タロのぬくもり
逢雲千生
タロのぬくもり
冬になると思い出す。
あの日、私を温めてくれたあの子のことを。
私は鍵っ子だった。
両親は共働きで、姉と兄が一人ずついたけれど、どちらも年が離れてすぎいて、遊んでもらった記憶がない。
幼稚園までは誰かが近くにいてくれたけど、小学生になると大丈夫だと思ったのか、入学して間もなく、誰も私を構ってくれなくなった。
小学校は歩いて帰れる距離だったし、近所には両親の親がそれぞれ住んでいたから、たまに様子を見に来てくれていた。
都合が合えば、どちらかの祖父母の家に行くことはあったけれど、どちらも高齢だったから、小学生のうちに施設へ行ってしまった。
中学生になってからは、毎日私が家の鍵を開け、誰もいない家で夜中まで過ごすのが当たり前になった。
姉が結婚すると、両親は姉夫婦の家に行くようになったし、兄が出世して一人暮らしをし始めると、心配だからと泊まり込みで様子を見に行く。
家に誰もいない日の方が多くなっていき、私だけが住んでいるように感じるほど、生活感というものを感じない場所になっていった。
事情を知っていた友人に誘われて、彼女達の家に泊まりに行くことはあったが、心配する両親に「家が心配だから出かけないで」と言われてしまい、私はそれに従うしかなかった。
家に友達を呼ぶのもいい顔をしなかったので、私はひとりぼっちで家にいるしかなかった。
中学三年生の春だったと思う。
兄が結婚相手を紹介してきた頃だから、五月の暖かい、晴れた日だったはずだ。
私は家に帰る途中で、一匹の犬を見つけた。
その犬は野良犬で、かなり前からうろついていると聞いたことがあった。
何歳かはわからないけれど、もうすでに大きく成長していて、人に懐かなかったから、とっくに成人はしていたんだろう。
警戒心が強くて保護が出来ず、大人達が手を焼いていた犬だった。
茶色い体は立派で、雑種なのは間違いなかったけれど、野良犬とは思えないほど堂々とした姿は、なぜか目を引いた。
私の家では昔、姉が飼いたいと言って小型犬を飼ったことがあるが、姉達の扱いがあまりにもひどく、懐かなかったので、あっさりと別の人に引き取られてしまったのだ。
それからも、猫だったりハムスターだったりと、姉と兄が動物を飼っては人にあげていたため、事情を知った祖父母達が説教をしに来たことがある。
生き物をなんだと思っているだと怒り、二度と飼わないことを条件に帰って行くまで、私も一緒に怒られてしまった。
あれ以来、家族は動物を飼わなかったけれど、たまに知り合いの動物を預かってくることがあった。
その時も吠えられたり噛まれたりして、可愛くないと勝手に怒っていたけれど、私は一度もそんなことをされていない。
だからなのか、世話係に任命されて、そのくせ手柄は自分達のものにしていたのだ。
私だって本当は、犬が飼いたかった。
大きな犬で、腕を広げて抱きしめられる犬が欲しかった。
野良犬とはいえ、堂々とした大型犬を気にするようになったのは、そんな不満からだったのかもしれない。
たまに出会うその犬は、目が合っても吠えてくることはなく、かといって逃げることもない。
つかず離れずの関係を続けていたのだけれど、それを知った両親が激怒した時のことは、今でも忘れられなかった。
「この馬鹿娘が!」
珍しく先に帰っていた父親からの平手打ちに、私はしばらく反応できなかった。
ようやく痛いと感じると、父親は私を思い切り怒鳴ったのだ。
「あれほど動物には関わるなと言っただろう! 人様が飼っている動物ならまだしも、野良犬を可愛がるとはどういうことだ! まったく
「そうよ。おばあ様達に言われたでしょう。それなのに約束も守れないだなんて、本当に馬鹿なんだから」
続く言葉は覚えていない。
自分達がしてきたこと、姉達がしてきたことを私のせいにし、自分達を正当化する彼らに、心が冷えていくだけだった。
気がつけば靴も履かずに家を飛び出し、コートと制服だけを身につけて、道路をひたすら走っていた。
飛び出したところで行く場所などないし、友達の家は遠い。
いつの間にか降り積もっていた雪に足を取られ、だんだん走れなくなっていく。
冷えた空気が喉をさし、息をすることが辛くなっていく。
どれだけ走ったかわからないけれど、身に覚えのある道に出たことで安心したのか、立ち止まって大きく深呼吸することができた。
胸が痛くなるほど走った私にとって、冬の空気は厳しく冷たい。
道には誰もいないし、車も走っていない。
呼吸を整えながら、家とは逆の方向に歩いて行くけれど、もう少しで日が暮れることに気がついて、大きなため息が出てきた。
(寒いなあ……)
気がつけば足の感覚がない。
靴下はすでにびしょ濡れで、汗をかいたから制服も冷たい。
コートは濡れていなかったけれど、汗が引いてきたことで体温が下がってきたのか、体が大きく震えだす。
財布とスマホは鞄に入っていて、家に置いたままだ。
せめてどこかで休めないかと辺りを見回してみると、シャッターが閉まった店の前にベンチを見つけた。
錆び付いたベンチは冷たかったけれど、屋根があるので雪はしのげる。
足早にベンチへ駆け寄ると、道路を見つめながら座り、安堵の息を軽く吐き出す。
コートの中に腕と足を入れて丸まると、目を閉じて両親のことを思い出してみた。
私の両親は、どちらも厳しい家庭で育ったわけではない。
祖父母は自由主義で、子供がやりたいことを止めることはほとんどなかったらしい。
けれど、常識の範囲外で行動を起こすときには口うるさかったようで、だからなのか、両親はそういったところに甘い人だった。
姉が夜遊びしても怒らなかったし、兄が彼女を手ひどく振っても笑っていた。
それも経験だと言っていたけれど、私は良いと思えなかったのだ。
母には「おばあちゃん達に似て嫌な子ねえ」と言われたことがあるので、私は祖父母に考え方が似たのだろう。
学校でも優等生に思われていて、先生達から信頼されることが多かった。
けれど家族は違っていて、むしろ「面白みがない、つまらない子」と思っていたのかもしれない。
祖父母達の目が届くうちは良かったけれど、彼らが施設に行ってからはひどくなった。
小学生の頃から当たり前に思っていた”お留守番”は、この頃におかしいと気づいたのだ。
空が暗くなり、街灯が
雪はさらにひどくなり、膝くらいまで積もってきている。
家には帰りたくないけれど、友達を巻き込みたくはない。
うずくまったままベンチに座っていると、雪の中を動くものが見えた。
暗くてよく見えなかったが、よく見るとそれが犬だとわかった。
あの茶色い犬だった。
その子は雪を崩して店の前に入ってくると、数回体を震わせて雪を払い、私を見上げる。
目が合うと、その子は静かに歩き出し、ベンチへと上がった。
何をするのかと黙って見ていると、その子は私に体を寄せて座り、まるで抱っこしろと言わんばかりに甘えてきたのだ。
大きな犬を触ったことがなかったので、どうすればいいのかわからなかったけれど、何度も体をすり寄せてくるので、コートから腕を出して撫でてみる。
犬は大人しく撫でられたので、今度は両手を使って頭を撫でると、もっとしろと頭を寄せてきたのだ。
――暖かい。
そう思った瞬間、もう駄目だった。
一気に涙が溢れ、これまで我慢してきたものが流れ出してきたのだ。
声を出して泣く私に、犬は黙って体を寄せ、膝に頭をすり寄せる。
涙を零して泣きじゃくる私の顔に頭を寄せると、甘えるような声を出してきた。
その声を聞いた私は、泣きながら、思いきり犬を抱きしめた。
同時に、雪の清々しい匂いがして、私はさらに泣いてしまった。
真夜中に、偶然通りかかったサラリーマンに見つかるまで、私はその子に抱きついたままだったらしい。
いつの間にか眠っていた私は、病院のベッドの上で目覚めた。
私を見つけてくれたサラリーマンと、看護師さんが側についていてくれて、また泣きそうになってしまった。
後で聞いた話なのだけれど、私が家を飛び出してから病院に搬送されるまで、両親はずっと家にいたそうだ。
すぐに帰ってくるだろうと探しもせず、暖かい部屋で夕食を食べ、久しぶりに夫婦らしい時間を過ごしていたらしい。
そのことを説明してくれた警察官の気まずい顔は、きっと一生忘れられないだろうと思った。
私もその話を聞いて呆れてしまったが、不思議と涙は出てこなかった。
あの人達ならやるだろうと、心のどこかで思っていたのかもしれない。
両親は警察に連れて行かれ、私への虐待を疑われたそうだけど、罪には問われなかったらしい。
けれど、警察から連絡を受けた祖父母達の話と、私の友達などからの話で、私が夜遅くまで一人で留守番をしたり、長い間家に一人でいさせられたりしたことがわかり、いろいろな人からたくさん怒られたそうだ。
一度だけ母が見舞いに来たけれど、心配より先に私への
そのことで、姉達が実家に話し合いに来たそうだが、みんなであれこれ話をしていくうちに、私が悪いということで落ち着いたそうだ。
しかし、そのことを夫や婚約者に話した彼女達は、彼らにたくさん怒られたそうだ。
当然と言えば当然だけれど、理解できなかった彼女達は、私への虐待が本当になかったのか、今でもあちこちから疑われ続けているらしい。
私はというと、事情を知った祖父母達の計らいで、残したままだった父方の実家に暮らすことが決まった。
そして、施設暮らしが合わなかったらしい父方の祖父母と、三人で暮らし始めたのだ。
生活費や学費などは両親が出してくれているけれど、それ以外に必要な分はアルバイトで支払い、三人でどうにか暮らしている。
あれから数年、母方の祖母が病気で亡くなり、祖父の方はすっかり体が弱くなってしまったらしい。
一緒に暮らしている二人も、年々足腰が弱くなっていて、介護が必要になるのも、そう遠くないと思う。
動けるうちは動きたいからと、散歩に出たり、庭の草むしりをしたりしているが、その背中はとても小さくなった。
両親達とは縁が切れたわけではないけれど、今まで姉と兄を甘やかしてきたつけが回ってきたのか、いろいろと問題を抱えていると聞いている。
何度か家に来たことはあったが、そのたびに祖父母が追い返していた。
今では私の方に連絡が入るけれど、応じるつもりは一切ない。
働き始めたら、祖父母達への恩返しをしながら、将来のために貯めるつもりなのだ。
午後の雪かきを終え、かじかむ手をストーブの熱で温めていると、空から白いものが降ってきた。
ガラス越しに見えるそれは、あの日のように冷たく、真っ白い雪だった。
「うわあ、また積もるなあ」
雪が積もる地域では、どれだけ雪かきしても追いつかないことがある。
今回もそうなりそうだと思い、帽子とマフラーを取り、コートを着ると、寒くならないようにと、冬用の長靴を履いて外へ出た。
雪かきした場所には、すでにうっすらと雪が積もりだしていて、だんだんと視界が悪くなっている。
明日の朝も早起きか……とうんざりしながら庭を進むと、こちらに背を向ける、大きな茶色い固まりに声をかけた。
「タロ、散歩に行くよ」
すると、丸まっていたタロが尻尾を振り、嬉しそうに私を振り返った。
いつもは大人しいのに、散歩になるとはしゃぎだすこの子は、いつでも可愛い。
散歩用の鎖をつなぎ、引っ張られながら歩道に出ると、辺りは一面真っ白だ。
遠くにはぼんやりと太陽が見え、空は薄暗くなり始めている。
「今日は日暮れが早いね。急ごう」
タロに引っ張られながら歩いて行くと、見慣れたベンチに学生が座っている。
ベンチには色が塗られ、閉店していたその店はシャッターを開けて、
バス停に向かって歩いて行くと、見慣れた男性が私を見つけて手を振りだす。
道路の反対側にいるその人へ手を振り返すと、彼は嬉しそうに家へ帰っていった。
道行く人へ挨拶をしながら歩いて行くと、懐かしいとも久しぶりだとも思えない、かつての我が家が見えた。
今はもう誰も住んでいないその家は、買われないまま、今でもそこにある。
腕を引かれた。
タロが私を見上げ、早く行こうと鎖を引っ張る。
「……行こっか」
住んでいた家に背を向けて、私はタロと歩き出す。
今も変わらない、堂々とした姿に引かれながら、私は今日も、家族の待つ家へと帰るのだった。
タロのぬくもり 逢雲千生 @houn_itsuki
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