#2 防衛省からの依頼
「百合ヶ丘先生!百合ヶ丘先生!」
誰かの声がする。
ランは少しずつ意識を取り戻しながら、さてこれは誰の声だろうかと消去法で考える。
男の声だ。
救急隊員だろうか?
いや、自分のことを「百合ヶ丘先生」と呼ぶ救急隊員はいないだろう。
もうすぐ定年を迎える、隣の研究室の教授だろうか?
いや、それにしてはこの声は若い。
アイツだ。
「ああ、先生、気がついた、よかった……」
彼女が目を開けると、スマートフォンの明かりがほのかにシュウの顔と天井を照らしていた。
「倒れている本棚から顔が見えたとき、最悪のことを考えましたが、本当によかった」
彼女を目掛けて倒れた本棚は、かろうじて横のデスクに引っかかっていただけだった。
ランに重くのしかかったのは、十数冊程度の本だけであった。
しかし、それは小柄な彼女の意識を奪うには十分だった。
「シュウ、ありがとう、だが……」
ランは仰向けの状態から少し左を向いて指差すと、続けてこう言った。
「最悪だ——保存はできなかった」
指の先の床には壊れたノートパソコンが転がっていた。
「でも先生、無事でいてくれてよかったです」
ランはかすれるような声で返事をした。
「シュウ、君は本当に馬鹿だなあ……君は研究より命のほうが大事とでも思っているのかい?」
面食らった様子のシュウを見ながら、やはりこいつは何もわかってないのだなと、ランは思った。
小さな声で彼女は話を続けた。
「研究がなかった世界のことを考えてみようか……まず医療はどうなっているか?きっとヤブ医者だらけでまったく間違った治療法が
シュウは反論の言葉を思い浮かべようとするが、ランを心配するより他に考えを巡らせることはできなかった。
そんな折に、ランのスマートフォンが鳴った。
「ああ、君、出てくれるか……」
シュウは彼女の胸ポケットから——半自動的に巡るその感情を抑えながら——スマートフォンを取り出し、電話に出る。
「もしもし、百合ヶ丘先生でいらっしゃいますか?」
「あ、えーと、百合ヶ丘研究室の生徒です」
「生徒?なに、彼女は無事なのか!?」
「はい、なんとか……」
ランはスマートフォンから漏れるその声の主を知っていた。
しかしなんとなく面倒事に巻き込まれそうだな、と感じたランは、電話を代わろうとしなかった。
「無事だったか、それならよかった。彼女に代われるか?」
シュウは、倒れているランの様子がやはり気がかりであったので、問題ないなら自分で返事をしようと思った。
電話の相手が彼女の親族とか恋人——もしいるとしたら——でなければ通話を切ろうと思っていた。
「あ、すみません、どなたでしょうか?」
「ああ、すまない。防衛大臣の川野だ。彼女に至急依頼したいことがあるからすぐに代わってほしい」
相手の名前を聞いてシュウは驚いた。SNSの投稿が面白がられてよくバズっているあの川野だ。
口調や声色も確かにニュースで見るあの感じだった。
しかし大事であることをなんとなく察知したので、シュウは急いでランに代わろうとした。
「先生、あの、防衛大臣の川野さんから電話です」
ランはとくに表情を変えることなく、横になったまま電話を代わると、
「あー、もしもしー?」
「百合ヶ丘先生、お久しぶりです。単刀直入に申し上げます。東京湾原子力発電所が大きく破損した。このままでは原子炉の
ランの研究の1つとして、「物体の自動修復AI」があった。
彼女はこの分野において第一人者であったが、研究の成果は実用化されていなかった。
あまりにもコストが高すぎたから、大手IT企業ですらそれを活用しようとは思わなかった。
彼女はあまり鮮明でない意識の中でふと思う。
自分は実のところ、このような大災害を心の奥で望んでいたのかもしれない、と。
彼女は普段より少し高い声で返事をした。
「さて、どうしようかなあ?」
「10億円出します。あくまで研究費として」
「ふふっ、承知した」
気怠そうなランの表情から笑みがこぼれた。
しかしその表情はどこか不気味でもあった。
少なくとも、シュウは暗闇の中でスマートフォンの光で少しだけぼうっと明るくなっているランの顔を見たとき、そう思った。
「私は今から準備をするから、防衛大臣の……誰だっけ、まあいいや、彼の相手をしていてくれ」
ランはシュウに電話を押し付けると、まだ安定しないその体を起こして部屋の奥の方に歩き始めようとした。
しかし、その方向には割れた窓のガラス片だとか、散らばった本などの
シュウは暗闇の中で歩くには危険すぎると思って、彼女の向かう方向を塞いだ。
「準備って、なんの準備ですか!」
「
「
電話先の川野はこちらの様子を見透かすかのように話し始めた。
「百合ヶ丘先生、そこで安静にしたまま、待っていて大丈夫ですよ」
ランとシュウはその声に反応する。
「自衛隊のヘリコプターが今そちらに向かっている。すでに到着しているかもしれないな。彼らには『すべて』伝えてあるから、君たちは
複数の足音が廊下から響いてきた。
まもなくドアが開くと、迷彩服に身を包みヘルメットを被った、がたいの良い自衛隊員が3名入ってきた。
「——それでは、頼んだ」
川野はそう言って電話を切った。
1人の自衛隊員——おそらくこの作戦の指揮を
「
自衛隊員は散乱した
何か重要な研究データの入っていそうなUSBメモリや、無事だったノートパソコンとかを優先して取り出していた。
ヒビが少しだけ入っていたディスプレイについては少し迷っているようだったが、袋には詰めないようだった。
「このぬいぐるみは?」
自衛隊員がうさぎのぬいぐるみを指差してシュウに質問した。
ランにとってそれは「研究に必要なもの」であった。
「必要です」
概ね詰め込んだところで、2名の自衛隊員は大きな袋を運びだし、ヘリコプターに向かっていった。
残った1名の、いちばん大柄な自衛隊員がシュウに尋ねる。
「彼女は……?」
「僕が運びます」
ランはその言葉を聞いて、思わずシュウの方に目をやった。
短髪のがっちりとした自衛隊員に比べたら、シュウはちょっと髪が長い。
そして、細身でパーカーを来ている感じは、なにか頼りないようにランは思った。
しかし、コイツは案外綺麗な目をしているんだな、と思ったりして、少しだけ心が揺れ動くのを感じた。
一方で、シュウは「僕が運びます」という言葉が出たのは、正義感だとか義務感によってではなかった。
そのことが、少し奇妙な感じがしていた。
しかし、ランに対してでなければそう言わなかったであろうから、何らかの不可逆なエネルギーによってその言葉を紡ぎ出されたのだという感じがしていた。
「では、お願いします」
自衛隊員はそう残すと、ドアの外に出た。
2人の前に少しの静寂が流れた。
シュウはランを抱える。
小柄な彼女の体も、持ち上げたときは少し重く感じられた。
空いたドアに向かって歩き始める。
その歩き方があまりにも慣れない感じだったので、ランは少し笑った。
屋上に続く階段へと向かって廊下を歩く。
歩いていくにつれ、ランの重さは軽くなって、代わりに熱を帯びたように感じられた。
階段を登るとき、彼の足取りは意外なほどしっかりしていた。
2人がヘリコプターに乗り込むと、パイロットと思しき自衛隊員が告げた。
「これから出発します」
ヘリコプターが屋上を離れたあと、あらためて2人は現実感のなさに気づいた。
ヘリコプターが飛行するときの、バラバラという大きな音は些か興ざめではあったのだが、ランの声が小さかったから、自然と2人の顔は近くなった。
ランはふと外を見下ろした。東京湾に満月が反射していた。
「科学で予測不可能なことも、あるかもしれないな」
「そうですね、だけど……そんな世界でもいいと、僕は思います」
二人は目の前にある「不確かさ」が素敵だと、そんなことを思った。
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