天は玄く、而して地は黄

武江成緒

一、 古廟




 北平ペイピンの春は、風が強い。


 刻が夜半よわに近づいて、いよいよたける風は、黄土こうどの広がる山西シャンシー高原、北方の沙漠さばく、果ては遥か西方新疆シンチァンより来たり、黄色の砂塵さじん城邑じょうゆうを包んでゆく。

 この小さな胡同よこちょうかくまわれる分には、風も砂もいささかやわらぐものの、黄砂こうさの積もりし路上や家屋が、かすかにまたたく星光に浮かぶさまは、砂の故郷たる西域の街路すら幻視させるものがあった。


 そも、中原の北辺であるこの地が都と定められたのは、北方より侵入せし契丹キタイ族が南京幽都府を置いた時だ。

 女真ジュルチンの中都、蒙古モンゴルの大都を経て、明初にかつての 『北平』にかえったも束の間、この地を本拠として皇権を奪った永楽帝により『北京』と改められ、二百年後、またしても北方より来たる満州マンジュ八旗の都となった。

 かくて中華と胡地こちの境に殷賑いんしんきわめたこの都も、去る辛亥しんがいの年に江南より燃えあがりし『革命』により、今また「京」たるを失った。


 一月も前に愛新覚羅アイシンギョロの朝権がたおれ、華夷のすべてに覇を唱えた皇都の稜威りょういもまた、えつつあるかに見える。

 それでもなお、砂をはらむ西方の風は、暗くよどみ崩れた小路の一条一条に、はるかなる異境につながるのこを、果てしなく、かんばしく、どこか怖ろしい香りを呼び起こしている。

 かつての盛時にさえ寂寥せきりょうたる様であったろう気配が濃くただようこの街区。

 その隅に黒く潜むこのびょうも、界隈かいわいの住民が恐る恐るささやき交わすところを信ずれば、西域より来たる異人たちが礎石そせきを置いたものであるという。

 元世祖せいそ忽必烈フビライの代には、すでにその礎は黄砂に汚れていたと言われるこの廟。

 しかし今は、夜闇を通してすら、いたる箇所がこわれているのが見て取れ、陽光の下にても異国の名残なごりなど見出せそうになかった。




「私が孩子こどもの頃には、もうこのような有様でございました」


『西太后』こと慈禧じき太后が統べし時代の禁城に仕えたというその老宦官かんがんは、懐かしげに、老婆の声でつぶやいた。

 乞丐こじきはどころか、野狗のらいぬも近寄らないこの廟をよく知るという話に偽りはないらしい。

 襤衣ぼろにおおわれた、やせ衰えた体をくねらせ、なかば崩れた扉をたくみに開く。夜闇にもまして暗い、四角いあながあらわれた。

 漆黒に染まった戸口からは、砂の匂い、ほこりの匂い、そして、鉄錆てつさびのごとき臭気が吹き出てくる。

 足をとめた私に、妙に白濁した目をむけた老人は、老婆の顔を笑うように歪ませると、すり切れたすそを、敷居の向こうがわへと引きずってゆく。



 急いで後を追おうとして、最後に夜空を振り向いた。

 猛風にはらわれて、夜天には雲の一片すらない。

 星については、かつて兄が、公私ともに熱心に語ってくれた知識が、しかと脳裏に刻まれている。


 南天には柳宿りゅうしゅく星宿せいしゅくが高く上っている。南天を護る霊鳥、朱雀すざくくちばしのどをそれぞれ象徴する星だ。

 だが西洋においては、朱雀の首にあたる張宿ちょうしゅく、翼である翼宿よくしゅくとともに「長蛇座うみへびざ」を形成する。すなわち西洋古代の神話に登場する恐るべき水妖「九頭蛇ハイドラ」を表すのだ。

 西洋の天文学アストロノミーが普及するにつれ、「天文てんのふみ」を読みとる手段として定められた星の宿も忘れ去られてゆくのだろう。

 そう思うとこの星空から、守護神たる朱雀が去り、代わって巨大な水妖すいよう蛇が鎌首をもたげている光景が想起され、さらに不穏な気分が増してきた。


 ふと、視界の右に、三つの明るい星が目に入った。

 これまた西洋で言うところの「冬季ふゆの大三角」だ。星空にあっても目立つ三つの星のうち、赤い星に目をむける。

 參宿しんしゅくの第四星、すなわち西洋で言う「Betelgeuseベテルギウス」だ。その下には、參宿の中心たる三つの星、そのさらに下には參宿第七星がある。「Rigelリゲル」とも呼ばれるその青い星の傍らには、天の「玉井たまのいど」とされる小さな星々がかすかに見て取れた。

 いずれも、かなり地平に近づいている。



 西洋外套コート口袋ポケットより、懐中時計を出して時刻を確かめる。

 十時十五分。

 馬燈カンテラをかざし、闇の奥に消えつつある宦官の小さな背中をあわてて追った。



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