冬の菫と嘘吐き狼

須能 雪羽

第一幕:御覚山の狗神

第1話:紅葉の季節

 燃えるように赤く、隙間なく、山肌をもみじが染め上げる。今日にも雪の降り落ちんとするこの季節が、すみれは好きだ。

 柿渋の小袖に、父の遺した藍の小袴。濃い黒髪を背中で固く束ね、涸れた沢を歩く。この装束に身を包むことで、山に漂う静けさと、凜たる気配に寄り添える気がする。

 しかしこの日は、多分に騒々しかった。


「おお、猿じゃ。猿が居ったぞ」


 脇の大きく開いた丸襟の、狩衣姿の男ども。中でも偉そうな、一人だけ黒い帯を結んだ男が声を張る。既に肩で息をして、たるんだ頬が揺れているのに、気丈なことだ。

 皮肉はともかく、言った中身がまずい。比較的に近場を歩いていた先達の猟師たちが、一斉に振り返る。


 猿は、去る。

 仲間がこの世から去ってしまうのを怖れ、山に入る者は決してその名を口にしない。猟師も炭焼きも。


「お公家さま。山であれ・・を、そう呼んではなりません」

「あれ、とは? 猿のことか」

「それにございます。エテとお呼びなさるのが、よろしゅうございます。得手に通じ、獲物を得てとも通じます」


 実のところで菫も、そんなことが人の生き死にに関わるものかと、少なからず思う。だが年寄りから少し上の大人まで、口を揃えて言うものに逆らうつもりもない。

 真か偽りか別にして、敢えて火種を撒きたくもなかった。年上の者は皆、狩りの技を菫に教えてくれた師匠なのだから。


 咄嗟に言ったのも手伝ったかしれない。偉そうな男は疲労の顔に不機嫌を重ね、せせら笑った。


「ふん。何を言うかと思えば、言葉遊びではないか。そのような障りがあるなら、なおさら儂が払うてやろう」

「あっ」


 止める間もなく、公家の男は弓を引いた。矢は一間も外れ、遠い枝をかすめる。猿は賑やかに文句を言いつつ逃げ去った。


「どいつもこいつも忌々しいことよ。そもそもこのようなザレ石の足場では、あたるものも中らぬ。やはり女に案内をさせるのでなかったわ」

「すみません」


 沢の跡であるから、砂や小石が浮いているのはたしかに。けれどもそれは、山歩きに慣れぬ男どもを思ってのことだ。


 獣の日常を脅かさぬ為、森の手入れは最低限としていた。侵入を拒むように生い茂る葉を避ければ、ちょうど眼球の高さへ枝が突き出る。

 そんな中を、普段は牛車でしか家を出ぬ者が、獲物を探し歩く。たちまち大怪我をしてしまうのは、想像に難くない。


「誰ぞ! 代わって案内する者を寄越せ!」


 公家はため息を吐くと、明後日の方向へ怒鳴る。村側の纏め役がどこへ居るか、分からないらしい。

 その声にいち早く返事をしたのは、十間ほど先に居た進ノ助しんのすけだった。


「お公家さま、何かありましたか」


 菫と同年の十六歳。住処も目の前で、幼馴染と呼んでよかろう。

 彼は平地と変わらぬ脚で駆け付け、公家との間に立った。一瞬だったが、呆れた視線を菫に投げつけてからだ。


「何があったか分かりませんが、勘弁してやってください。菫は世間の道理を知らないんです」


 事情も聞かず、進ノ助はいきなり頭を下げた。

 それでも菫がぽけっと突っ立っていると、一旦起きてまた腰を折る。今度は菫の頭を押さえつけて。


「――いや、そうではない。女の足では着いてこれぬようで、気の毒でな。もっと達者な者を頼みたいのだが、居るかな?」

「達者ですか。ええと、それじゃあ俺はどうでしょう。村で一番とは言わないけど、獣の巣穴もよく知ってます」


 進ノ助の態度が、自尊心を満足させたらしい。公家は尊大に頷きながら「良かろう」と受け入れた。

 けれどもすぐに、なぜか顔色を変えた。慌てた視線を辿ると、進ノ助の来た方向へ向いている。


「何ぞあったのですか?」


 圧し折られた枝をそっと避けつつ、若い男がやって来る。菫よりも、二つ三つくらいは上だろう。

 その後ろにも五、六人が続く。進ノ助の案内していた者たちと見える。


「あ、いや。この男の子おのこは、とうぐ――そちらの案内を?」

「ええ、そうです。交代するよう話していたようですが」


 二倍近い年齢差にも、若い男は物怖じしない。むしろ公家のほうが慌てて、言葉を選んで見えた。


「それが、あの。なんと言うか、足がつらそうで」


 公家は進ノ助に言ったのと同じ内容を繰り返した。なんとも、しどろもどろにではあったが。


「それは気の毒に。ならば仰る通り、私の案内役と代わってもらうのが良いようです」

「は、それで良いので?」

「もちろんです。私も体力に自信のあるほうではありませんしね」


 涼やかに笑い、若い男は菫に手招きをする。沢から上がるのに、腕を引っ張ってくれさえした。

 大樹にぶら下がるよりもどっしりと、進ノ助より格段に力強い。体力に自信がないなどと、嘘だ。


 だがそれは、不穏な空気を察してのことだろう。村の者にはない細やかさに、菫はほんのりと頬を染める。

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