腑に『落ちた』恋でした

 事の始まりは単純です。

 私、佐之宮さのみや雪乃ゆきのは昼休みの外廊下を歩いておりました。廊下の先の西館は職員室や保健室といった、先生方のいらっしゃる教室が沢山ごさいます。担任の花岡先生にノートの回収をお願いされた私は、職員室へ向かっておりました。



 お昼ご飯を頂いた私は、とてもとても夢見心地でした。微睡まどろみに落ちないようにしつつも、ふわふわりと歩む私は相当覚束おぼつかない足取りだったと思います。しかし、一瞬で私は覚醒いたしました。

 私の右手には体育館がございます。体育の授業は勿論、放課後には部活動で毎日賑わいを魅せる場ですね。ですが昼休みは利用ができない規則となっております。ですので今の時間の体育館とその周辺は非常に静かです。



 その体育館の方向から人の声がしたのです。それも2人分。




 昼休みですので誰がどこへいらっしゃろうが自由でしょう。それが偶然体育館だっただけ。なのに、私は酷く気になって、声の発信源へ近づいておりました。

 体育館の入り口は、西館に向かう道中に分岐しております。移動するのは楽でした。耳に入る声が大きくなるにつれ、私も足音を小さくいたしました。四隅に着くと、幾らかの単語が耳に飛び込んでまいりました。壁にくっついてそぉうと耳を澄ませば、なんと。好き、という言葉が聞こえてくるではありませんか。きゃッと叫びたくなる口元をすんでの所で抑えます。無粋、無粋です。



 告白とは女の子の聖戦なのです。

 私は未だにありませんが、告白する娘という生き物は皆、恋しいお方の心を射止めるべく身を尽くすのです。ちょいとでも可愛らしいと思われたいから、リップを塗り。一瞬でもおや、と見つめられたいから髪をい。刹那でも鼓動を乱してほしいから、精一杯はにかむのです。告白する娘は皆等しく『戦乙女ヴァルキリィ』なのです。

 そんな戦乙女の決死のお言葉、私の喧騒で水を差すわけにはまいりません。私は石、これからこの壁の白い石になって私は見守るのです。




 両手――先生のノートは傍らに置きました――で口を抑え、私はじっと傾聴します。名も知らぬ戦乙女によるエピソードは加速します。遠くからお姿を拝見していたことから、彼の人の部活動に対する姿勢に感銘を受けただの、どれどれこういう話をして会話が弾んで嬉しかっただの。聴く度、私の口角は上がりました。嗚呼、はしたない、はしたない。

 わかっております。これは盗み聞きです。しかも赤の他人の。私は意地汚い娘です。今すぐにでも止めるべきなのです。

 なのに。

 戦乙女の旋律がマルテラートを刻む度、私の頬は熱くなります。戦乙女のソプラノがフォルテとピアノで揺れる度、私の心は波立ちます。嗚呼。私はことごとくすさまじき娘と懺悔します。しかしこの聖戦の顛末てんまつ、もう私には目を背け耳を塞ぐことができません。



 戦乙女の玉音が止みました。あとは彼の人のお言葉を待つばかり。蚊帳の外の私もそわそわ、そわそわと気持ちの凪が訪れません。まだでしょうか。大丈夫、大丈夫です。あんなに熱を込めてお心を告げたのです。彼の人にもきっと届かれました。



 結末は冒頭の通りでした。




 砂利に座した私はたっぷりと息を吐いて、吸います。そしてまた吐きました。心には小雨が降ってまいりました。とても冷たい、冷たい雫です。

 何故と思わずにはいられません。戦乙女、名も知りませんが、彼女は本気でした。その言の葉も始終、清いものでした。そんな彼女の心は彼の人には全く響かなかったのでしょうか。



 どうしてと彼女も伺います。少しだけ涙で濡れた声でした。

「今はどうしてもそんな気持ちになれないんだ。だから、ごめんね」

 少し低い低音は存外、澄んでおりました。お言葉こそ軽薄でしたが、私は彼の人自身を浅ましく思えませんでした。

 当然ですが私を置き去りに、彼の人と彼女は数回言葉を交わします。そして彼女は東館へ、静かに去って行かれました。私の胸に一抹の侘しさが到来しました。どうも彼女の気持ちを考えると物悲しくなります。野次馬風情が身勝手です。なのに気を緩めば涙が出てしまいそうです。




 彼女の足音が消えました。すると彼の人も砂利を踏まれます。しかし、なんと、西館近くのこちら側へ近づいて来られるではありませんか。このままでは間違いなく見つかってしまいます。どうしましょう。今度こそ、はしたない子と露見されます。一刻も早く身を隠さねば。

 ノートを拾った私は首をぶんぶんと振り、救世主を発見いたしました。すぐに忍び足、且つ急ぎ足という矛盾を抱えて西館方面のくすのきまで移動します。この楠、私のような小娘の体をすっぽりと覆ってしまうほど、幹が太いのです。これにて一安心です。


 ほっと胸を撫で下ろした頃でした。きゅッという足音を聞いたのは。



 タッチの差というものでした。胸が五月蠅く響きます。ぎゅッときつく目を瞑りました。大丈夫、大丈夫なはずですが。嗚呼、もしも、見つかってしまいましたら。咎められましたら、どうしましょう。

 しかし何も起きませんでした。リタルダンドな足音へ胸も静かになっていきます。私の尊厳は喪われずに済みました。盗み聞きという行為は今も申し訳ない思いでいっぱいです。が、もう過ぎてしまったこと。過去は覆せませんから、自戒を示すには未来の行動あるのみでございます。では、早速行動に移さねばなりませんね。私は抱えたノートを整えます。西館へ向きました。


 そして、去り行く彼の人を見てしまいました。





 彼の人は西館へ進まれていました。横側のご尊顔はきりりと引き締まっていて、深い湖畔のような聡明さが伺えます。ぴんと伸びた背は、金剛石のような確かな意思が伺えます。そよ風になびく短い髪が首を撫で、長いまつげを揺らす様は、上質な油絵を拝見している気分になります。


 気がつけば、私の胸はかしましく鳴動しておりました。あれ、あれ。頬が熱い。先程の告白を聴いていたときよりずっと熱い。鉄板で焼かれるクレープの気分です。私はどうしたのでしょう。そうだ、私、花岡先生へノートを届けなければ。



 私は独りの廊下を進みます。急いではおりませんのに、足はく疾くと前に進みます。しかし私にはどうでもくなっておりました。本当はノートのことを考えねばなりませんのに。無理です。私の頭はあの、彼の人の横顔でいっぱいだからです。頭の中では彼の人がいました。彼の人は私を見つけると綿菓子のような微笑みをくださります。そして溜息をつきたくなるお声で、雪乃と、私の名前を。


 きゃあッ、やだッ。思わず西館内の階段を駆け上がりました。いつの間にか室内にいたようです。はしたない。でも今は私の心が一番はしたない。そう違います、違うのです。彼の人はこんなことなさいません。第一、私のことを存じておりませんし。どうして、なんで。私はこんな厚かましい妄想をしてしまうの。こんなのまるで、あの名も知らぬ彼女のよう。



 目から鱗が落ちました。

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