5:24 Malaise ─倦怠感─

 ~本名:偽名~

アレクシア・バートリ:Jokerジョーカー

キリサメ・カイト:Gloomyグルーミー

イアン・アルフォード:Knightナイト

クレア・レイヴィンズ:Virginバージン


────────────────────



「……教会?」


 辺りを神々しく照らしていた光が収まれば、私たちは見覚えのある祭壇の前に立っていた。スマホが壁に貼り付けられていることから、この場所は魔女の馬小屋が根城ねじろにしていた屋敷の教会。


「さっきまでピラミッドの中にいたよな? なのに何で……いっつつッ!!」

「イアン、無理に動くなって! 相当無理してたんだろ?!」

「ははっ、まぁな……少し休ませてもらうぜ……」

「私も、ちょっと横になるよ……」


 イアンとクレアはぐったりとした様子で長椅子へ座り込む。キリサメが二人の身を案じているのを他所に、メルは辺りをうろうろと歩き回った。


「おいおい、臆病なライオン様はどこに消えちまったんだァ?」

「あれは……」

 

 ふと目に留まったのは祭壇に置かれた一冊の本。最初に教会へ訪れた時には置かれていなかったことを思い出し、祭壇の前まで歩み寄れば、


『オレの負けだ』

「……真の姿は本だったのか」

「んだよ。やっぱこっちの世界がワンダーランドじゃねぇか」


 本のページが突如開くと古ぼけた用紙に文字が刻まれた。スフィンクスの正体が薄汚れた上製本じょうせいほんだと知ったメルは、呆れた顔で懐から葉巻を取り出したが、

 

「……」

「なぜ捨てた?」


 葉巻をしばらく見つめると、礼拝堂の隅へ葉巻の詰まった箱ごと投げ捨てた。私が理由を尋ねれば、メルは清々しい顔でこう答える。


「クスクスッ、このクソみてぇな異世界で生きていく必要があるんでね。吸うだけで寿命を削る薬はもういらねぇのさァ」

「……そうか」

「んでどーすんだァジョーカー? このキテレツブック、ここで燃やしちまうんだろォ?」

 

 両腕の切断面を止血させていた蔓の集合体。私は血が付着した一本だけをスフィンクスまで伸ばし、開かれたページに『Bathory』と書き記す。


「あ? 急に暴れ出したぞ? ジョーカー、死の呪文でも刻んでやったのか?」


 その瞬間、本のページがとてつもない速度で最後の後書きまで捲られていく。血の涙を与えたことで、他の眷属と同様に苦しんでいるのだろう。


『……この懐かしき響き、この込み上げる哀しみ。そうか、オレはバートリ卿に救われていた。そしてお前はバートリ卿の娘か』


 空白のページまで再度戻され、丁寧に書き記された一文が浮かぶ。私はスフィンクスを見つめながら静かに頷いた。


『バートリ卿の理想はついえたのだな』

「察しがいいな。バートリ卿は公爵デュークによって始末された」

『一波乱起こすなど愚の骨頂だとオレは助言した。だがしかし、バートリ卿は人の子らの為に戦う道を選んだ。……事の結末は、オレにでも分かる』


 本の隙間から転がってきたのは黒色のペン。私はそれを蔓で取って観察してみると、中の容器に蛍光色のインクが詰まっていることに気が付く。


『その状態ではまともに話せないだろう。オレの血の涙を飲め』

「……このインクが血の涙だと?」

『オレのような本にとってインクは人で例える血液。文字は人で例える臓器や心。最後に執筆者は──人生を共有した主だ』


 インクを飲むなど気が引ける行為だが、両腕を失った状態で過ごすわけにはいかない。私はペンの先からしたたり落ちた蛍光色のインクを口にする。


『その性格からしてバートリの意志を継ぐことを拒むと予測していたが……すんなりと血涙を飲み込むのだな』

「……私が『人と吸血鬼共の共存』という下らん理想を継ぐはずないだろう」

 

 脳を棘で締め上げられるような激痛と共に、私の欠損していた両腕は再生していく。メルはその光景を横目で眺め「冗談キツいぜ」と険しい顔を浮かべた。


『選ばれし娘よ、賢明な判断だ。オレはバートリ卿を心の底から敬うが、その理想だけは愚かなものだと否定し続けてきた』

「ケルベロスとラミアは私にバートリ卿の意志を継ぐようと言ってきたが……スキュラとお前は否定するのか」

『全ての眷属がバートリ卿の理想に賛同するとは限らない。十匹の内、オレを含めて五匹は否定していた。日々の中で衝突し合うことも多々あったな』


 賛同派はケルベロスとラミア。否定派はスキュラとスフィンクス。残り六匹からするに、三匹ずつ各々派閥が分かれていたのだろう。


「……話を変える。現段階で奇術を持つ異世界転生者トリックスターは、吸血鬼共に何人引き抜かれている?」

『オレの知る限りではこの教団から"五人"ほど引き抜かれているな』

「奇術の詳細は?」

『奇術の特性はオレの管理下ではなかった。一人一人の詳細は不明だが……』


 書かれていた文字が途切れるとスフィンクスは次のページを捲り、こう書き続けた。キリサメも異世界転生者の話題に引き寄せられ、私の隣に立つ。


『奇術を二種類扱える異世界転生者トリックスターがいた。その異世界転生者は寡黙が故にCeciliaセシリア様に選ばれたのだ』

「セシリアとは誰の名だ?」

Ceciliaセシリア Bathoryバートリ──バートリ卿の血を継いだもう一人の娘だ』


 Ceciliaセシリア Bathoryバートリ

 公爵の元で育てられたバートリ卿の娘。つまり私にとって生き別れた双子。だがスキュラによれば"何もかもが正反対"で──私とセシリアとやらは分かり合えないと断言していた。 


「他にも聞きたいことがある」

『何を聞きたい?』

「原罪に関してだ。過去にステラ・レインズの心臓に杭を突き刺したことがある。だがあの小娘は何食わぬ顔で立ち上がった。なぜ殺せなかったのか……お前に分かるか?」


 他の眷属よりもスフィンクスは賢い。今が情報を集める機会だとスフィンクスへ過去の事例を混ぜ、原罪について問いかける。


『原罪は吸血鬼のような存在ではない』

「……どういうことだ?」

『あの者たちはストーカー卿に肉体を改造させたのだ。吸血鬼としての欠点である──"心臓を取り除く"という改造を』

「心臓を、取り除いただと?」


 心臓という欠点があるからこそ、私たち人間が今まで吸血鬼共を始末できた。厄介な存在である原罪が取り除いたとなれば、唯一の欠点は太陽の光のみ。夜間に攻め込まれた時点で勝機がない。


「原罪を始末する方法はないのか?」

『たった一つだけある。それはストーカー卿の手元に──』


 文字が書き込まれる最中、真上のステンドグラスが粉砕する。私たちが一斉に顔を上げ、目に入った人物は、


「──言論統制げんろんとうせいの時間よ」

「貴様……」


 アベル家の始祖でもあり、原罪でもあるNinaニーナ Abelアベル。私はパニッシャーの銃口をすぐさま上に向け、何度も引き金を引く。


「この女は原罪だ。今すぐ退け」

「げ、原罪……!?」

「ちッ、とっととお暇するぜェ色男ォ!」


 撃ち出された銀の杭はニーナが投擲した紅の杭によって弾かれてしまう。私はその間にキリサメたちを後退させ、ノクスに持ち替えた。


「ジョーカー、私も戦うよ……!」

「俺も、まだやれるぜっ!」

「今のお前たちは囮にもならん。ただの足手まといだ」


 長椅子からふらふらと立ち上がるイアンとクレアを厄介払いすると、私は祭壇の上に降り立つニーナを睨む。


「んー? 『遅かったな、愚か者』ですって? あっそ、面倒な遺言だけ吐いて死ね」


 スフィンクスの本に書かれた文字を読み上げると、左右の手を一度ずつ振り払い、紅の杭で祭壇ごと破壊した。その隙にキリサメたちは礼拝堂から出ていく。私はニーナと二人きりになったのを確認し、


「……久しぶりだな、ニーナ」

Hybrisヒュブリス、聞いたわよ。あんたがアベル家のあの娘に厳しく接してるって。理由は私と比べているから? それとも過去の自分と鏡映しにしているから?」

「どちらでもない。私はただ火の粉を振り払っているだけだ」


 ヒュブリスとして対面していた頃の名を呼んだ。ニーナは祭壇の残骸を踏み潰すと、手元にあった紅の杭を指先で器用に回す。


「"小娘"や"痴女"とはまともに会話ができなかったが……貴様とは多少なりとも会話が成立しそうだ」

「あら、リリアンとは会わなかったのね?」

「虚言癖は私の前に姿を現さなかった」

「ふーん、会いに行くって言ってたけど……入れ違いでもしたのかしら」


 指先で器用に回していた紅の杭が一本ずつ数を増やしていく。すぐに仕掛けては来ないがニーナの性格上、少しでも気に障れば必ず仕掛けてくるだろう。


「ヒュブリス、あんたに提案よ」

「提案?」

「そっ、私と吸血鬼側に付きなさい」

「……そんな誘いに私が乗ると思うか?」


 反吐が出るような誘いに私は顔をしかめ、ノクスを逆手持ちへと切り替えた。ニーナは「でしょうね」と四本の杭を回しながら、指の間へと挟む。

 

「別に誘いを断ってもいいわ。けど覚えておきなさい。吸血鬼の血が混ざったあんたを受け入れてくれるのは──私たちと同じ居場所だって」

「だとしてもだ。私が吸血鬼共に魂を売ることはない」

「あっそ、あんたがこっち側に付けば"アイツ"も喜んでくれるのに。だってあんたはアイツの大切な──」


 私は言葉を言い切る前に、蒼色の獄炎を纏わせノクスでニーナを斬り上げた。だが紅の杭の間で挟み込み、怪力で真っ二つに折ってしまう。


「……私が喋っている途中よね?」

「自分語りは構わんが、私の話はするな」


 飛び退きながら予備の刀身へ付け替え、パニッシャーで牽制をすると、ニーナは紅の杭を何十本もこちらに投擲してきた。撃ち出された銀の杭は弾かれ、私の目前まで紅の杭が迫る。

 

「ふーん、流石じゃない。すべて避け切るなんて」


 むやみに受け流すのは愚策。私は軽い身のこなしですべての杭を回避すると、スナップボムのピンを抜いて投擲した。

  

「何よこのボール? あんた、私が犬だと思って──」


 ニーナが右手で受け止め首を傾げた瞬間、長椅子や壁に貼り付けられたスマホを巻き込みながら大爆発を起こす。

 

「ジョーカー!」

「……なぜ戻ってきた?」


 後方から駆け寄ってきたのはキリサメ。呼吸を荒げていることから、随分と長い距離を走ってきたらしい。


「ほら、血涙の新しい力だよ……!」

「名前を付けるためにわざわざ戻ってきたのか?」

「俺はお前にとって頭なら、こういう時にしか力になれないと思ってさ」


 危険をかえりみないキリサメに溜息をつくと、私は無意識のまま右手を振り払い、手の平を下に向けた。すると見開きの上製本が手の中へ現れる。


『オレに真なる名を与えるのだろう、賢明なる子よ』


 スフィンクスの本の姿が脳裏を過ぎると共に、左目の紅い瞳には『666』という数字が浮かび上がった。


「ジョーカー」

「……名前は何だ」

「『666』っていう数字でピンと来た。この力の名前は──」

 

 右手に握られた見開きの上製本が蒼色に発光する。キリサメは私へ視線を向けながら、力の名前をこう答えた。


「──Omenオーメンだ」

(……Omenオーメン


 脳内に映し出されたスフィンクスの本は、最後のページから最初のページまで高速で捲られる。


『いいだろう、オレの名はOmenオーメン。主の名はAlexiaアレクシア Bathoryバートリ。お前と共に白紙の道を歩もう』 


 本の表紙に私の名前とスフィンクスの新たな名が書き記されると、一ページ目がゆっくりと捲られた。


『新たな主よ、オレはバートリ卿の理想を愚かなものだと確かに否定をした。だが未だに正しい解答なのかはオレにも分からない』

(……そうか)

『バートリ卿の理想は愚かなものだったのか。それともオレが浅はかな愚者だったのか──そのEnigmaエニグマをオレと共に解き明かしてくれ』


 最後に聞こえたスフィンクスの一言。私は意識を現実に戻されると、下に向けていた本を表側に返し、


「──Omenオーメン


 蒼色に発光する文字を本の中から飛び出させ、自身の周囲に漂わせた。


「ジョーカー、何か飛んでくるぞ!」


 立ち込める煙の中で向かってくるのは数本の紅の杭。私は転がる瓦礫に蒼色の文字を侵食させると、


「……便利な力だ」


 瓦礫を手繰り寄せ、こちらに向かってくる紅の杭を防いだ。


「大層なものを作ってくれてるじゃない? ねぇ、ヒュブリス?」

「製作者曰く、作ったではなく"発明"らしい」


 良好になった視界の先には、ニーナが瞳孔を開いた状態で立っていた。欠損していた右肩はみるみるうちに再生していく。やはり伯爵よりも圧倒的に治癒力が高い。


「で、あんたは何なのかしら?」

「お、俺は異世界転生者だ! こいつと一緒に今まで眷属を倒して──」

「面倒、あぁ面倒ね。頭に浮かんだ言葉を並べて、ペラペラと余計なことばかり喋る面倒なタイプ。あたしは"何なの"って聞いたのよ。ねぇ、イライラさせないでくれる?」

「カ、カイト・キリサメ! 俺の名前はカイト・キリサメだ!」


 怖気づいているキリサメの返答にニーナは口を開けたまま、今にも崩れそうな天井を見上げた。


「走れ」

「うぐはッ?!」


 全身に悪寒おかんが駆け巡ったことで、私は隣に立っていたキリサメを礼拝堂の外へ殴り飛ばす。


「は、走れって?」

「……質問に短い答えで返さない。質問に見当違いの答えを返す。これをあの女の前でするとどうなるのか」

「え? ど、どうなるんだよ?」

「あの女の逆鱗に触れる」


 ニーナを中心に並べられていた長椅子が壁まで吹き飛ぶと、私ではなくキリサメに凍てつくような視線を送った。


「走れ、死にたくなければな」

「マジかよぉッ!!?」  


 キリサメが廊下に飛び出し必死に逃げていく。ニーナはとてつもない速度で後を追いかけようとするが、


「通行止めだ」

「……!」


 文字を侵食させていた長椅子をニーナにぶつけ、壁まで吹き飛ばす。そして私もキリサメを追いかけるため、礼拝堂を後にした。


「あぁ面倒、面倒なのはイライラするから嫌いなのよ」

「……早いな」


 しかし壁を伝いながらすぐに追いかけてくる。狙いは私ではなく、今まさに前方で走っているキリサメ。私は窓から空の色を確認した。


(……夜明けまでは耐えられんか)


 日没してからまだ時間が経っていない。日の出まで数時間は必要だ。私はあらゆる家具を寄せ集め、ニーナを足止めしようとしたが、


「邪魔は求めていないわよヒュブリス? 私が求めているのはそこで走ってる面倒な男だけだから」


 指の間に挟んでいた紅の杭を振り回し、家具を叩き壊してしまう。これでは足止めにもならない。


(今のニーナとは会話が成り立たん。私へ矛先を変えるのは厳しいとすれば──)

「ミネルヴァさん!?」


 後方のニーナを警戒しながら走っていると、前方からキリサメの声が聞こえてきた。振り向いてみれば、大回廊で待機していたはずのミネルヴァの姿が目に入る。


「こっちに逃げ道があるわ!」

「あ、ありがとうございます!」

(……ニーナが、止まった?)

 

 ニーナの開き切っていた瞳孔は元に戻すと壁から床へと降り立つ。私はニーナの妙な行動に不信感を抱き、キリサメたちの方へ視線を移した。


「ミネルヴァさん、今までどこにいたんですか?」

「気が付いたら屋敷の部屋で寝ていたのよ」

 

 大回廊で共に待機していたはずのヒョウリが見当たらない。私はミネルヴァの衣服に血痕が付着していることに気が付き、


「あれ、でも足を怪我していたのにどうして立てて──」

「その女から離れろ……ッ!」

 

 キリサメに離れるように叫んだ瞬間、


「──あっ?」


 ミネルヴァは衣服から取り出したナイフをキリサメの腹部に突き刺した。キリサメは突然のことで頭が回らず、仰向けに倒れていく。


「いッ、ぐぅあぁあッ……!?! なん、でッ……!?」

異世界転生者トリックスターはね、この世に存在してはいけないの」

「あの女……!」


 私はパニッシャーを構えようとしたが、背後に立っていたニーナが私を蹴り倒し、身動きが取れないよう押さえつけた。


「私たちのバートリ卿を惑わせた異世界転生者トリックスターは汚物なの。汚らわしい、とても汚らわしい、汚らわしいッ……!」

「ぐぇッ、がッ、うぐほぉあぁあぁッ!?!」

「あのヒョウリって異世界転生者も消してあげたわッ! バートリ卿の大切な子に斬りかかったからッ!!」


 ミネルヴァは突き刺さったナイフを引き抜くと馬乗りになり、キリサメの胸元を何度も突き刺す。血飛沫が上がり、キリサメは嗚咽と血反吐を吐いた。

 

「よく見ておきなさい。あれはバートリ卿が残したものよ」

「どういうことだ……?」

「人間に手を差し伸べたバートリ卿は、多くの人間に愛されたわ。けどその手はあまりにも過保護すぎた。いつの日か、バートリ卿の存在無しで生きられなくなってしまうのよ」


 私は血涙の力で蒼い蔓をミネルヴァまで伸ばそうとするが、ニーナによって更に上から押さえつけられ、阻止されてしまう。


すがりは信仰に、信仰はいずれ依存に辿り着く。あの人間からバートリ卿を取り除くと何が残ると思う? そう、残念なことに何も残らないわ」

「……ッ」

「哀しみの果ては怒りと憎しみに変わるの。だからああやって戯言ばかりを並べて、ぶつける先を見つけて、怒りと憎しみを発散させようとする」


 視線の先でキリサメの指先が動かなくなっていく。それでもミネルヴァは正しさを押し付けるように、ナイフを何度も振り下ろしていた。


「方向性を定めた魔女の馬小屋と、人との共存だけを説いていたバートリ卿。どちらが頭のおかしい連中を生み出していたのかしら?」


 ニーナは拘束を解くとうつ伏せになったままの私に背を向け、


「バートリ卿の血を継いだ運命を恨むことね──アレクシア・バートリ」


 軽く嘲笑うとその場から姿を消してしまった。私は立ち上がり、ゆっくりとミネルヴァの元へ歩み寄る。


「あぁ良かったわ。あなたがバートリ卿のように異世界転生者トリックスターに惑わされることがなくて……!」

「……そうか」

「よく聞いて。バートリ卿は異世界転生者のせいで公爵に目を付けられたのよ。あなたの側に言い寄ってきたコイツも、バートリ卿の娘だって気が付いたからに違いないわ」

「……そうか」


 片膝を突きキリサメの手を握る。脈は打っておらず、少し凍えているようにも感じた。顔も酷く、苦しみに悶えているようだ。


「大丈夫よ。これからはあなたに近づく異世界転生者トリックスターは全員消してあげるから。あなたはバートリ卿が残した大切な子供──」

「私が」

「どうしたの?」

「私が、この男を殺せと言ったか?」


 何食わぬ顔で流暢に喋り続けるミネルヴァへ私は冷めた眼差しを送った。


「それは……」

「なら、貴様は私の命令を聞くのか?」

「え、えぇ! だってあなたはバートリ卿の──」

「ナイフを自分の喉に突き刺せ」

「……え?」

 

 呆然としているミネルヴァ。私はナイフを持った手首を握ると、喉元へ刃を押し当てた。


「できないのか? 私の命令だぞ?」

「そ、そんな命令を聞けるわけッ……」

「死ねと命令されれば喜んで死ぬ。私が求めているのは首輪の付いた犬だけだ。首輪の外れた野良犬に用はない」

「ひッ、いやぁああぁッ!!」


 押し当てたナイフの刃を皮膚から肉へと徐々に食いこませる。裂け目から血が溢れ出し、ミネルヴァは悲鳴を上げる。


「バートリ卿が、バートリ卿がこんな悪魔の子を産むはずがないわッ! あなたは、あなたはバートリの名を飾った偽物ねッ!?!」

「……」

「そうよ、そうに決まってるッ! あなたは異世界転生者と手を組んで、私たちを嵌めようとしていた──」

「もういい、黙れ」


 ナイフで頸動脈を斬り捨てるとミネルヴァは喉元を両手で押さえる。しかし湧き水のように溢れ出る血は止められず、


「ごぼぼッ、げほッ、あッがッ──」


 少し離れた場所で血塗れになって息絶えた。私はキリサメの動かぬ遺体に視線を移し、大きな溜息をつきながら、


「……せめてもの弔いだ」


 食屍鬼や吸血鬼に変わらぬようにパニッシャーを構え、既に止まっていたキリサメの心臓へ銀の杭を撃ち込んだ。


「酷く、疲れたな……」


 片手で両目を押さえると、身体に浸透するのは何百年振りかの酷い倦怠感。私はキリサメの遺体へ静かに背を向け、少しずつ前へ前へと歩き出した。

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