させ、まだ跳ねている最中の少年の足をビシィッと打った。空中で体勢は変えがたい。そこをスピードで制したのだ。
足を打つ槍がまた盛大に回った。少年の頭が床側を向く。反転させられた。
真智子の足がギャンと目に見えぬステップを踏み、それにともなって槍も棒の形をいっさい見せず、扇のように広がった。
「ごうェえッ!」
槍が元の形に戻ったときには、少年が腹を突かれ、そのまま持ち上げられていた。
あのすばしっこく鋭い打撃力を持つ少年を完封した真智子は、軽く槍を引いて、少年を床に落とした。
吐しゃ物をまき散らしながら、少年が悶えている。みぞおちを貫かれたらしい。
相も変わらず恐ろしい槍術士だと、樋口は嘆息を漏らした。彼女の槍はその姿が見えぬのだから、対すればどうすればいいのかわからなくなる。わからぬ内にああして無残に叩き突かれる。
「怪物的ですね」
「女に使う言葉ではないぞ、貴様」
少年が落ち着きを取り戻すまで、しばしの時間を要した。
敗北を噛み締めつつ、痛みに辛うじて耐えられるころには、少年は真智子の前の土下座していた。綺麗な形ではないが、誠意は十分に感じ取れるものだ。戦い方を教えてくれと、懇願しているようであった。
「貴様、名をなんという」
少年の前に片膝を突くと、彼に顔を上げるよう
「?」
「ネーム」
ぼそりと自信なさげに真智子がつぶやいた。学がないとは彼女の言である。
「三代目ポポアック」
「……ポポアック? ポポアックと言ったか? あのポポアック家か?」
真智子と樋口が顔を見合わせた。中米のビッグネームである。
有名なのは、暴虐さと圧倒的な強さで恐れられた二代目ポポアックという主婦であり、その悪魔にどうやら子どもがいるらしいということは聞いていたが。それがどうやらこの少年らしい。驚かざるをえない。
「どうか、ぼくにあなたの名前を教えてください」
「ネーム?」
コクリと三代目がうなずいた。
「あたしは山谷真智子。よろしくな」
「マチコさん」
真智子が微笑むと、三代目も釣られて笑った。しかしまだ腹部の痛みがあるのか、多少ひきつっている。
ぎゅるるる……
三代目の腹の虫が鳴った。腹を空かせていたらしい。
これに真智子がまた笑った。樋口もだ。一瞬でもおのれを賭けて戦った相手は友なのである。
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