声優
みつお真
第1話 木山正博の苦悩
日曜日の昼間に買い物をしている自分を、数年前には想像すらしていなかった。
胆嚢癌で妻の凛子が他界して一年。
どうしても甦る想い出と葛藤しながら、木山正博はマイバックを片手にスーパーの食品売り場を歩いていた。
料理のレパートリーは増え、洗濯には柔軟剤も使うようになった。
今晩のおかずは手羽元とじゃがいものトマト煮込み。それにシーザーサラダとたまごスープ。
ひとり息子の翔太の好物のプリンと、自分用にビールも一本つけてレジへと向かう。
日曜日のスーパーは家族連れで賑わっていた。
今年で三十路になる正博の妻は、生きていたなら来月のクリスマスイヴに33歳の誕生日を迎えるはずだった。
哀しみも癒えぬ間に過ぎゆく時間の恐ろしさを痛感しながらも、ついつい目線は笑顔の家族連れに向いてしまう。
『これじゃあいけない』
自分のもろさを振り払って、8歳になる翔太の事を考えた。
我が家の固定電話の留守録テープが、毎日再生されているのだ。
おそらくは妻の過去の声を翔太が聴いているのだろう。
自分に迷惑をかけまいと、翔太はそれについては何も語らないでくれている。
『時間が解決してくれるのかな』
そう思いながら、正博は列に並んだ女性の背中をただぼんやりと眺めていた。
スーパーのアナウンスが心地よかった。
『一階フロア。サイクルコーナーでは、通勤通学にぴったりの自転車を多数取り揃えております。地下フロア。寒い季節にぴったりのー』
微かに鼻から抜ける声。
息継ぎのほんの些細な間。
『さあ。もうすぐクリスマス。きっとー』
正博は『きっと』というアナウンスの声に懐かしさが込み上げた。
偶然とは思えない程、亡き妻凛子の声と似ていたからだ。
もう一度聞いてから帰ろうかと思いながらも、正博はそんな愚かさ戒めた。
『これじゃあいけない』
正博がさいたま市の桜区の住宅街にマイホームを構えたのは22歳の頃ー大学を中退し、アルバイト先のイタリアンレストランにそのまま就職した時期だ。
凛子は当時、同じ店でアルバイトをしていた。
翔太が産まれて幸せな家族を築き上げてゆく筈のマイホームは、今では辛い記憶の塊の小箱。
正博は門を開けて頬を数回叩いた。
その動作はもはや癖となってしまった。
翔太はリビングの大き過ぎるテーブルに肘をついて『声』を聴いていた。
ママの声がしている。
もう何度聴いたことだろう。
入院していた病院やホスピスから毎晩声を聴かせてくれたママがいないことは知っていた。
だけどその『声』を忘れたくはなかったから、毎日毎日ママの声を聴いていた。
『翔太、友だちとは仲よくしてる? 今日ママね、ちょっとだけおさんぽしたの。ネコちゃん見たよ。まっしろなやつ。ママね、もうすぐ帰るからね』
日に日に弱々しくなるママの声。
それでも翔太には充分だった。
すぐ近くに大好きなママがいてくれる気がした。
『翔太の元気な顔みれたからママも元気になったよ。おみまいありがとね。ちゃんとはいしゃさんいくんだよ、翔太は男の子だもんね』
この留守番電話があった日から毎日、翔太は歯磨きをするようになった。
その約束を守る事で、ママが元気になると思っていたからだ。
『翔太、ママね、もうちょっとだからね。そしたらパパと、翔太とディズニーランド、いこうね』
このメッセージから1週間後に凛子はこの世を去ってしまった。ディズニーランドへは行けないままー。
玄関の扉が開く音がして、翔太は慌てて電話機のスピーカーボタンを切った。
「今日はチキンのトマト煮だぞー! 腹ペコだあ!」
正博の明るい声が、翔太にはとても辛かった。
『パパはママのこと、もう忘れちゃったの?』
凛子を驚かすために買ったダブルベッド。
そのベッドを凛子が見る事はなかった。
隣でスヤスヤ寝息をたてている翔太の頭を撫でながら、正博は目覚まし時計をセットした。
『6:00』
翔太の弁当は、今日のトマト煮をたまごで包んでオムライスに。
そこにサラダを添えて、ウインナーを焼いて持って行かそうと考えていた。
仕事は無理を言って17時退社にしてもらっていたが、いつまでそれを続けられるのかは解らなかった。
日曜日の夜になると、決まって現実世界の不安が襲いかかってくる。
正博はため息をついて翔太の頬を撫でた。
プリンのように柔らかいほっぺたは、生暖かい涙で濡れていた。
それでも翔太は眠っている。
正博は翔太のからだをそっと抱き寄せた。
凛子がよくやっていた仕草だった。
ふと、スーパーで耳にしたあの声が気になった。
凛子にそっくりの『声』が、正博の心から離れないでいる。
スーパーの店長と正博は、高校時代の同級生で部活も同じサッカー部だった。
正博は翔太の温もりを感じながらある事を思いついた。
凛子の声を、もう一度聴かせてやりたい。
それが翔太にとっての救いになる気がした。
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