第 4 章 第三ユニバース:高エネルギー加速器研究機構(1) 2010年5月11日(火)

 小平一平と加藤恵美が柏の東大宇宙線研究所からKEK(高エネルギー加速器研究機構)に到着すると、湯澤研一、宮部明彦、森絵美は小会議室に既に集まっていた。110インチモニタースクリーンには、ジュネーブのCERN(セルン)の自分の研究室から参加している島津洋子とアイーシャ・ジャヤワルダナが映っていた。このような話はCERN(セルン)のコントロールセンターから公にできる話ではないのだ。


「小平先生、加藤くん、わざわざ(東京大学)宇宙線研究所からKEK(高エネルギー加速器研究機構)までご足労願って申し訳ない」と宮部が言った。「なあに、千葉の柏から利根川を渡ってお隣の茨城県だよ。つくばエクスプレスを使って2時間弱だ。たまには鉄道の旅もいいものだよ。加藤くんも一緒だしね。美人と2時間一緒なのは格別だ」と小平。

「CERN(セルン)との常時回線接続があるKEKが適地だったので仕方なかったのです。まあ、コーヒーでもお飲みください」と宮部は会議室の隅のテーブルの上のコーヒーメーカーからマグカップにコーヒーを注いだ。森がクッキーの小皿を加藤にわたした。「恵美さん、今朝、家で焼いてきたんですよ、ジンジャークッキー。アイーシャにレシピを教わったの」「絵美さんの手作り?おいしそう!」とうれしそうにクッキーをひとつつまんで加藤が言った。


「宮部くん、このコーヒーは美味いねえ。ハワイ・コナかな?」と小平が言うと、宮部は「先生、当てたらスゴイですよ。ハワイ・コナではありません。どこの豆でしょう?」と小平に聞いた。「う~ん、スマトラ・マンデリン?違うな、酸味がないからな。ベトナムのアラビカかな?」「違います。アイーシャの故郷、セイロンの島コーヒーですよ」「ほほぉ、それは珍しい。だが、私がセイロンに行った時の現地のコーヒーの味とは違うな?」「たぶん、先生が飲まれたのはカップの底に粉が溜まっているようなコーヒーだったでしょう?」「そうそう、そういうコーヒーだった」「それは現地の人の呑み方です。焙煎した豆をエスプレッソ用の粉よりももっと細かく挽いて、ドリップみたいに濾さずに、その粉をそのままお湯で溶いた淹れ方なんですよ。砂糖をたくさん入れるし、ドリップみたいな道具も入らない淹れ方です。このコーヒーはアイーシャが紹介してくれた会社から生豆を輸入して、日本でミディアムローストに焙煎して挽いたんですよ。だから、スリランカでもあまりない島コーヒーのドリップ仕立てなんですよ」「ふぅむ、宇宙線研究所でも飲みたいな。どうやって輸入したんだ?」「いえいえ、キロ単位で輸入したのでお分けしますよ。帰りに持っていってください」「それはありがたい」


 コーヒーとクッキーが行き渡ると、湯澤はマグカップを両手で持ちながら、いつもに似ず真面目な口調で話しだした。湯澤は、アインシュタインとサー・アーサー・エディントンの頃の格好だ。第一次大戦の頃のオックスブリッジもかくやと思われる、5月にもなるのに、ハリス・ツイードのジャケット、麻のシャツ、チノパンツをはいた175センチの痩せた男だ。蝶ネクタイをしていないだけマシかも知れない。

「さあて、そろそろいいかな?今日、諸君に集まってもらったのはほかでもない。われわれに起こった奇怪な現象についてだ。2年前、2008年の9月、われわれ7人はジュネーブのCERN(セルン)の管理棟にいた。あの残念なヘリウムの漏出事故が9月19日に起こった時だ」


「みんなも事故の概要を知っているだろうが、おさらいをしておく。LHC(大型ハドロン衝突型加速器)の超伝導磁石同士を直列につなぐために、超伝導線の接続部が何千ヶ所もある。その内の一か所に200 nΩ程度の大きな接続抵抗があった。それがヘリウム流出事故の第一次原因だった。2008年9月19日の磁石励磁試験で、ビームのない状態で5TeVエネルギー(5兆電子ボルト)相当まで電流を上げていた。その途中で、発熱により超伝導状態が維持できなくなり、クエンチが発生、LHC全体が常伝導に戻ってしまった」

「あいにく磁石の接続部はクエンチに対する保護がいちばん弱い部分であって、熱暴走が発生した。接続が熔けて、アーク放電が発生し、ビームパイプとクライオスタットの真空壁に穴を開けた。熱膨張した大量のヘリウムが流出し、その膨張して流出したヘリウムの起こす突風によって多くの磁石がずれ、結局39台の偏向磁石と14台の四重極磁石の交換が必要となった。ビームパイプに穴があいたため、LHCの経路数キロメートルにわたって、内部が煤や断熱材の破片で汚染された」

「既に、5TeVエネルギー(5兆電子ボルト)相当まで電流を上げていたLHCが陽電子、ニュートリノ、ガンマ線を偶発的に放出してしまったのか、どの程度が放出されてしまったのか、放射線検出器が飽和状態になってしまったので、未だにわからない」

「あの当時、われわれはお祭り騒ぎだった。世界初の加速器による5兆電子ボルトの出力。物理学者でしかわからない熱狂状態だった。CERN(セルン)全体がヒートアップしていた。このメンバーは直接あの試運転調整には関わっていなかったから、試運転前から呑み始めていたっけ。島津くんの部屋に集まって、シャンパンを開けて、ガキみたいに輪になって手をつないで、ハイタッチをしていたね?その時、あれが起こった。森くん、キミに何が起こった?前に尋ねたがおさらいしておこう」湯澤は森に尋ねた。


 森絵美は誰もが目を引くような美人ではない。体つきはしなやかで背が高く、スラリとしたウェストと小ぶりな胸、長い黒髪に日本人にしては高い鼻。しかし、少し離れていても感じる強靭な意志と聡明さを感じさせる女性だ。「あの時、私の右隣は宮部くん、左隣は島津さんだった。確かに、湯澤くんの言うようにみんなで子供のように輪になって、手をつないでいたわ。LHCが5兆電子ボルト相当まで電流を上げていった時、みんなが諸手を上げた。その瞬間、モニターがLHCの熱暴走をアラートして、同時に両手に・・・静電気のような強いショックが走って、みんな知っているように両手を離したわ。それから・・・」

「それから、私の知らない記憶が脳内に現れた?と言ったらいいのかしら?私の知らない世界、1979年までの記憶、その世界の21才までの記憶が断片的に出現した。それは、私がその時21才だったと言っている。でもありえないわ。私の生まれたのは1971年で1979年といえば8才よ。でも、私はその記憶では1979年の時は21才で、宮部くんと一緒だった。なぜか、その日が1979年2月17日ということを覚えているの」

「その記憶では、私と宮部くんは、御茶ノ水の駿河台の坂を駅の方に上がっていって、その途中で医科歯科大学の向こうから春雷の音が聞こえてきた。湯島の方角でかなり低い雨雲が垂れ込めていて、そのずっと上の方が雷光でピカピカ光っている。私が『私、雷、苦手なの』と言うと、『大丈夫だよ』と宮部くんは言って私の右手を握りしめた。その時、医科歯科大のキャンパスの方に大きな雷が落ちたわ。彼とつないでいた手にかなりおおきなショックが走った、バチッとした。かなりの痛みが走った記憶があるわ。もちろん、それはあちらの世界の私の記憶、という意味だけど」と森が手短に説明した。「小平博士、この現象は何を暗示しているのです?LHCの熱暴走がこちらで発生した、むこうでは落雷が発生した。どちらも共通するのは、陽電子、つまり反物質、ニュートリノとガンマ線フラッシュの発生。これらの物理現象があちらからこちらへの記憶の転移に関係するということなのですか?」


 小平博士は立ち上がって、島津洋子とアイーシャ・ジャヤワルダナの映っている110インチモニタースクリーンの部屋の対面に有るホワイトボードの前に歩いていった。「森くん、説明ありがとう。何度聞いても興味深い。さて、ほぼ2年間にわたって、このおかしな現象を諸君に口止めしていたことは申し訳なかった。原因を探るために少々時間が必要であったことと、科学者として中途半端な類推は避けたかったこと。それから、これから説明するある理由で、この現象は公にしないほうが良いと判断したからだ。さて、どれから説明していくほうが良いのか、順を追って話してみようと思う」

 小平博士は、ホワイトボードに説明項目を書き出した。


A piece of rum raisin

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https://kakuyomu.jp/works/1177354054934387074

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