第2話:じわりと滲む
「お忘れ物はございませんか?」
「無いわ。――行ってきます」
お嬢様はいつもと同じ答えを返す。
私を
「行ってらっしゃいませ」
彼女の背に向かって軽く一礼した。
前を見つめ、長い髪をなびかせて進むほっそりとした背中は、ほころびかけた百合のように凛として、匂うように艶やかだ。 私はその姿が学び舎に消えるまで見つめる。
表向きの理由は、車止めから昇降口までの短い距離ではあれど、お嬢様の身に危険が及ばないように。
裏の理由は――
毎朝、こうして見送るたび、心の奥底にじわりじわりと何かが滲む。その正体を私はおそらく知っている。が、知りたくはない。ぎり、と軋むほど奥歯を噛みしめて蓋をした。
彼女の背が学び舎に消えた途端、強い風が一陣、ひょう、と吹き抜けた。名残をすべてかき消すかのように。
何とも忌々しい風だ。風に乗る桜の花びらさえも苛立たしい。
私は顔をしかめ、ため息を吐いた。
が、おそらく私の顔にさしたる変化はないであろう。表情に乏しい、と皆が口をそろえて言うこの顔に、私は少なからず損をし、また少なからず助けられてきた。
今は助けられたうちに入るかもしれない。お嬢様の姿が消えた途端に顔をしかめたとあっては、何か彼女に対して悪感情を持っていると受け止められても仕方がない。
誰に何と言われようと構いはしないが、ただ、残り少ない時間をつまらない事で削られるのはごめんだ。波風の立たぬよう、目立たぬよう、いくら気を配っても配り過ぎと言うことはなかろう。
車止めには私と同じく、仕える家の令嬢の送迎を任された者たちがちらほらと見える。毎日のように顔を合わせていれば、言葉は交わさずとも自然と顔を覚える。私は見知った面々に軽く会釈をし、車へと戻った。
いつまでも油を売っているわけにはいかない。屋敷に帰れば仕事が待っているのだから。
**********
お嬢様と私が初めて会ったのは五年前。
彼女が十二歳、私が二十一歳のまだ雪も解けきらぬ頃だ。
春から女学校へ進むという彼女のために、新たに護衛を兼ねた運転手を雇い入れたいと言う両親は、知人に斡旋を依頼し、それが巡り巡って私のところへ回って来たのだ。
自暴自棄になり、荒れ果てた生活をしていた当時の私には、まともに働く気はおろか、生きる気すらなかった。それこそいつ後ろから刺されようが、病に倒れようがどうでもよかった。
いっそひと思いに楽になった方がどれほどよいか。
「誰か、俺を殺してくれ」――それが泥酔した私の口癖だった。
そこまで死に焦がれながら自死を選ばなかったのは、あっさりと首を吊って果てた両親への反発心ゆえのことだ。
改まった年に浮かれる夜の街を、私は千鳥足で歩いていた。何の希望も持てぬ身に世間の浮かれた空気ほど鬱陶しいものはない。その日はいつも以上に酔っていた。目つきの悪い男が不機嫌な顔でふらりふらりと歩いているのだ。すれ違う人々が薄気味悪げに避けるのも無理はない。
そのようななりの私に、幼馴染の男が声をかけてきた。「そろそろ甘えるのは終いにしろ」と。
彼の言葉にかっとなって掴みかかって返り討ちに合い、そして道のわきに山と積まれた雪に倒れこんだ。
殴られた頬がじんじんと痛み、図らずも目にすることになった夜空には無数の星が瞬いていた。
「憑き物は落ちたか、馬鹿野郎」
私の顔を覗き込んだ男は、ニヤリと太い笑みをこぼした。
「なぁ、お前、運転手になる気はないか?
これが全ての始まりだった。
幼馴染の男は歳に似合わず随分と顔の広い男で、一度私が頷けば話はあっという間に進み、気がつけば、門脇家の当主門脇
久々に
「君が
門脇寛介――飛ぶ鳥を落とす勢いで成長する財閥の頂点に立つ男は、何の感慨も持たぬ声色で私にそう訊いた。
「はい」
短い答えに門脇は鷹揚に頷いた。
――そうか。私の名を知っても何も思わぬか。それほどまでに私の家は、両親は取るに足らぬものだったのか。そうか。……そうか。
暗い笑いが心の中に広がった。
父母を両親を死に追いやった男は、己が死に追いやった人間のことなど忘れて――いや、己が殺した者の名さえ知らないのかもしれない――のうのうと生きている。
なら、私は……。
何が何でも、この男に仕えよう。たとえ屈辱にこの身が焼け崩れようとも。私は固く誓った。
「君には、これの送迎をお願いしたい。四月から女学校へ通うことになっておる」
これ、と言いながら、門脇は己の背に視線を向ける。その視線を辿って、ようやく私は彼にしがみつく小さな手に気が付いた。
男の体からそろりそろりと小さな顔がのぞく。視線が合うとその少女はまた門脇の背に身を隠した。
「
たしなめられて、おずおずと姿を現した少女は、随分とほっそりしていた。この春から女学校、と言うことは十二歳。それにしては小柄だな、と言うのが正直な感想だった。
「娘の志織だ。体が弱くてな。そのせいか車にも酷く酔うのだ。百目木君、早速だがこれを乗せて少し走ってみてくれ」
娘が車に酔うならこの話は無しだ、と言外に匂わせる。
私は早速、用意された車に彼女と門脇と家令を乗せて、指定された道を走る。
結果、私は採用された。
「こ、これから、よろしく、ど、どうめ……?」
父親の服の袖を掴み、どもりながら彼女は私にそう告げた。
私は片膝をつき、目線を合わせた。己の見た目が厳めしいことは知ってる。少しでも彼女が恐れないように、そう思って自然にしたことだった。
ここで彼女に嫌われてしまっては、この家に潜り込むことすらできない。それは避けたかった。しかし、愛想笑いの一つも出来ない私には、片膝をつき、彼女に真摯な忠誠を誓うふりをするのが精いっぱいだ。
「百目木、でございます、志織お嬢様。必ず御身をお守りいたします」
彼女の白い顔が、見る間に真っ赤になり、飛び退くように父の背中に隠れてしまった。
やり過ぎたか、とほぞを噛む私の耳に、
**********
あれから五年。
いつか門脇に復讐を。
その心を悟られず、忠実な
そろそろ期は熟した。
――さて。飼い犬に手を噛まれる、と言うのはどんな気分だろうな、門脇。
口の端が自然と笑みの形に吊り上がった。
「どうしたの? 何か良いことでもあって?」
突然背後からかかった声に、私は危うく自分の足に整備道具を落とすところだった。
何故、笑っていると分かったのか。驚く私の顔はそれでもたぶん無表情なはずだ。
なのに、全てお見通しだと言わんばかりに、彼女は楽しげに笑う。
「お嬢様! どうしてこのようなところにいらっしゃるのですか。お戻りください」
「ここは私の家です。どこにいようと私の勝手でしょう? 百目木の指図は受けないわ」
たしなめる私に向かって、彼女はつんと取り澄まして答えた。
五年の月日は、引っ込み思案のご令嬢をだいぶお転婆に変えたようだ。時折こうして、使用人の働く厨房やら車庫に顔を出しては、居合わせた使用人を驚かせている。
「しかし、ここはお嬢様が来るようなところではございません。お送りいたします」
道具箱に道具を放り込み、汚れた手を手拭いで拭い、まくり上げた袖を下ろし、そして白手袋をつけて身支度を整えた。
その一連の動作を、彼女はじっと見ている。胸がざわりと騒ぐのを押し殺して、彼女の帰りを促した。
「お待たせいたしました。戻りましょう、志織お嬢様」
だが、彼女はじっと私を見つめたまま動かない。
黒く濡れた瞳の奥に、見てはならぬものを見た気がして、私は目を伏せた。
視線を断ち切るように、呆れを装ってため息をひとつ吐いた。
「お嬢様」
重ねて促せば、しぶしぶと言った体で、彼女が踵を返す。
暮れかけた前庭を、彼女から一歩下がった位置を保ってついて行く。お互い無言のまま半分ほど進んだ時だ。
「来週の日曜日に、佐野様とお会いすることになりました」
佐野様。それは彼女の
「左様ですか」
何故か彼女の言葉に動揺した私は、それを隠すように殊更感情を消して答えた。
「結婚前にお会いできるのだから、私は幸運ですわね」
それに私は答えられなかった。
会おうが会うまいが、彼女が佐野家に嫁ぐことに違いはない。相手がどんなに嫌な男でも、だ。なら、会う機会は遅い方が良いのではないか?
前を歩くほっそりとした背中をいくら見つめても、何の答えも見いだせなかった。
「ここまででいいわ。ありがとう、百目木。お仕事の邪魔をしてごめんなさい」
玄関先で私の方を振り返った彼女は、明るい声でそう告げた。翻ったスカートの裾が目に痛いほど鮮やかだ。
「明日もよろしくね」
「はい」
玄関の扉を開ければ、彼女はその中にすっと身を滑らせた。すれ違いざま、薔薇のような香りが鼻をくすぐる。
くらり、と視界が揺れた気がした。身の内で、何か熱いものがうねる。
違う。違う。違う。
この熱はまやかしだ。本物であるはずがない。
私は、片手で額を覆った。
落ち着け。
彼女は憎い男の娘。
大きく吸い込んだ空気をゆっくりと吐き出して、私は顔を上げた。
そうだ、これは気の迷いだと。
なのに、自戒するそばから希求してしまう。
私の隣であの人が微笑む未来を。この手であの人をかき抱く未来を。
「参ったな」
自嘲する私の頭上で、巣に帰る鴉がひと声鳴いた。「阿呆」と、煽るように。
そうか。私が本当にほしいのは……。
「……志織お嬢様、だ」
心に滲んだものは、今はっきりと形を現した。
お嬢様と運転手 時永めぐる @twmgr
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