SideStory:逆月壮真A
※この物語は月の皇子クレス・アーネットのものです。
「
労働とは人間の肉体へ習慣という寄生虫を埋め込む病である。一度でも働き始めれば肉体に起床時間と就寝時間を埋め込み、時間の感覚すらも奪い去る。寄生虫の駆除方法は労働を止めること。
しかし寄生虫を駆除した途端、自分の中に残るのは虚無と居場所の喪失。それを恐れているから大半の人間は労働を辞められない。勿論俺、
「あぁ分かった。十分後でもいいか?」
「はい! お願いします!」
他にも理由はあるだろう。辞めれば今の生活を維持できなくなるから。労働という寄生虫はどこまでいっても金銭的価値を生む為の犠牲。
「厳しいことを言うが……このゲームの企画書には致命的な欠点が一つある。それが何か分かるか?」
「えっと、細部へのこだわりとかシステムの斬新さとかですか?」
「……『何も伝わらないこと』だ。どれだけ内容が面白くても伝わらなかったら何の意味もない。まずは一言で表せるシンプルなコンセプトを考えてくれ」
昔から俺はゲームが好きだった。ゲームが好きだからそこそこ良い大学を出て、そこそこ大手のゲーム会社から無事内定を貰うことができた。入社時はプランナー、そして数年ほど経過して今はディレクター。
新人指導と自身のプロジェクトを両立させながら毎日毎日労働を続けている。残業も休日出勤も当然のようにある仕事。ゲーム会社というのは夢を抱く分だけ挫折する可能性が高い場所だ。
「今までご自身でゲーム制作をした経験はありますか?」
「いいえ、ありません。ですが御社の作品を数多くプレイした経験はあるので──」
「……そうですか」
ゲーム会社に憧れる若者はみな口を揃えてこう述べる。「ゲームを作りたいからゲーム会社に入る。けど今までゲームは作ったことがない」と。俺からすれば理解が及ばない。
今の時代はパソコン一台あれば誰でも簡単にゲームが作れる。本当にゲームが作りたいなら一度でも製作した経験はあるはずだ。
それでも触らない答えはただ一つ。その若者たちは「ゲームが好き」という考えから「ゲームを作りたい」という考えに移行できていないからだろう。
「そうだな。例えば某大手が少し前に発売した『伝説シリーズ』の新作みたいに、村から村への移動を飽きさせないようなギミックを」
「あーすみません。やったことないです」
「……あの作品は世間を賑わせてる大作だぞ? 君は普段からどんなゲームをやってるんだ?」
「コンシューマーなら数年前ぐらいが最後ですねぇ。最近はソシャゲとかしかやってません」
ゲーム会社に入社した若者はみな口を揃えてこう述べる。「そのゲームやったことないです」と。俺からすれば浅はかすぎると溜息が出る。期待値の高い作品や評価が高い作品が気にならないのかと。
何が面白くて、何が面白くないのか。情報化社会となった今では世間の評価は一分一秒変わり続けている。その波に乗るためには世間から評価されているゲームをプレイし続けなければならない。
的外れな企画書を出す者たちは最近のゲームをプレイしていないのが大半。「ゲームが好き」という気持ちより「ゲームを作りたい」という気持ちが先行しすぎているのだ。
それらを踏まえると結局必要なのは「ゲームが好き」という気持ちと「ゲームを作りたい」という気持ちの両立。プランナーからディレクターに昇格する時、俺の中ではそう結論が出た。
「逆月さ~ん、今日
「今日
「あらら、大変ですね。身体
「身体
零時を過ぎようとしている深夜帯。エナジードリンクと新人の企画書と携帯型のゲーム機が並べられた俺のデスク。俺はディスプレイに映し出された進捗管理表を眺めながら、人事の同期に皮肉で答える。
「あっ、そうだ。逆月さんは予防接種を打ちましたか?」
「あぁ先週打ったが、あれはインフルエンザの予防接種だったよな」
「そうですよ~。何か気になったことでも?」
「……いや、予防接種にしては時期が大分早かっただろ」
インフルエンザの予防接種。社内で受けたい人は受けるようにと通告されたので念のために打ってきた……が、よく考えると昨年よりも数ヶ月早い。
「そうですか~? 去年もこれぐらいだったと思いますよ~」
「あんまり覚えてないな」
「ありゃ~! 残業のし過ぎで記憶力が低下しちゃったんじゃないですか~?」
「帰れ。記憶力よりも前に仕事の効率が低下する」
新しいエナジードリンクの缶を開け、同期に帰宅を促す。こいつは半年ぐらい前からちょっかいをかけてくるようになった。最初に名乗られた気もするが名前は覚えていない。
「冗談ですよ冗談。それじゃ、お先に失礼しますね~」
「はいはいお疲れ」
深夜帯だというのに足取り軽く帰宅する同期。珍しく一人きりの社内。普段はプログラマーや他のディレクターがよく残業しているが、今日は定時で帰宅してしまったらしい。
どちらにせよ一人の方が仕事の効率は上がる。俺はエナジードリンクを一口飲んでキーボードに指を走らせた。気のせいか、少しだけ指先が重い気がする。
「初めまして
「こちらこそ初めまして月峰さん。ご存知かとは思いますがメールでやり取りをさせて頂いた逆月です」
雑念を振り払いながら思い出すのはアシスタントとの打ち合わせ。手入れのされた黒色の長髪にクリーニングされたOLスーツ。顔立ちと雰囲気は古風な女性。俺は訪問してきた月峰という女性に名刺交換をした後、一対一で対面する。
「……という建前はここまでにしましょう。久しぶりですね逆月くん、会うのは高校以来でしょうか」
「やっぱり知っている方の月峰だったか。他所他所しくされたから最初は俺の勘違いだと思ったよ」
「私は確信してしましたよ。授業中にずっとゲームをしている逆月くんだと」
「俺も確信したよ。授業中にずっと本読んでる月峰だって」
高校時代に隣の席だったクラスメイト。物静かでいつも小説を読んでいる大人しい女子生徒。俺から声を掛ける理由もないので会話を交わすことも少なかった。つまり頻繁に交流していた時期も、好きなものを語り合った青春なんてものはない。
ただ授業中に他所事をしていた事実を知っていただけ。
「逆によく高校の話題を出せたな。俺とお前は大して交流もないのに」
「言葉要らずの交流は頻繁にあったと思いますが?」
「消しゴム拾うとかそういうのだろ」
「それも交流の一つです」
変人という言葉は月峰の為にあると言っても過言ではない。教室に顔を出すと必ず軽くお辞儀をしてくる。欠席したらプリントをポストに入れていく。バレンタインの日にはチョコ饅頭を机に置いていく。
奇妙な行動の数々に最初は頭を悩ませていたが、特に支障があるわけでもないと気にせず過ごし無事に卒業した。
「答え合わせをさせてくれ。あの絶妙な距離感は何だったんだ?」
「あの頃は逆月くんのことを隣人として見ていました」
「隣人?」
「例えるならアパートやマンションの隣人ですね。粗品は事前の配慮、会釈は挨拶、私はそう意識していたつもりでしたが……」
「変わってるよお前は」
それが常識だと言わんばかりに自分の考えを淡々と述べる月峰。納得はできたがツッコミどころが多すぎる。指摘する気力もなかったので大きな溜息だけついて、仕事モードへと切り替えた。
「昔話はここまでだ。……さぁ打ち合わせを始めましょう月峰さん」
「そうですね。逆月さん」
今は勤務時間。他愛のない高校時代なんてどうでもいい。俺の顔つきが変わると月峰も仕事モードへと切り替える。
「では早速本題に入らせて頂きますが、今日のお話は『陰なる魔王の無双ライフ ~チート級の終焉スキルでSSSランク勇者共の人生を終わらせます~』のメディアミックス、もといゲーム化の相談についてでよろしいですか?」
「
「……それではお言葉に甘えて。『陰無双』の相談ですね」
打ち合わせの内容は『陰無双』というライトノベルのゲーム化。今の時代は書籍のメディアミックスが活発になっている。アニメ、漫画も勿論多く展開されているが、ゲーム化の展開も少なくはない。
「現段階のロードマップはこのようになっています。多少の誤差は生じると思いますが、ほぼこの通りに展開していくと考えて頂ければ大丈夫です」
「あぁご丁寧にどうも」
予算、製作期間、プロジェクトの配員人数。考えるだけで頭がパンクしそうなほど入念な打ち合わせ。一回目、二回目、三回目と数を重ねていくうちに慣れていく。つくづく実感する。人間の素晴らしい身体機能は慣れだ。
「……ところで
「はい、先週から少しずつ読み進めています」
「現在はどの辺りまで?」
「三巻のラミアの話までですね」
読んでいる箇所を細かく語るなら『悪行の限りを尽くしたラミアがガソリンに燃やされていく』という場面。だがそれらはすべて一人の少女の為だったと発覚する。そんな良い場面で丁度止まっている。
「面白いですか?」
「……はい?」
「『陰無双』は面白いですか?」
「どういう意図があってそんな質問を?」
何故か微笑みながらそう問いかけてくる月峰という女性。俺はそれを聞いてくる意図があるのかと逆質問をした。
「興味本位ですよ」
「その質問に返答すること自体がプロジェクトへの支障になりかねますので──」
「私は面白いとは思いません」
持ち込んできた当の本人が面白くないとハッキリと答える。遠回しに仄めかすわけでもなく、月峰という女性は直球でそう言葉にした。俺はロードマップから顔を上げて険しい表情を浮かべる。
「月峰さん、それを口に出すのは大変失礼なことだと思いますが? この作品を待ち望んでいる読者もいるんでしょう? 作品を送り出す関係者が心にもないことを口にするなんてあってはならないことです」
「ふふっ、
「何が……」
「要は言葉にするか、していないかです。実際に打ち合わせの中で
言われた通り一言も「面白かった」と述べていない。何故なら俺も「面白さ」を感じていないから。だが世間が面白いと評価しているからこそメディアミックスまで辿り着けている。
これは「面白くない」というわけではなく「趣向が合わない」だけ。そう思い込んでいたが、見透かされるように月峰という女性に詰められて俺は視線を逸らした。
「談笑はここまでにしましょう。逆月さん、本日はありがとうございました。また後日、編集者の者と再度打ち合わせに訪問しますので」
「……分かりました」
「では、今後もよろしくお願いいたします」
俺は打ち合わせの記憶を思い出した後、キーボードに走らせていた指の動きを止める。視界がぼやけ、頭痛が酷くなる。心臓の鼓動も妙に大きく聞こえてきた。
『
いないはずの月峰という女性が俺のすぐ真横に立っている。声もハッキリと聞こえてくる。何故なのか、右腕の震えが止まらない。
これは非常にまずい状態。
呼吸を落ち着かせながらスマホに手を伸ばす。
『毎朝同じ通勤路を歩いて、乗車口の隅を陣取って、スマホでネットニュースやソシャゲを嗜む』
「誰かに、連絡しないとっ……」
『世間が求めるものを考え続け、世間の声だけを聴いて、世間の為の作品を制作し続ける。そんな自分を押し殺すような日々が──』
震えて指紋認証が上手くいかない。
電源ボタンを押すこともできない。
床に散らばる企画書と缶の残骸。
『──いつか本当に自分を殺してしまうと』
呼吸困難になり仰向けに倒れる。
顔の横に転がった携帯型ゲーム機。
その画面に映し出された大きな文字は、
『
ゲームで何度も見慣れた定型文だった。
―――――――――――――――――
「──クレス、クレス!」
誰かの名前を呼んでいる。というより俺の身体が揺さぶられている。きっと誰かと間違えているんだ。俺は真っ白な病室を想像しながらゆっくりと瞼を開く。
「良かった! 目を覚ましたのねクレス! どこか痛いところはない?」
「あ、あぁ……」
抱きしめてきたのは白髪の女性、いや白髪の王女様。一瞬看護師かとも思った。だが看護師が抱きしめてくるはずもない。ならこの王女様のような女性は誰なのか。脳をフル回転させて憶測を立ててみる。
「クレス、どうしたの? やっぱりまだどこか傷むんじゃ……?」
「あ、あぁいや、大丈夫です」
浮かび上がる候補は三つ。
一つ目、そういうシチュエーションを楽しめる病院。だが勿論これはあり得ない。間違いなく俺は死にかけていた。そんな下らないシチュエーションで人の命を弄ぶものじゃない。
二つ目、海外の病院に搬送された可能性。だがこれもほぼあり得ない。何故なら俺の名前はクレスじゃないから。しかも海外とは言えどもこんな色鮮やかな貴族専用の病室はない。
三つ目、ここはあの世か夢の中。残念なことに可能性は等しくゼロ。五感は良好だ。この女性から香ってくる花の匂いから嗅覚はある。胸の中の温もりから触覚はある。視界も聴覚も良し。味覚は口の中を切っているのか僅かに鉄の味がする。
「あの、俺は一体どうなったんですか?」
「……? あなたは武術の稽古でスノウに吹き飛ばされたのよ」
「武術の稽古、ですか」
「記憶が曖昧なのも無理ないわ。派手に吹き飛ばされて後頭部を打ってたもの」
何だそれは。心当たりが一切ない。思い出せない中で自分の顔を触り、やっとのことで気が付く。肌の触感、髪の長さ、顔と腕の距離感、視点の高さ、何もかもが違うと。
「大丈夫? もう痛みはない?」
「あ、あぁ」
今の俺は少年の肉体。しかも若返ったというわけでもなく見知らぬ少年の肉体に乗り移っている。頭の中に浮かんだ文字は『異世界転生』という一文。こんなことが現実で起こるのか。頭の整理が追いつかず、しばらく呆然としてしまう。
「お母様、兄様は、兄様の容態は……!」
部屋に駆け込んでくるのは花の髪飾りを付けた白髪の少女。お母様と呼ぶのは恐らく俺を抱きしめる女性、そして兄様は恐らく俺。というかこの部屋に兄様と呼べる者が俺以外いない。
……渋い男の映った絵画も含まれるなら話は別だが。
「大丈夫よ。目を覚ましたわ」
「よ、良かったです。兄様、大丈夫ですか?」
「あ、あぁ……」
さっきから状況が掴めず「あ、あぁ」しか言えてない。人間の言語を頑張って発声しようとする怪物か俺は。
「私は無事なことをサウルたちに伝えてくるわね。クレスのことを見ていてあげて」
「分かりましたお母様!」
……とにかく優先すべきは状況把握からだが、ここで記憶喪失なんて口に出そうものなら更に事態が悪化する。さりげなく情報収集をして状況を掴んでいくのが定石だ。
「兄様、私のこと覚えていますよね?」
「お、覚えてるんじゃないですかね……」
「どうして曖昧な答えなのですか?」
と踏み切ろうとした途端、心の声が聞こえているのか妹らしき少女が名前を尋ねてくる。
「まさか本当に覚えていない……?」
「いや、覚えています」
「それでは言ってみてください。私の名前を」
幼い顔を近づけ紅の瞳で覗き込んでくる妹。このよく分からない状況下で名前当てゲーム。普通に考えて無理だ。けど雷が直撃する確率で一言一句正解する可能性もあるはず。
「ラ──」
「ラではありません」
「じゃなくてソ?」
「ソでもありません」
確率とは非情なものである。可能性なんてものはなかった。だが恐らくラとソから始まる名前じゃない。この妹からの疑いがより濃くなったから。こうなったら自信をもって言い切るしかない。
「すいません、今のは場を和ませるためのジョークです」
「そうだったのですね兄様♪ では私の名前をどうぞ♪」
「あぁ、マロンだろ?」
場が凍り付く。妹らしき少女は笑顔のまま硬直している。大体分かるとは思うがこういう反応と雰囲気の場合は、
「お母様ーー!! 兄様が、兄様が記憶喪失になってしまいましたぁあぁ!!」
大外れ。マロンじゃなかった妹は叫びながら急いで部屋から出ていく。取り残された俺は自分の顔を押さえ、改めて実感する。
「俺は異世界転生をした……。つまり俺は、あの後死んだのか?」
死因はカフェイン中毒死か過労死か。世間のことばかり考えて、結局自分のことを何一つ考えてやれず──自業自得、まさに言葉通りの結末を俺は辿った。
―――――――――――――――――
「兄様、身体の方は大丈夫ですか?」
「あ、あぁ大丈夫だよ。記憶が戻らないこと以外は本当に大丈夫だ」
異世界転生してきておよそ一ヶ月が経過。ある程度の世界観は掴めてきた。まず俺の名前はクレス・アーネット。年齢は十二歳。『白髪』と『紅の瞳』が特徴的なアーネット家と呼ばれる栄光ある名家の血筋で、雪月花の月を担う次男。ここまでは現実味の帯びた話。
「ミール、吸血鬼は本当に存在するんだよな?」
「えっ? は、はい、そうですよ? 兄様は、本当にすべて忘れてしまったのですね」
ここから非現実な話になるが、そのアーネット家は人類の天敵となる吸血鬼を粛清することが天命らしい。前世だと吸血鬼なんて空想の怪物で、人々の娯楽に組み込まれる歯車みたいなものだ。
そんな怪物が実在するのがこの世界。この目で見ない限りはいまいち信用ならない。
「何かあったらすぐ私に声をかけてください。兄様の力になれるよう頑張りますので!」
「ありがとうミール。でも本当に大丈夫だから」
妹の名はマロン──ではなくミール・アーネット。雪月花の花を担う三女。俺のことを気にかけてくれる兄想いの妹だ。そんな妹ミールと向かっているのは武術の訓練を行うための訓練場。
「クレス、姉を待たせるとは不敬ですよ」
「……悪いな姉さん。まだ城内の構造を覚えられていないんだ」
「不敬者、姉さんではなく姉上と呼びなさい」
そこに待っているのは姉のスノウ・アーネット。雪月花の雪を担う長女。俺を手加減なしで吹き飛ばした張本人。容姿からして鬼畜な姉。というより弟の心配の一つすらしない薄情者。
唯一掛けてきた言葉は「あの程度で気を失うとは未熟者ですね」という一喝。正気の沙汰とは思えない。
「……今日は一本取らせてもらうからな」
「いいでしょう。来なさいクレス」
「兄様と姉様! 二人共頑張ってください!」
武術の訓練は毎日のようにある。俺を指導するのは長女のスノウ。何故歳が近いスノウが指導者となっているのかはすぐに分かる。
「──ッ!」
俺は未だに慣れていない体勢を取り、その場から駆け出した。目標はスノウの左脇腹。中腰の状態をキープしながら右拳を打ち込もうとするが、スノウは平然と避けた後、俺の右手首を掴むと、
「クレス、加減はするなとあれほど言ったでしょう」
「チッ?!」
ぬいぐるみを振り回すように東側へ軽々と放り投げた。宙で何とか身体の向きを変え、うつ伏せの状態で着地をする。勿論スノウは手加減していない。身体に伝わるのは衝撃と苦痛。
「まさか私が異性だから殴れないとでも言いたいのですか?」
体格による差は然程ない。体重だって恐らく俺の方がある。それなのにここまで軽々と放り投げられた理由。それが武術の訓練において最も壁となる課題。
「それとも……
動術の一つ
動術とは人類が吸血鬼に抗うための近接格闘術のようなもの。鼓動はアーネット家のみが扱える『心臓の鼓動を原動力にした』動術。噂だと鼓動は人間の肉体を捻じ曲げられるほどの力を持っており、動術の中でも最強と謳われているらしい。
スノウが指導者として俺の前に立ちはだかっているのはこの国で鼓動を最も扱える天才少女だから。本気を出せば俺を簡単に殺すことだってできる。
「まだ慣れていないだけだ」
「それを未習得と呼ぶのでしょう」
心臓が鼓動を打つタイミングに合わせて殴打を叩き込む。これをキープするのが至難の業。呼吸の速度によって心臓の鼓動は遅くなったり早くなったりと変化する。敵を前にしてそんなもの意識する余裕はない。
「詰めどころかすべてが生
「がはッ……!?」
「兄様!」
更に問題なのはこの肉体。アーネット家の血筋を継いだ肉体だからか動けるには動ける。だが俺本体の精神というか魂が肉体の動きに追いついていない。例えるなら反射的に肉体が先に動いて、後から遅れて魂の動きが反映されるような感覚。
致命的な問題を二つも抱えた結果、俺は今日もスノウから一本も取れずに硬い地面へと背を打ち付けた。
「話になりません。父上がこの惨状を見れば酷く落胆するでしょう」
雪月花の母親、もとい俺を看病してくれた王女の名はイルマ・アーネット。そして父親はサウル・アーネット。父親のサウルがアダールランバと呼ばれる国を、母親のイルマがエメールロスタと呼ばれる国、俺たちが今立っているこの国を統治しているらしい。
「その心配はないんじゃないか? 記憶喪失になった息子の顔を一度も見に来ない父親だ。どうせこの惨状も見ないだろ」
しかしどうも複雑な家庭環境。
二人で一つの国を統治せず、それぞれが異なる政治体制を整えて統治していた。簡単に言えば結婚しているが別居中みたいなもの。
長女のスノウは父親が統治するアダールランバに住み、俺とミールは母親が統治するエメールロスタに住む現状。俺は父親と顔を合わせたことが一度もないのだ。
「クレス、大きな思い違いをしています」
「思い違い?」
「父上が見ないのではなく私が父上に見せられないのです。雪月花を背負う次男が地に這いつくばる滑稽な姿を」
肘まで届く長い手袋を付けながら冷めた眼差しを送ってくるスノウ。俺はその一言ですべてを理解して、上半身だけ起こして睨み返した。
「つまり『出来損ないの俺は父親と会う資格がない』『出来損ないの俺は雪月花に泥を塗るだけ』……そう受け取ればいいのか?」
「……? それ以外にどう受け取るのですか?」
無能な弟を見られたくない。長女としての誇りを汚したくない。どちらにせよ自分の為に俺を引き離そうとしている。そうとしか聞こえなかった。
「武力とは王権の象徴です。武力なき統治者など言語道断。民の総意をあなたは理解していません」
「武力が象徴……。この世界だと考え方もそうなるのか」
素晴らしい古臭さ。
滅多に聞けない主張に思わず笑いが込み上げる。
「俺はそう思わないな」
「はい?」
「必要なのは武力よりも知恵だ。知恵がない統治者は国を亡ぼす。民の総意をお前こそ理解していない」
近距離戦闘なんて前世で経験がないのでゼロからのスタート。俺は今まで身体能力だけで片づけようとしていた。鼓動を意識して反射神経だけで対処しようとしていた。
「だからお前は座ってろ」
「口だけは憎いほど達者ですね」
俺は立ち上がると深呼吸をしてから一気に駆け出す。肉体と魂のズレが生じているが、それは武術の訓練の時だけ。普段はズレが生じることはない。その違いは何なのか。少し考えれば答えは単純だった。
「──ッ!」
「この動きは……」
要は頭で考えるか考えないか。相手の一手先を読むか読まないか。肉体に合った戦い方が出来ているか出来ていないか。たったそれだけのこと。思考が肉体に追いつかないのはゲームで散々経験した。それを実践に応用すればいいだけ。
「なるほど。
向いているのは攻めではなく受け身。一打目は相手に行動を起こさせるためのきっかけ。スノウの反撃を受け止め、捉えられる距離を保ちながら、決定的な一撃を叩き込める機会を窺う。
「ですが他の動術を組み込めるのはあなただけではありません」
「──ッ!? 今のはッ──ごはぁッ!?」
正面から向かってくる右腕による掌底打ち。防御の体勢に入ったが触れた瞬間、波のような衝撃が身体の芯まで浸透し、勝手に両腕が開く。恐らく鼓動とは違う動術。がら空きとなった腹部に回し蹴りが打ち込まれる。
何とか倒れないよう踏ん張ったが痛みで次の行動を起こせない。そんな隙だらけの俺をスノウが見逃すはずもなく、目の前まで距離を詰めてくる。
「覚えておきなさいクレス。姉に勝る弟はこの世にいないことを」
鼻先まで迫るスノウの右拳。痛みと焦燥感に満たされる胸中で視界に映るのは白いフラッシュバック。
『この人間には耐性がある。第二段階の……を投与しよう』
『あぁ分かった』
聞き覚えがあるようでないような会話。見覚えのない白い病室。ぼやけている意識。何の記憶なのか心当たりがまるでない。
『しかし本当にこの薬は効果があるのか? 信憑性がゼロじゃないか』
『そりゃあゼロに決まってる。この薬は死んだ後に効果が出るんだぞ』
『ははっ、けど死体はそのまんま残るんだろ? まさに
いや、覚えている。そうだこの場所はインフルエンザの予防接種を受けた病院。俺は男たちの会話を思い出すと我に返り、
「……
「──!?」
そう呟けばスノウの拳が俺の顔をすり抜けた。顔を貫通しているわけじゃない。そのまま実体のない虚像をすり抜けるように、俺の顔の反対側まで右拳が突き出たのだ。流石のスノウも目を見開いて間抜けな顔をしている。
「今しかないッ!」
「かはッ!? うッ、あぐッ!?」
その隙に右腕を大きく引き、鼓動を意識した肘打ちをスノウの溝へと打ち込んだ。続けて左拳で右頬を殴り、最後に右拳を大きく振り上げ、顎に直撃させる。感じたのは確かな手応え。
このまま素直に倒れてくれないかと期待をしたが、
「この、不敬者ッ……!」
「うッぐあぁッ!?!」
声を荒げて渾身の頭突きで反撃をしてきた。強烈な一撃に俺は少しだけ意識が飛び、仰向けに倒れてしまう。朦朧とする意識の最中、スノウは追撃をしようと拳を振り上げ、
「そこまでだスノウ」
「……!」
「お、お父様?」
男の低い声を耳にすると拳を止めた。傍観していたミールも目を丸くする。白髪と白髭、獅子のような目つき、威厳に満ち溢れたオーラ。俺はその姿を目にするとすぐに父親のサウルだと理解した。
「父上、いつからそこに……」
「始まりから終わりまでだ。この目で見届けさせて貰ったぞ」
サウルは一歩一歩踏みしめ、俺とスノウの元まで歩いてくる。記憶喪失になって初めて顔を合わせる父親。その父親が俺に向けてきた眼差しは、
「クレス、お前はやはりアーネット家の汚点だ。私の息子でありながらこのような醜態を晒すとは」
呆れと失望に満ちた、とても息子に向けるようなものではなかった。俺は心にもない言葉を吐かれて呆気に取られてしまう。
「スノウ、お前が『武術指導』の自薦をしたというのにこの有様か」
「……申し訳ありません、父上」
「自薦した?」
「何だ、言っていなかったのか。スノウは汚点となるお前を相応しい器にする為、自ら私の前へ申し出てきたのだ。『私が父上に見合う息子に育て上げるので時間をください』とな」
聞いていた話と違う。
スノウは『出来損ないのお前は父親と会う資格がない』と自身が壁となっている口ぶりをしていた。だが実際は真逆で『父親と顔を合わせられるよう力を貸していた』ということになる。
「ですが父上、先ほどの一戦をご覧になったでしょう。クレスは着実に成長を遂げているのです。もう数ヶ月時間を頂ければ、いずれはアーネット家に見合う息子へ──」
「まだ踏ん切りがつかないのか、私は失望したぞスノウ。未だ次男がこの程度の実力なのはお前の失態だ。信じようとした私が愚かだったよ」
「父上のご期待に添えず、不甲斐ない限りです」
握りしめた拳を震わせたスノウ。その顔からはただ悔しさと申し訳なさだけを感じさせた。本当に弟のことを想って、わざわざ自薦をしてまで武術の訓練に付き合ってくれていたのだと。
だったら俺は立ち上がらなければならない。言うべきことをこの父親に言わなければならない。
「……俺は記憶喪失で、お前のことなんて知らない」
「何だと?」
「知っているのは母親と姉さんと妹のミールだけ。悪いがお前はもう俺の中にいない。部外者はお引き取り願おうか」
「クレス……」
サウルの顔を見上げて一言一句ハッキリとそう伝えた。スノウは不敬極まりない態度を取る俺に対して唖然としている。
「はっはっはっ、言うようになったなクレス! 私の若い頃によく似ている!」
「申し訳ありません父上! 私の指導不足でクレスが不敬を働き……」
「構わない。むしろ記憶を失う前より面白い男になっているからな」
殴られるかと思っていた矢先、愉快だと言わんばかりに大笑いした。サウルの性格が掴めず、眉を顰めていた俺に背を向け訓練場の出口へ歩き出す。
「クレス、私はお前をアーネット家の人間として認めない。アダールランバへの入国も禁ずる」
「父上それは……」
「しかし私がお前を認めることがあればアダールランバへの入国を許そう。ではな、二度と再会できぬ息子よ」
遠回しに認めないと断言しサウルは去っていく。静寂が敷き詰められた訓練場でスノウは俺へ視線を送る。
「今日の訓練は終わりにしましょう。また明日、所定の時間に顔を出しなさい」
スノウもまたこの場に居たたまれず訓練場から出ていく。やや早足なのは何か思うことがあったから。俺は流血した額を押さえ、
「あー……しんど……」
「兄様っ!? 兄様ぁああぁっ!」
糸が切れたようにその場で気を失った。
―――――――――――――――――
「前世でも今でも、結局風呂が一番落ち着くな」
初めて父親を面会したその日の夜。
母親のイルマと妹のミールに過剰な心配をされながら夕食を終え、汗と疲れを流すために広い浴場で入浴していた。
「……
考えていることは一つ。
妙なフラッシュバックと共に発動した奇術という力の正体。俺の顔面に直撃するはずだったスノウの拳がすり抜けた。あの一部始終を見ていたミール曰く『幽霊のようにすり抜けていた』らしい。
テンプレをなぞるなら『神様から転生ギフト』的なものを貰っていることが答え。だがフラッシュバックに映り込んでいた男の口から『奇術』という名詞が出ていた。なら考えられるのは前世の世界で既に──
「クレス、あなたに尋ねるべきことがあります」
と思考を巡らせている最中、突拍子もなく一糸纏わずのスノウが左隣で腰を下ろし湯舟に浸かる。俺はジト目で「何でいるんだ」と訴えかけたが、何食わぬ顔でこちらに顔を向けてきた。
「後にしてくれないか?」
「今が丁度いいのです」
「どういうことだ……って、何を触ってる?」
顔やら肩やらをぺたぺたと触ってくるスノウ。その顔は疑心に満ちている。恐らく『なぜすり抜けたのか』を解明するためにやってきたのだろうが。
「今は
「何もしていないし、俺も何が起きたのか分かってないんだ」
「不敬者、虚偽で塗り固めるつもりですか」
「よく考えてくれ。分かっていたら今も身体を触らせない」
躊躇いもない。
顔色一つも変えない。
そんな無神経な姉から俺は距離を置いて肩まで湯舟に沈める。スノウは納得がいかない様子で俺から視線を逸らした。
「何で俺を庇おうとしたんだ?」
「庇おうとしたわけではありません」
「どこからどう見ても庇ってただろ。父親に反抗して自薦までして、何で出来損ないの俺の面倒を見ようとする?」
些細な疑問。
武力が全てと豪語する鬼畜な姉が弱い俺の面倒を見ようとする動機。父親と顔を合わせられるようにと武術の指導をしようとする理由。天井に張り付いた雫が湯舟にポタッと落ちる光景を眺め、スノウからの返答を待つ。
「弟だからです」
「……それだけか?」
「不敬者、長女として弟を見捨てるなど言語道断。理由としては十分でしょう」
湯気で隠れてスノウの顔は見えない。けどその穏やかで優しい声は初めて耳にしたもの。氷のように凍てついた態度が湯舟で溶けている。そう表現してもおかしくないほどに。
「……悪かった。裏で動いてくれていたのに、俺は何も知らずに姉さんのことを嫌って」
「気にする必要はないでしょう。あなたは記憶を失い混迷の日々を歩んでいたのです。知る由もありません」
初めて触れた姉の優しさ。弟の俺に対していつも厳しく接していたのは単にスノウが不器用なだけ。本当は弟想いの優しい姉だ。
「ね、姉様? どうしてここに?」
後方から聞こえるミールの声。俺とスノウが振り返ればそこに立っていたのは一糸纏わぬミール。スノウの姿を見て驚きながらも俺の右隣の湯舟に浸かった。
「何でミールまでいるんだ?」
「兄様が心配だったんです。浴場で気を失って溺死していないかと……」
右隣には妹のミール、左隣には姉のスノウ。二人共タオルすら巻いておらず、隠すべき場所が隠し切れていない。普通に考えれば
「ふふっ、久しぶりですね♪ 三人一緒に入浴するのは♪」
「悪いが俺は覚えていない。前は一緒に入っていたのか?」
「はい、入っていましたよ♪ ちなみに三人仲良く一緒のベッドで寝ていたりもしました♪」
家庭関係が複雑なこと以外は平和そのもの。便利な電化製品がないことは惜しまれるが、この時代にはこの時代の生き方がある。ないものねだりをするぐらいなら自分から適応していくしかない。
「クレス、ミール。母上から面会の話を聞いていますか?」
「面会? 何の話だ?」
「ロザリア大陸に建国された栄光の国グローリア。私たちは近々グローリアの次期皇女と面会しなければなりません。国交を結ぶか否かを定める大事な面会です」
だがこの時の俺はまだ知らなかった。
この世界がどこまでも救いようのない世界だということを。
「次期皇女様ならきっと素敵な方ですね♪ 是非とも仲良くしたいです♪」
「あぁそうだな。不敬がないように、な」
「何故こちらを見るのですか?」
この世界がどこまでも──吸血鬼に脅かされていることを。
SideStory : Soma Sakaduki A ─逆月壮真A─ _END
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