魔法国家の破壊実験 >>> if AI.isMagic(): # 科学との境界において
奇崎有理
第1章 崩壊
#1 鳴り響く夜
数式が目の前で崩壊している。
——前触れのない出来事はこの世にありふれている。
10月2日、午後8時頃の出来事であった。
地面が激しく揺れた。
いや、突き上げられたという方が感覚としては正しいかもしれない。
倒れ込む人々。
首都直下型地震であった。
直後、東京のとある街を歩く人々のスマートフォンはけたたましい地震速報のアラートを鳴らす。
それはすでに肉体のコントロールを振動に奪われた者にとっては、声にならない恐れの増幅でしかなかった。
その街で2番目か3番目に大きい看板を照らすライトが落下し、地面を打ち付けて甲高い音が響く。
人々はその音にびくりと反応するが、自己の肉体を守ろうとするとき、その方向を向く力はなかった。
何かが割れる音、破裂する音。
地面からの振動に加えて、何か大きな物が落ちる音の衝撃が連続して人々を襲う。
泣き喚く声、助けを呼ぶ震える声。
まもなく電気の供給は停止し、街を包む明かりが消え、暗闇の中を音と声が響く。
そのとき、月と星々は残酷なほどに輝いていた。
数百万人に及ぶ大量の死者が出た。
道路は動かない車だらけで、その機能を失っていた。
ある車は落下物に押しつぶされていたし、またある車はキーの持ち主を失い、ただそこに
ビジネスマンであればそんな時でも仕事のことしか考えていない人間も、中にはいただろう。
しかし彼らも、生存本能として自らの安全を捨てることはしなかった。
それは研究者にとっても同様である。
——ただひとり、
東京湾大学人工知能研究所教授、百合ヶ丘ラン。
彼女は科学者であり、同時に、高校生でもあった。
ランは飛び級を繰り返していた。
米国の大学でコンピューターサイエンスの博士号を昨年修了した。
彼女の研究の成果は凄まじく、それまでの情報技術、とくにAIの分野においてはほとんどの概念を過去にするようなものだった。
その大学で研究を続けるか、あるいは有名なIT企業からのオファーも十分にあった。
だが、彼女は「視野を広げたい」などといったどこか
彼女は帰国したあと、東京湾大学人工知能研究所からのオファーがあり、いきなり教授を務めることとなる。
しかし、一応17歳ではあるから高校に籍を置いていた。
このことはやはり物珍しかったし、なにより金髪で小柄の、制服を身にまとった美形の女子高生が大学で教鞭を振るう様子のギャップが世間にウケたのであろう。
またたく間にSNSで話題になり、続いてメディアの取材が来たりした(これにはラン自身はうんざりしていたのであったが)。
大学教授としては、講義もユーモアがあって、何より世界最先端のAIということで、未来へのワクワクする感じが大学生には人気だったようだ。
そんな有名人である彼女も、なんとなく研究が少し行き詰まった日の夕方とかに、少し高校に顔を出すことがときどきあり、周囲を驚かせていた。
高校での退屈な授業を受ける気は一切なかった。
ただ、彼女が米国にいるとき学生生活などというものはおよそ無縁であったから、可愛らしい制服を来て高校に通うという体験は新鮮であって、それなりに気に入っていた。
ランは東京湾大学のキャンパスも気に入っていた。
彼女が昨年まで通っていた米国の大学は比較的新しかったので、施設はすべて最新のものであった。
しかし、ランにとってその風景はあまりに無機質で退屈なものであった。
一方で、この東京湾大学にはどこか「時代遅れ」な魅力があった。
傷をつけたらたぶん相当怒られそうな門。
昔とある事件の起きた講堂の古めかしさ。
そういったものが彼女にとってのお気に入りであった。
中でも一番好きだったものは、夜8時くらいになると東京湾に集まりだす屋形船を、AI研究所棟の最上階にある彼女の研究室から眺めることであった。
さて、その日、彼女はとあるAIの研究の一貫として、スーパーコンピューターを稼働させていた。
経過時間の表示は3日と8時間を示していた。
プログレスバーの進捗は99%で、あと10分か20分くらいで計算が終わるなと、そう思った。
少し論文を書いていた手を休めて、何時間前に淹れたかわからない冷めたコーヒーを飲み始めた。
なんとなく屋形船の様子でも眺めようかなと思い、研究室の奥の窓に向かった。
地震が起きたのはそのときだった。
「うわっ」
ランは驚いて声を上げる。
とてつもなく大きな揺れで、部屋がガタガタと音を上げている。
バランスを取ることができなかった彼女は倒れる。
指を引っ掛けたままのコーヒーカップは地面に叩きつけられてカシャンという音を上げた。
しかし、その音は振動にかき消されて彼女が聞き取ることはなかった。
カップの中に入っていたコーヒーは、彼女が指を下ろす勢いに間に合わなかった。
コーヒーが彼女の制服を汚した。
「痛っ」
彼女の手は割れたコーヒーカップの破片で少し血を流していた。
「ああ、ちくしょう、保存をせねば……」
ランはそう呟いて、這ったまま体を強引に前へと動かすようにして入り口のドアのそばのノートパソコンに向かおうとした。
さっき書きかけだった論文の証明が保存できていなかったのだ。
たかが数メートルの距離であるが、強い揺れの前に永遠の距離であるようにも感じられた。
横の本棚が、ガタガタと、大きく揺れていた。
ランが1メートル進んだか進まないか程度のところに到達したとき、その本棚が倒れて、彼女を襲った。
バラ、バラ、と、本が落ちてくる。
「うっ……」
ランはかなりの重さを感じた。
「クソ、保存を……」
なおも彼女はノートパソコンに向かおうとするが、そのまま気を失ってしまった。
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