王と毒薬

ちびねこ

第1話 タリアの王

タリアの王は、灰色の質素なマントのフードを目深にかぶり、スカーフで口元を隠して、人通りの少なくなった夜更けの町をひとり北へ向かった。


マントに隠した剣が音を立てぬよう、左手で注意深く押さえつつ、時折すれ違う町の男女にはすっと顔を伏せ、早足で歩いていく。


いつもなら常に付き従う護衛兵たちも今宵はいないが、剣の腕にはまだ自信がある。

賊に出くわしても、なに、数人なら恐るるに足らぬ。


頭上には銀色の半月が輝き、灯りの少なくなった通りを冷たく照らしていた。


町の北の外れにさしかかると、いよいよ店も人家も少なくなり、人の気配が全くなくなった道の脇の暗がりから、リリリリ…と虫の声が聞こえ始めた。


王はマントをはだけ、青い宝石のついた優美な剣の柄を左手で握り締めて用心深く進んだ。


遠くにほの暗い紫色の光が揺らめいている。

ようやく目的地が見えてきたようだ。


ほどなく王は、古びた石造りの家の前に立った。


人を拒むかのように閉じられた、正面の黒く厚い木の扉の上には小さなランプがかけられ、中では青紫色の火がちろちろと燃えている。


タリアの王は扉の錆びかけた鉄輪をつかみ、慎重に合図のノックをした。


リリリリ…という虫の声が止んだかと思うと、カタリとかんぬきを外す音がして、扉が内側に少し開き、暗がりの中から


「お入りくださいませ」


としわがれた男の声がした。


王が扉を開けて入ると、家の中は外と変わらぬほどに暗く、壁にはいくつか小さなランプがかけられている。


扉の外のものと同じ青紫色の炎で、辺りがぼうっと照らされているが、隅の方は黄泉の世界とつながっているかのように真っ暗だ。


壁に沿って置かれた木棚には、様々な干した植物のようなものが入っている、蓋付きの大きな透明のグラース瓶がびっしりと並んでいるのが見える。


正面の六角形のテーブルの向こうに、ひどく小柄な男がひとり座っていた。


身体に不釣り合いなほど大きな頭に、奇妙な形の黒い帽子をのせ、枯れ草のような髪がもさもさとはみ出している。


わし鼻にかけた丸眼鏡の奥から、濁りかけた灰色の瞳が、王の心を覗き込むかのように暗く光った。


この男はいくつなのだろう、と王は思った。

かなりの歳のようにも見えるし、彼よりも若いようにも見える。


人目を忍んで続けている仕事が、この男を本当の歳よりも老けさせているのかもしれぬ。


「王よ、はるばるとこのあばら家までお越しくださり、恐悦至極に存じます。

粗末な椅子で申し訳ございませんが、どうぞおかけくださいませ」


王はフードを外し、するりとマントを脱いで、座面に飴色の皮が張られた古い椅子に座り、家の主と向かいあった。


「何か温かいものでも?」


「いや、長居するつもりはない」


王は硬い表情のまま、テーブルの向こうの男に言った。

男はちらりと眼鏡をランプの青紫色に光らせて、


「左様でございますか。それでは、ご依頼を承りましたお品を」


と言った。






「お品はこちらでございます」


男は銀の盆に乗せた2本の小瓶をタリアの王に差し出した。


瓶は手の中に隠れるほど小さく、ひとつは凝ったカットのグラース製で、蓋には蛇の頭が彫られている。


もうひとつはつるりとした普通の形の瓶で、蓋にはヒバリのような小鳥の頭が彫られていた。


ふたつの瓶には、透明な液体が少しずつ入っている。


王は瓶には手を触れずに、目を細めて品定めをした。


男は、品物を警戒している王に


「お手に取られましてもご心配ございません」


と口元だけでかすかに笑顔を作った。


王は瀟洒な刺繍入りの絹のハンカチを取り出し、ハンカチ越しに蛇の瓶をつまんで顔に近づけ、小さく振ってみた。


グラース瓶の中の液体がとろりと揺れて、ランプの光を妖しく反射する。


「これが例の薬か」


「左様でございます」


男がしわがれ声で続けた。


「匂いはございませんが、少々苦味がございますので、ヴァイン酒などに混ぜるのがよろしいかと」


「ふむ…どのくらいで効いてくるのだ?」


「全量を飲めば、すぐにもお望みの効果が得られましょう」


男は半ば顔を伏せて答えたが、その口元はまたかすかに笑っているようだった。


王は銀盆に蛇の瓶を置き、小鳥の瓶をつまみ上げて尋ねた。


「これは?」


「解毒剤でございます」


「なぜ解毒剤もあるのだ?」


男は顔を上げて、丸眼鏡の奥から陰気に王と視線を合わせた。


「王よ、人をあやめるには古来より数多の手段がございます。

剣だの縄だので、じかに手を下す方が、むしろ容易な場合もあるでしょう。


しかしなぜいつの世も、わざわざこのような毒薬を用いたがる者がいるのか、王はご存知ですかな?」


王は眼を細めて男を見つめたまま沈黙している。


「じかに手を下してあやめる力を十分に持っている者が、わざわざ毒を盛るということ…それは、無論自らの行為であることを隠したい場合もありますが、むしろそれを美しくかつ残酷に済ませたいという欲望のほうが大きいのです」


「美しく残酷に…?」


「左様でございます。自ら手を汚さず、息一つ乱さずに。

眼前で毒が回りもだえ苦しむ者を救えるのは、この解毒剤のみ…。

それを相手に告げ、しかし決して渡さないことで、相手をより深い絶望のうちに、黄泉へと旅立たせるのです」


毒薬屋の言葉は暗がりの中に溶けていき、二人の間に沈黙が降りた。


「…タリアの王として、長い年月を他国と戦い、この美しい国を守り続けてきた」


王は半ば独り言のようにつぶやいた。


「王位を継ぐ前には、敵国の武将と直接剣を交えたこともある。

彼らは皆勇猛果敢で、いよいよおのれの命が危うくなっても、誰一人命乞いなどしなかった。


立場が逆であったなら同じく、私も『さあ、殺せ』と自ら言ったことだろう。

だから私はいつも躊躇なく剣を振るい、彼らをあやめた。


そんな戦いに勝ち続けたのだから、私はおのれを、誰よりも勇猛で冷酷な王と自負してきたのだ。


しかし…命乞いをする者にとどめを刺したことはない。


苦しみ命乞いをする者を、救うすべとなる薬を手にしながら、見下したまま最期を迎えさせることに、暗い喜びを見出そうと考える人間がいるのか…。


市井の民たちの方が、私よりもはるかに冷酷になれるものなのかもしれぬな…」


紫色の炎が揺らめき、毒薬屋に再び長い沈黙が降りた。

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