第3話

 四月というのは、何度迎えても嫌なものだ。高校二年生の春、人生とは怠惰と惰性でどうにでもなると悟るには十分すぎる年月を経て、高校という場所がどれほど自分にとって何の価値もない場所かを痛感し、ほとんどすべてを諦めていた。クラス替えはあったが高校生にもなってその度に新しい友人作りに奔走することもない。たまたま同じクラスに去年のクラスメイトが何人かいたし、そもそも葛西には、積極的に話したいと思える同級生はいない。一人を除いて——。


「アキラって、どこかで他人を馬鹿にしてるよね」前の席に座るその一人は、いつもそうして葛西を挑発した。

「ミランダに言われたくないよ」

 ミランダはドイツ人と日本人のダブルだ。日本名は香織というが、ミランダ本人はそう呼ばれるのが嫌なのか、ずっとミランダで通していた。


「ねえ、新しく転校してきた人がいるって話、知ってる?」

 ミランダは葛西の心の内など斟酌するつもりはないようだ。葛西の顔を覗き込む。青味がかった灰色の瞳と視線が絡み、葛西は反射的に視線を下げ、胸元が視界に入って今度は顎を上げる。

「知らない。何組?」高校生で転校とは大変だ。


「それが、このクラスなんだって」ミランダの表情が明るくなる。なるほど、そういうことかと葛西は合点がいった。「始まって一週間経つのに、担任も何も言わないし、おかしいと思わない?」

「思わない」葛西は頬杖をついた。ミランダの言いたいことは分かるが、冷静に考えるべきだ。ミランダには、そういう日本人的な慎ましさが欠けているといつも思う。「一週間も何もないんだから、その噂はデマってことだ。デマゴギー、分かるだろ」


「アキラは本当に面白くない」

「知ってる」自分が面白みのない人間だということは百も承知だった。

「ちゃんと証拠もあるんだから」

 証拠と来た。ミランダは一旦机に向き直り、何やらカバンを漁っている。

「ほら、これ」手渡してきたのはクリアファイルだった。中に書類が入っている。「一番上のやつね」


「明細書? 何の」それは請求明細書だった。高校生がそんなものを目にする機会などないに等しいから、ただ書類の先頭にそう書いてあったからそう思っただけだ。左上には学校の庶務課宛と書かれている。物品の購入にあたって発行されたものだろう。

「ね、怪しいでしょ」ミランダが嬉々とした声を上げる。


「怪しいのはお前だよ。何でこんなもの持ってるんだよ」

「それは、今は置いておいて」ミランダは架空の箱を脇に置く仕草をする。「それ、校章と学年章の購入に関わる請求明細書なんだけど、購入数量見てみてよ」

 明細書の項目欄には、確かに『校章』と『学年章』がある。校章は一列で、学年章は学年別に三列ある。ここだとミランダが指差す。二年生の学年章の購入数量だ。

「三百五十五」葛西はその数字を読み上げた。「二年生ってこんなにいるんだな」


「そんなことも知らないの?」

「知るわけないだろ。これがどうかしたのか?」

「一人多いの。私たちの学年は去年まで三百五十四人だったのに」

 ミランダが言うからには正しいのだろう。請求書の発行は三月二十日とある。いわゆる二十日締めというやつだろう。つまり、元々この数量を発注したことになる。追加をしたわけではないのだ。

「予備なんじゃないか? 何かがあった時のために」


「予備なんて発注しないよ。一年と三年の購入数量は各学年の在籍者数と一致するし、仮に予備だったとしても、もっとたくさん発注するでしょう。一個じゃかえって心許ない」

「確かに」葛西は請求書を眺める。「例えば、その時は転入する予定だったけど、土壇場でそれを取りやめた、っていうのは? 購入した後だったから、ひとつ余ってしまった。でもひとつは数百円だ。予備に充てるということで丸く収まったんじゃないのか?」


「相変わらず面倒くさいな。だったら、今度はこっち」

「お前の方がよっぽど面倒くさい」葛西の意趣返しもミランダにはどこ吹く風だ。こうして推理に参加している時点で、すでにミランダの術中にはまっているとも言える。ため息をつく。ミランダは葛西の顔を覗き込むような仕草をし、すぐに葛西の手元からファイルを掻っさらい、用紙をめくった。

「ほら、教科書の追加発注書。これは四月に入ってからだよ」

「だからどうしてこんなもの持っているんだよ」グイッと眼前に差し出された用紙に、反射的に体を仰け反らせる。


「ね、絶対におかしいって」

 更に顔を寄せてくる勢いのミランダに、葛西はたじろいだ。

「わかったって。じゃあ、どうしてそれがうちのクラスだって分かるんだ?」

「それは勘」

「そこは勘かよ」

「クラス名簿に載ってる人数は今のクラスの人数と合致してるし、それは別のクラスも同じだったから。だからますます怪しいの。学年章は発注してるのに、どのクラスにも新しくやってきた生徒はいない」

 ミランダはじっと考え込んでしまった。葛西は、その熱量の源が何なのか分からず、途方に暮れた。ただ、ミランダの勘は結果的に当たることになる。


「ホームルーム始めるぞ。全員席につけよ」担任の池崎がドアを開けて入ってきた。二十代らしい張りのある髪を不自然にカールさせた様はまるで芸術家のようでもあり、売れないモデルのような佇まいでもある。華奢に見えて、時折袖口から覗く腕はやけにたくましく、一部の女子生徒が不健全な視線を向けていると、ミランダが楽しそうに話していたのを思い出す。

 ミランダがすうっと前を向き、葛西も自然と池崎の顔に焦点を合わせた。

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