第34話 師匠の想い

 ぱちっと目を開く。墨がぐるぐるしていて安心できる世界。見覚えのある場所だ。


 前回と違うのは、最初から私が正座していることだけ。


 私の目の前にはおば……お姉さんが座っていた。布で顔を隠しているけれど、優しく微笑んでいることは分かる。


 言うべきことはわかっていた。


「助けてくれてありがとうます」


 深々と頭を下げる。


 彼女は寂しそうに笑った。


「うん。でもこれが最後だよ」


 顔を上げる。豪快な格好で座っているのに、お姉さんはやっぱり寂しそうだ。


「私はね、君の持つ筆――絵巻屋の弟子のための筆にこびりついた残りかすなんだ」


 私は手元を見下ろす。絵巻屋にもらったあの筆が握られていた。


「お姉さんが絵巻屋のお師匠さんだったますか」


「まあね。ちゃんと師匠ができていたかは不安なところだけど」


 そう言うと、お姉さんはひょいっと肩をすくめた。


 おどけているけれど、そこににじむ悲しさは隠しきれていない。


 私はそんな彼女を見て、視線をちょっと俯かせ、それからまっすぐ彼女を見た。


「お姉さん、聞きたいことがあるます」


「何かな? 最後だからお姉さんなんでも教えちゃうよ!」


 妙なポーズをとるお姉さんに私は尋ねる。


「『絵巻屋』と『化身』って何ますか」


 お姉さんは沈黙した。


 嫌な沈黙だった。聞いてはいけないことだったとすぐにわかった。


 でも、今聞いておかなければならないと、私は直感していた。


 長い長い沈黙の後、ようやくお姉さんは口を開いた。


「それを聞いて君はどうするのかな」


「二人を幸せにしたいます」


 私は即答する。


 お姉さんは布の向こう側で目を見開いたようだった。少なくとも、私にはそう見えた。


「私は絵巻屋と化身にたくさんのものもらってるます。二人にもあげたいます」


 正座の姿勢で膝を掴み、身を乗り出して主張する。


 大真面目だ。


 二人の役に立ちたい。二人にたくさんのものを返したい。


 そのためなら、どんなことでも知っていきたい。


 真剣な面持ちでじーっとお姉さんを凝視する。


 すると、急にお姉さんは噴き出した。


「ふふっ」


 最初は小さく、徐々に大きく、お姉さんは笑い出す。


「はっははは! ガッハッハッハ! 絵巻屋だけではなく化身もか! 君は欲張りだね!」


「?」


 褒められたのか貶されたのか分からない。


 だけどお姉さんはにんまりと笑ったまま、身を乗り出してきた。


「いいだろう。教えてあげるよ!」


 私は背筋をぴんと伸ばし、お姉さんの話を聞く。


 お姉さんは珍しく、本当に珍しく、真剣に真正面に語り始めた。


「『絵巻屋』と『化身』はこの世界を維持するための道具なのさ」


「道具……」


「だから、普通のモノとは違う存在になってしまう。生き方も、死に方もね」


 ゆっくり言われても、うまく理解が追いつかない。


 だけど私は今だけはしっかり考えようとした。


 今だけは目を逸らしちゃいけないとわかっていたから。


「顔をなくし、意味をなくし、存在そのものすらなくして、この世界の礎となる」


 語られた言葉をなんとか飲み込み、お腹のあたりでぐるぐる回す。


 顔も、意味も、存在も、なくしちゃだめだ。


 そんなことをしたら、二人は二人じゃなくなってしまう。


 お姉さんは小さく笑った。


「それが『絵巻屋』と『化身』だよ、弟子ちゃん」


 慈しむような声だった。


 だけど哀れまれているわけではないとわかった。


 きっとそれを、私が受け止められると信じている声だった。


「……そろそろ時間かな」


 よいしょっとぉとか言いながらお姉さんは立ち上がる。


 そして軽やかに私に歩み寄ってきた。


「弟子ちゃん。あの子たちと一緒に健やかにね」


 お姉さんの手が優しく頭に触れる。


 温かくて大きな手だ。


 全部全部わかった上で、何もかもを受け入れてきた手だ。


 お姉さんは私から手を離す。


 そしてそのまま踵を返し、歩き去ろうとした。


 私はうつむきかけていた顔を上げ、勢いよく立ち上がった。


「お姉さん!」


 彼女は踏み出しかけた足を止める。


「私、やっぱり描くます」


 静かに、力強く私は宣言する。


「二人の顔を描くます! 二人をいっぱい描くます!」


 消えていくお姉さんに届くように、ここにはいない二人に届くように。


 強く、強く、叫ぶ。


「なくさないように、たくさん描くます!」


 お姉さんは振り向かないまま、片手をひらりと振って去っていった。


 姿が墨にさらわれ、ざわっと溶け、そこには誰もいなくなる。


 最後に、ガッハッハ! と豪快な笑い声が聞こえた気がした。





 次に目を覚ました私の目の前にあったのは、慌てた様子の絵巻屋の姿だった。


 その向こう側には、せわしなく化身が動き回っている。


「絵巻屋、化身……?」


「アアッ、喋らなくていいカラ! ほらおいで! ゆっくり寝てるんだよ!」


 私が目を覚ましたことに気づいた化身がすっ飛んできてまくしたてる。


 そのまま私は布団に横たえられ、穏やかな気分で天井を見つめていた。


 握り返してくれた手。大きな背中。そして、お姉さんの笑い声。


 そのどれもが愛しくて、私は内心じわじわと喜びに浸っていた。


 その後の数日間、私はろくに起き上がれない日々を過ごした。


 私は布団の住人になりながら、ぽつぽつと二人が教えてくれるのを聞いた。


 あれは常夜から漏れ出た何かで、私は常夜の国に連れ込まれかけていたのだと。


 あと少しでカタチを失い、モノとしての力も奪われて、二度とアヤシとしてですら帰ってこれないところだったのだと。


 カタチ。アヤシ。モノ。


 二人が教えてくれたことも、お姉さんが語ってくれたことも、まだ完全には理解できていない。


 でも理解したい。目を逸らしたくない。


 お姉さんに宣言したのだ。その約束は守っていきたい。


 私は、二人のことを描き続けるのだ。





 それからさらに数日後、私は手鏡を持って座らされていた。


 目の前にふよふよ浮いて櫛を持っているのは化身だ。


「それにしても遠鳴子が壊れてよかったヨ……」


 大きくため息をつきながら、化身は私の白髪に櫛を入れる。


「アレが壊れたら俺たちにわかるようになってたんだヨ」


「そうだったのか」


「絵巻屋ったら、血相変えて飛び出していってサ。アレに関しては今思えば笑えるネ」


「!」


 その慌てようを想像して、私は内心、むふふと笑ってしまった。


 化身は私の髪をくるんと回して、髪留めでパチンと留めた。


 あの後、拾ってきてもらったあの赤い花の髪留めだ。


 化身はぱっと私から手を離す。


「どうかナ? この前よりは上手じゃないカイ?」


 私は手鏡を覗き込んだ。


 ちょっと不格好だけれど、しっかりと髪が赤い花で留められている。


「まあまあます」


「ウッ……手厳しいネェ……」


 うなりながら化身は離れていく。


 私は鏡の中の自分の髪と髪留めをじっと見つめた。


 大嫌いだった赤い目と白い髪の色が、少し好きになれそうな気がした。


 私は大きく息を吸い込み、吐き出して、気合を入れた。


「よし」


 筆を取りだして化身へと歩み寄る。


「化身」


「ウン?」


「来います」


 手招きをすると、化身は素直に私の前に降りてきた。


 私は、彼の顔を覆う布に、勢いよく筆を押し付けた。


「ぶっ!?」


「動くなます」


 ぐいぐいと筆を動かし、化身の布に文字を書く。


 彼の顔に、意味を与える。


 やがてそれは完成し、私は化身に手鏡を押し付けた。


「見るます」


 化身はおそるおそるそれを覗き込む。


「……へのへの、もへじ」


 化身の布には、歪んだひらがなで、立派な顔ができあがっていた。


 私は鼻をふふんと鳴らした。


「文字は意味ます。これがお前の顔ます」


 堂々と言い放つ。


 化身はしばらく固まっていた。


「…………」


 気に入らなかっただろうか。


 ちょっと不安になった私が覗き込むと、ただの文字だったはずの顔が、へにゃっと動いていた。


「ハハ、参ったネェ」


 目じりが垂れて、それを化身がぺたぺたと触っている。


「これが俺の顔カァ……」


 どうやら嫌ではなかったらしい。


 ホッと胸をなでおろしていると、化身の目からぼろっと涙らしき線が浮き上がった。


「!?」


「……っ!? な、なんでもないヨ! ちょっとあっち行ってるネェ!!」


 化身は手鏡を持ったまま慌てて店の奥へと飛んでいった。途中で何度も棚や柱にぶつかっている。


 私はそれを呆然と見送り……追いかけないことにした。


 多分、今は見られたくないんだろう。叫ぶように言い残した化身の声が、しゃくりあげるように震えていたから。


 私は満足感でもう一度鼻を鳴らし、ふと店のほうを見た。


 こちらの騒ぎには気づいていないようで、絵巻屋は静かに文机に向かっている。


 いつも通り、羽織の背中を私に向けている。


 私はとてとてと歩み寄って、斜め後ろにちょこんと座った。


 その背中が、怪物を受け止めたお姉さんのあの背中のように見えて、私は絵巻屋に声をかけた。


「絵巻屋」


「なんですか」


 いつも通り、ぶっきらぼうな返事が返ってくる。


「……なんでもないます」


 穏やかな気分になって私は言う。


 絵巻屋はちょっとだけ振り向いて困惑の顔をした。


「はあ」


 その間抜けな声がなんだか可笑しくて、私の口の端がぴくっと震える。


 絵巻屋はすぐに前を向いてしまう。


 だから誰も見てはいないけれど、この口元が笑顔になっていたらいいなと、私は願った。

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