東京武闘変

獄道流文吉

始歌

 日本、東京。

 夜になってもきらびやかな明かりに街は照らされ、人の往来は減るどころかむしろ増している。車やタクシーが途絶えることなく走り去る。

 骨組みが丸見えの東京タワーがライトアップされて、赤く光っている。淡くて、神秘的で、幻想的な威容である。

 芝生の上に置かれたベンチに座りながら、男は東京タワーに見とれていた。

 彼の目にはその東京を示すシンボルが、いっぱいの鮮やかな飴玉をぶちまけたキラキラ輝き放つ宝石の城に映っていた。

「ズルいよなァ」

 隣に立つ、タバコを吸うロングコートの男に向かってなのか、ただの独り言なのか、タワーを見ながら言った。

「山谷さんはズルいよなァ……ウチのジムの奴ら、ノしちゃうんだもん。やらないわけにはいかないでしょ、おれが」

「ボクサーが一般人にカツアゲなんてのは笑えなくてな。だがお前さんが出てくるこたないだろ」

「タイトルもあるしね。山谷さんじゃなきゃ、わざわざ顔なんて出さなかったよ。やってみたいよね、そりゃあ……やっぱりさ、おれはこの業界長いしチャンピオンだからさ、まあ情報はよく入ってね。裏の……そっち側のこと、たまにね」

 参ったというふうにタバコの男、山谷はコリコリと顎の無精ヒゲを掻いた。タカやワシのような鋭い眼をした、少し猫背気味の筋肉と身長が調和した中年。

 ベンチに座る男、和田はそんな山谷に惚れていた。ボクシングの世界スーパーウェルター級現王者が――寂れたボクシングジムから頂点にまで上り詰め、現時点で三度の王座防衛を果たしたヒーローが、山谷という中年男に惚れていた。

 東京の裏格闘技、バーリトゥード(反則なし)の世界について情報を得るごとに顔を出す、その男の圧倒的な強さに惹かれていた。

 粋で、手加減をしない、今どきにしては珍しい真っ直ぐ過ぎる裏実戦屋と戦いたくて仕方なかったのである。

「何人かそっち側の連中をね。つまみ食いしたけど、相手になんなかったよ。アンタは違うでしょ。だからたまんないんだ」

 ベンチから立ち上がる。右手がうずく。

「待て」

 掌を広げて、山谷が制止した。

「始めてしまったら、お前さんはおれに金だけでなく、人生を差し出さなきゃいけなくなる。ボクサーとしての人生だ。間近のタイトルだけじゃなく、それ以降のすべてもきっちり俺の前に耳を揃えて出してもらう。それでおれも命を賭けられる」

「誰が決めたのか――流儀スタイルを超えたバーリトゥードに勝てば人間、負ければ餓鬼畜生。それがこの東京における絶対のルール。ぞくぞくしちゃうよね。いいよ、それでいこうよ」

 チリチリ……と山谷の咥えたタバコの先端に灯る赤が色味を増して、葉と紙を燃やした。街灯にほんのりと照らされた彼の目線は、下に落ちている。やる気があるのかないのか、どうも浮き雲のようにとらえきれない佇まいである。

「うまそうにタバコなんて吸っちゃって。いつ始める」

「おれ個人としては――」

 言い終わる前に、和田は地面の芝生を蹴り上げていた。小石と短く刈られた草を含む土が山谷に飛散する。質問で誘っておいての奇襲だ。

 目潰しの土を飛ばすと同時に前に出る。左ストレートで仕留めようと和田が躍り出た。

 山谷が全身を大きく右にねじって、右手を地に着いた。その一本だけでそれなりに大きな体を支えている。土が彼の上を通り過ぎた。回避しただけではない、同時にドロップキックのように横に向いた両足を和田のほうへ走らせていた。

 風圧をともなう山谷の靴底が迫ってきたことで、ストレートを打とうとした和田は止まらざるをえなかった。

 不安定すぎる体勢を取ったまま、山谷は左手でタバコを挟むと和田に向かって投げた。右手で地面を押して、山谷が膝を曲げながら着地する。軽く細い紙の棒がなぜか、高速で一直線に和田の瞳を目がけて飛んでゆく。

「シッ!」

 目玉に高温で燃えるタバコの先端が触れる前に、拳を振った。パンとタバコが木っ端微塵に弾け飛んだ。

 微細な粉となって散り落ちるタバコ片の向こうから、握り拳が突貫してきた。

「うお!」

 バックステップで、辛うじて射程から外れる。間一髪であった。

「ダメだろ」

 左手の拳を前に突き出したまま、山谷が言った。

「そんな半端なことしちゃ。ボクサーなんだから真っ当にボクシングやるのが一番強いのに、勿体ない」

 和田の顔半分がピクリと動いた。

 なめられている。

 スーッと全身の力を抜く。だらりと両腕を垂らして、じろーりと山谷を見すえる。

 噂通りやれるおとこだというのはわかった。だがしかしジジイ手前のオッサンの分際で、おれを見下したのは許せない。

 急激に和田の中のなにかが冷めていく。さっきまでの子ども染みた興奮が失せていき、夜の芝公園が黒く塗り潰された。闇に残ったのは拳をやっと下ろして、構えもせずに立っているだけの山谷の姿のみ。不気味に笑っている。

「シッ!」

 地面を力強く蹴って踏み出すと、和田はジャブを打った。彼を頂点にまで押し上げた韋駄天いだてんのジャブである。

 動きに入った瞬間、キラリとなにかが目の前で光ったかと思うと、左目に衝撃が走った。ドカッとなにかを打ち込まれたかのような重み。それがなにかを考えず、そのまま前に出る。

 山谷の顔面を打った。深く突き刺さった。

 が、打ち抜けない。自分の拳の指からベキリと音がしたのを、和田はたしかに聞いた。

 ――硬い。

 完全に停止した右拳の根本に、いつの間にか匕首あいくちの刃が添えられている。

「しまっ……!」

 目前にいた山谷が、突如としていなくなった。

 打ちこんだ右手首に熱が走った。左目も熱い。

 芝生の上にぎゅっと拳を握る手首がカサリと落ちた。

「!!」

 右脚の膝から下が、なにか鋭利なモノで斬り飛ばされた。

 ビュッと手首から鮮血を噴き出し、バランスを崩した和田が倒れた。三か所に発生した激痛にうめきながら左目に残ったほうの手を添えると、鉄の小さな塊に触れた。

 ……ナイフを投げたのか。

 震えながら横を見上げると、血の付着したの匕首の峰を、肩にトントンと置きながら山谷が立っていた。ボタボタと鼻血を流してはいるものの、なんの感慨もなさそうな涼しい表情で和田を見下ろしている。

「ホント……容赦ないね……」

「そういう男だって知ってて、喧嘩売ったんだろ?」

「武器が出る前にジャブでと思ったんだけどなァ……」

「ボクサーってのはこうでなきゃ」

 鼻頭を撫でながら山谷が言った。

 汗がしたたり落ちる。血が足りない。深い絶望に襲われて、気力から先に死にそうだった。もうボクサーとしてはやっていけなくなったのが悔しくて仕方がない。文字通り、人生を奪われて餓鬼畜生道に堕とされたのだ。

「財布はここか」

 山谷は匕首を腰の鞘に納めると、片手片足を失って地面に伏すしかできない男のポケットを漁って、財布を抜き取った。中から紙幣をごっそり手にして、懐に入れる。

「たまにゃウチに金入れないと妻に怒られるんでね」

 空っぽになった財布が、ぺっと彼の背中の上に投げ捨てられた。

「山谷……こんな噂、知ってるか。稀代の夢想家の噂だ。誰もが口を揃えて、最強だと認めるあの稀代の夢想家が来日するらしい……」

「ほう」

 初耳というふうに山谷が、冷たい修羅の顔を不器用な愛嬌ある顔に戻して、息を漏らした。

 稀代の夢想家。裏に通ずる者であるならば、その名を知らぬはずがない。世界の裏側にある闘争の社会で史上最強、頂点に立つ女である。

「その情報を各国の化け物たちが聞いたら……黙ってはいないだろうね。彼女に近づきたい奴は多いからね……おれもそうなんだけど」

「だからなんだ」

「アンタも巻き込まれるんじゃないのって話さ……生き残れるのかな、山谷」

 負け惜しみに近い感情で出した情報であった。であると同時に興味深かった。自身を徹底的に叩き潰したこの男が、それらの強豪とどう張り合うのかが。

「なるようにしかならんからな、物事は。絡まれたら、それはそんときに考えるさ」

 人を呼んでおくよと言い残し、山谷は和田を置いて公園の闇へ歩き去っていった。

 東京タワーがおのれを主張するように、煌々と光りつづけている。朦朧もうろうとした意識の中で和田は、ふたたびその塔に、楽しく彩られた城を重ねていた。

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