お涙ちょうだい

福津 憂

「お涙ちょうだい」

私の書いた悲劇を読んだ彼女は、その静やかな目を細めては、弾けたクラッカーのように笑うのだった。私がどれだけ報われない話を書こうが彼女は泣かなかった。他の人間が隣で目頭を押さえていようが、彼女だけは腹を抱えて笑い転げていた。このまま笑い死ぬのではないかと思うほどに。


 私は売れない物書きをしていた。小さな文学賞の一つも取れず、蛍光灯の切れた一間で十年物のノートパソコンを叩き続けている。数週間前に首になったアルバイトの代わりを見つけないと、そんな焦りの中で起きたのが、あの干ばつだった。

 日本中のダムは干上がり、水は配給制になった。ただ、その微量の水では生きて行ける訳もなく、市場の水価格は高騰した。収入もなく、頼れる親族もいない。友人に水を無心する気にもならず、仕方なく路上で水を集めることにした。毎日毎日、陳腐な悲劇を書いては路上で売る。数分で読めるその短い話達は読者の涙を誘い、私はそれを集めては濾過して飲む。汚い商売だ。つくづく自分が嫌になるが、私にはその才能が少しはあった。

 大切なのは話の内容ではなく、売る場所、そして私の為人だ。話達を広げるのに適当な場所は色々ある。例えば映画館のあるターミナル駅のそばの明るい広場。切ない映画で涙腺を緩めたカップル達の興味をさりげなく引くように、小綺麗なボードにタイトルとあらすじをまとめ、美しく装丁された冊子を慎ましく並べる。路上での商売は、特に私のような話売りは、決して厚かましくあってはいけない。涙には雰囲気が不可欠だ。私も落ち着いた、かつ堅苦しすぎない服装で作品の後ろに立つ。彼らは話の内容よりも、その空間の雰囲気や、読んでいる自身の心情に涙を流すからだ。余程の本の虫でもない限り、人の涙は雰囲気と作者の人間性で頂戴できる。濡れた犬のような顔だねとずっと言われ続けてきたが、今回ばかりはそれが幸いした。彼女が初めて来たあの夜までは、私はそれなりに稼げていた。

 底冷えのする年の暮れの夜だった。暖かいコンビニのホットスナックの誘惑に耐えながら、私は話を売っていた。「お得意様」のカップルがいつものように来店し、私の思惑通りに涙を流す。今夜は三十分前に近くの映画館で恋愛物の上映があり、涙脆いカップル達が面白いほどに涙を零して行った。冬の夜は涙が蒸発しないから、私にとっては稼ぎ時と言える。そんな繁忙期の雰囲気を打ち壊しにしたのが、彼女だった。

「一番泣けるやつをお願いします」砂糖のたっぷり入った、暖かい紅茶のような声の彼女は、寒さに歯を打ち合わせている私にそう頼んだ。今日のおすすめはこちらですね、私は結婚式の直前に花婿を亡くした女性の話を手渡す。例の映画館で上映されている新作に合わせて書いた話だ。彼女くらいの年齢なら、きっと観ているだろう。涙を稼ぐには、相手にあわせた処方が必要だ。パイプ椅子に立てかけてあるボードのあらすじに目を通した彼女は、「可哀想な話」と呟くと、文庫本より少し大きな冊子のページをめくりだした。はじめの方こそ順調だと感じていた。彼女は時折ページをめくる指を掌に握り込むと、唇を噛み、乱れ始めた呼吸を整えようとする。さぁ泣け、さぁ。そんな私の願いとは裏腹に、彼女は突然吹き出した。奇妙な空間だった。コートやダウンジャケットに身を包み、啜り泣きの声が響く集団の中で、彼女だけが笑っていた。駅前の針葉樹に飾られた電飾のように、綺麗な笑顔だった。彼女は一分ほど笑ってはページを進め、私が仕掛けた泣き所の罠を枯葉の中から剥き出しにしては、また笑った。

「はー涙がでてきちゃった」彼女は赤らんだ頬をぱしぱしと掌で叩くと、満足げな表情を浮かべる。お代はこれでいいですよね、と私にカップを手渡すと、私が面食らっている間に、駅へと向かう人混みに紛れていった。それから彼女は、二三日に一度私の店へ来るようになった。

 駅前のロータリーで話達を売っていると、彼女は決まって一番悲しいものを買い、ゲラゲラと笑っては帰って行く。代金としての涙はもらっているから困らないが、あんまり彼女が笑う物だから、他の客の涙が引っ込んでしまうこともあった。そうなれば話は別である。彼女にもう来ないでくれと言うこともできたが、私は彼女の為に第二号店を開くことにした。何と言えば当たり障りが無いだろう、端的に言うと、彼女は綺麗な人だったからだ。

 店の閉店後、私たちはバス通りを挟んだ向かいにある喫茶店に入り、彼女と向かい合って話を売る。私はミルクを付けたコーヒーを頼み、彼女は紅茶とケーキを注文する。お題は私持ちだ。その紅茶とケーキが、二号店まで来てもらうために私が払う手数料だった。

 街中にクリスマスケーキの広告が貼られ始めた頃だった。いつもの喫茶店に入ると、私はコーヒーを頼み、彼女は紅茶だけを注文した。彼女がいつも頼むケーキは売り切れらしい。来ていたコートを丁寧に椅子の背にかけた彼女に、私はこう尋ねた。

「なぜ私の書く悲劇でそこまで笑うのですか」月並みな話を小馬鹿にする客は今までにもいたが、彼女のように心底幸せそうに笑う人は初めてだ。

「あれ、私幸せそうに見えていましたか?」

「えぇ、心の底から楽しそうです」

「それはちょっと誤解させましたね」

本当はすごく悲しいんですよ、と彼女は笑った。

私の人生は、あなたの書く悲劇そのものです。彼女は紅茶を啜り、少し眉をひそめると、砂糖を継ぎ足して話し始めた。

「まず、高校に入りたての頃に、母親が死にました」物心つく前だったらどれだけ楽だったか。何も理解できないほど子どもじゃ無かったけれど、全てを受け入れられるほど大人でも無かった。そう告げる彼女の話はとても悲惨な物だった。目の前でカップを持つ、目鼻立ちのくっきりした彼女は、僕が想像上で作りあげたような悲劇の国を生きていた。いくら努力しても報われず、肉親との死別、婚約者の病死、職場からの解雇。呑気に適度に生きてきた自分が恥ずかしくなるほどだった。

「でも、それももう終わりです」私、手術するんです。彼女は薄い茶色の目を細めた。

前にいた職場で受けた健康診断の数値が悪くて。何だか嫌な予感はしてたんですけど、やっぱり私は悲劇のヒロインみたいで、癌らしいです。それも結構末期の。最後にケーキ食べたかったなぁ、と彼女はため息をつく。その目はいつでも来られる店の品切れを嘆くような、慣れきった悲しさが写っていた。彼女がもう一口、紅茶を飲む。喫茶店のドアがチリンと鳴った。


「良いな、この話。特に設定が良い」悲しい話を売って収入にしていることを、「涙を稼ぐ」ことで表しているのか、そこに現れた本当の悲劇のヒロイン、とな。

仕事帰りの会社員が冊子のページをぱらぱらとめくりながら呟く。

「悪いね、私は生憎涙腺が硬い人間でさ。代わりにこれ、とっておいてよ」君は良い話を書くね。また来週来るよ、と男は私に千円札を握らせた。


 私と彼女は、ある種喜劇的とも呼べる出会いを果たした。私が話を書いては売るたびに、彼女との喜劇も少しずつ進んで行く。けれど、彼女がそう言った通り、クリスマスを目前に控えた頃から、彼女は私の前に顔を出さなくなった。同じカップルが体を寄せ合っては話を買い、涙の稼ぎも昔に戻った。二十一時の噴水が上がる頃に、私は店を片付け始める。するとどこか物寂しく感じるのだ。いつもの喫茶店のガラス窓の横を通り改札へと向かう。私たちがいつも座っている席には、大学生くらいだろうか、カップルが腰かけ、蜜のかかったアップルパイを食べていた。あんなメニューもあったのか。彼女はあの最後の夜、ケーキを食べ損ねていたっけ。優しい甘さのアップルパイでも注文すればよかったかな、一人じゃ多いだろうから、取り皿でももらって。そんなことを考えながら、ポケットに入った定期券を取り出し、改札をくぐった。

 彼女から連絡があったのは翌日の朝だった。手術を控えている彼女は、来週大きな病院へと転院するらしい。迷惑じゃ無かったら、お店が終わった後に病院に来てくれないかな、一週間だけ。すっごい悲しいやつを書いてきて。全部笑い飛ばしてあげるから。電話の向こうの声は静かに告げた。それから私はお店を休むことにした。朝起きて悲劇を書き、夜になると彼女のもとへ持って行く。お店では出せないような酷く残酷な話ばかり書いた。ベッドの中の彼女はにやつきながらそれを手に取ると、フロア中に響くほど大きな声で笑った。あんまりうるさいものだから、看護師が何度も注意に来たほどだった。

 「何でそんなに笑うのか、そういえば全部教えてもらってなかったな」悲劇のヒロインが笑い上古な訳を僕は尋ねた。

「私、小さな劇団にいたんです。最初の頃こそ演者としては優秀だったんですよ」でも途中からダメになったんです。彼女は淡々と話し始める。私は彼女の足元のめくれたシーツを整えると、ベッドの隣に置かれた椅子に腰掛けた。

「ある日の講演の後、自分の方がひどい人生じゃ無いか、そう気づいたんです」私は悲劇を演じられなくなった。笑っちゃうんです。これまではどんなコメディを見ても笑えなかったのに。だからクビになって、とぼとぼ家に帰って、その夜あなたの話を初めて読みました。

「どれだけ私が笑っても、あなたはありがたがってくれた」

「まぁどんな形であれ最後に泣いてくれるなら構わない」

「あの喫茶店であなたとお茶を飲んで笑った夜は、私の人生で唯一の喜劇でした」

だから最後まで私を笑わせてくださいね、あなたは私にとっての喜劇王ですから。

彼女はそう言うと目尻を下げた。

それからの一週間、私は彼女の期待に応えようと悲しい話を書き続けた。彼女の人生を書いた。そしてそれを読んだ彼女は、満足げに笑い転げた。

 転院の前夜、私は最後の話を持っていった。それは彼女の話、そして私の話だ。その話はこう始まる。


 王女と鯨の出会いは、それはそれは悲しいものでした。

蔦の巻きついた塔の上に住む王女は、いつも泣いてばかりいました。

美しい蝶の羽ばたくのを見ても、木々の間の小鳥が囀るのを聞いても、王女はずうっと泣いていたのです。

あんまり王女が泣き続けるものですから、やがて塔の下には小さな湖ができました。

やがて森は湖に沈み、涙の湖は海になりました。

塔の窓の下には波が打ち付けるのです。

子鹿も花畑も海の底に沈んでしまいました。

王女はずうっと泣いています。

それは月の綺麗な夜のことでした。

海の底から、何か大きなものが浮かんできます。

月明かりに照らされたそれは、海の中から静かに顔を出しました。

大きな大きな鯨でした。

どうしてずっと泣いているのですか。

鯨は王女に尋ねます。

全部が悲しいからよ、王女は鯨に答えます。

ならば一緒に海の底へ行きましょう。

鯨は王女を誘います。

海の中では息ができないわ、王女は不安げに答えます。

心配には及びません、この海の水はあなたの涙です。

あなたの涙の中でなら、あなたはずっと生きていけます。

鯨は優しく話し、王女は小さくうなずきました。

王女は鯨の背中に飛び乗ります。

鯨は低く鳴き声を上げると、ゆっくりゆっくり海の底へと潜って行きました。

海の中では全てが青く光っていました。

鯨も王女も、薄青く揺れています。

王女はもう悲しくなんてありません。

涙の海の中では、もう泣く必要もありませんでした。

やがて二人は海の底へ辿り着きました。

王女と鯨は海の底で、今も静かに眠っています。


 最後の話を読み終えた彼女は、初めてあった夜のように、体を小さく震わせていた。さぁ笑え、さぁ。そんな私の願いとは裏腹に、彼女は大声で泣き始めた。私の体を引き寄せて数回叩くと、セーターに顔を埋めて泣き続ける。戸惑う私を余所に、彼女は一頻り涙を流し終わると、ため息をつき、小さく笑った。

「優しい話、書けるんだね」でもこんな最後じゃ、悲劇のヒロインのままじゃん。彼女は患者衣の袖で目元を拭うと、そう呟く。先に吹き出したのはやっぱり彼女で、私達は涙の跡が残るくらい笑い続けた。頬を真っ赤に染めて笑う彼女は、まるで真冬の空に打ち上がった花火のようだった。


喜劇的な出会いで始まった私たちの話は、こうして悲劇的なハッピーエンドを迎えた。



 

 「いやぁ、中々良い話だった。頑張ればこれで食っていけるんじゃないの?」例の会社員がそう言った。

「そんなに上手くは行かないですよ。今日だってあなたしか読んでくれませんでしたし」事実は小説よりも奇なりとは言ったものですが、現実はそこまで出来事に満ちているわけじゃあないですよ。私はお代の百円玉を数枚受け取ると、小さな缶の中に落とす。

「まぁでも、君は学生かい?彼女さんとも仲良くね」それじゃあ。君の書く小説のように悲しませるんじゃないよ。と男は軽く手をあげて会釈をした。

「彼女?」私は尋ねる。

「あの向かいのカフェによく二人でいたじゃないか。彼女はずっと笑っていて、道にまで聞こえていたよ」男は茶化すような口ぶりで話した。

「最近は見ないけど、元気かい?」

「あぁ、あの人のことですか」


どうでしょう、笑い死んだのかもしれませんね。私はそう返すと、小さく笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

お涙ちょうだい 福津 憂 @elmazz

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ