第30話

目の前に広がる海のように広い湖面に、風のために白い波が立っていて、湿度の高い風が薫の顔を打ち始めた。

「死のう」と思ってきたこの場所で、自分がどうしたらいいのか分からない時間だけが過ぎていった。

もう何日も食べ物らしきものを食べていないのに空腹感がまったくなかった。


石橋薫は滋賀県の琵琶湖のほとりに立っていた。


大津市のビジネスホテルに投宿して3日目になっていた。


自分を消したいと思って東海道新幹線に乗り、名古屋で降りて、東海道本線を乗り継いできた。

目の前にあるホテルに飛び込んで部屋に入り、その日は部屋から出ることはなくベッドに横になりながら、ただ様々な思いが浮かんでくるのを受け入れていただけだった。


翌日、ホテルを出て当ても無く歩いた。

女ひとりでも何の不信感も抱かれないビジネスホテルは薫のような自死を考えている人間には都合が良かった。

人間的な交流は一切ない、フロントでチェックインしただけの客と従業員の乾いた関係が孤独の淵に立っている人間には心地よいものだったのだ。


「どうやって死のうか」

それだけを考えての時間の経過だった。

琵琶湖を眺められる公園のベンチに座ってもう数時間になる。

過ぎていく時間の感覚はまったくなかった。

ただ目の前に広がる湖面の色の変化だけを見つめているだけだった。



そのころ深津たちは高校生殺人事件の被害者の親友で、緑ヶ丘住宅の公園などにたびたび現れて不審者として事情を聞かれた吉野正晴の周辺捜査を担当していた。

捜査本部では吉野のアリバイが不明なことで家宅捜索を実行していたが、吉野が女と同居している部屋からは犯行に結びつくものは何も発見されなかったし、浴室や台所などの水周りからは血液反応もなかった。

事情聴取のときも何もしゃべらず、黙秘していたから捜査は完全に行き詰っていたのだった。

問題は、吉野は明らかに事件に関係していることは分かっているが、その証拠がなにも無いことだった。

吉野がこの事件のホンホシならなぜ住民に目撃されるようなことをしたのか、では吉野がホンホシではないとすれば、何のために緑ヶ丘住宅に姿を現したかだった。


「吉野と殺されたふたりや石橋薫との接点が見つかれば吉野を追求できるのだが」という管理官のひとことで深津たち所轄の刑事たちは吉野の周辺捜査に全力を挙げていた。


深津は吉野の仕事仲間の渡辺に話を聞いていた。

吉野は内装工事の仕事に就いていた。職人である。

高校を卒業してすぐに職人の道に入った。

渡辺は吉野の1年先輩で職人仲間では一番付き合いが深かったという。


「吉野は真面目な奴で、酒タバコは一切やらないし、ギャンブルもやらない。仕事ひとすじで何が面白いことがあるんだろうと心配するほどだったんです」


渡辺の話では、吉野が職人として、ひとりの人間として非の打ち所も無い人間だということを証明するだけだった。


「15年前に起きた吉野さんの親友が殺された事件のことは聞いていますか」

「はい、よく話していました」

「そのときに被害者を放置して交番に知らせにいった話は聞いたことがありますか」

「はい、そのときに事件現場にいた主婦たちがすぐに救急車を呼んでいたら助かっていたかも知れないと言っていました」

「その主婦たちと話したことがあったとかは聞いていませんか」


渡辺は少し頭を下げて考え込んだ。しばらくするとするっと頭が上がった。


「そういえば、そのうちのひとりと会ったということを聞いたことがあります」

「詳しく聞いていませんか」

「聞いたと思うんですがどうかなあ、私はそういう事件とか嫌いなので聞き流していたんですね。しかもだいぶ昔のことなのですぐには思い出せません」

「分かりました、何か思い出したら連絡をいただけますか」

深津たちは署に戻った。


次の日の朝、捜査本部に衝撃が走った。


滋賀県の琵琶湖にひとりの女の水死体が上がった。


重要参考人として指名手配になっていた石橋薫だった。




#31に続く。




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