……こともない

 ところが、運命なんてわからないもんだ。この世界にもクマン蜂がいた。なんか、この世界のクマン蜂はすごくデカくて、決まった森にしか生息していないらしい。で、俺が知っているってことをゲルードっていう魔術師に怪しまれたんだけど、藤の花の枝を持った茶色いウサギが飛び出してきて、話をそらせてくれた。すげえな、こっちの世界。ウサギがしゃべってる。まあ、竜がいる時点で、何が出てきても不思議じゃないか。


 そのウサギの持ってきた藤を見て、思い出していた。俺のうちには藤の木がある。マンションだから庭なんてないけど、一昨年まで爺ちゃんが鉢植えの藤の木をベランダで育てていた。俺が小学生の頃に、母親の実家のある栃木のフラワーパークで、日本一だとかいうすげえ大きな藤の木を見た。うちの藤も、場所さえあればこのくらいにはなるんだ、とか爺ちゃんが強気で言っていたのを思い出す。その時に、飛び交うクマン蜂をみて怯える俺に「この蜂は大人しくて、でっかいミツバチみたいなもんだぞ、可愛いもんだ」と言ったのも爺ちゃんだ。

 その爺ちゃんは、一昨年の暮れに体調を崩して入院して、去年は藤の花が咲くのを見られなかった。ベランダで藤の花が咲いたのは、爺ちゃんの四十九日を迎えるころだった。

 そうして、今年も藤は咲いてた。ベランダにクマン蜂が飛んできて、驚いたのをよく覚えている。爺ちゃんがいないから、母親が見よう見まねで剪定してて、ぐっと見劣りする感じになっていたけれど、とりあえず藤は藤だ。親父はその不格好な藤を見て、なんだかしんみりとしていた。

 と、そんな風に家の藤のことを思い出していると、突然あたりがものすごく眩しくなって、俺は目を閉じてしゃがみこんだ。気が付くと、ベランダの藤の鉢植えの前でしゃがみこんでいた。

えっ!と思って立ち上がる、と寒い。やばい、裸じゃん、俺!なにやってんだ!?

とっさに大事な部分を隠して部屋の中に飛び込んだ。夢?あれ全部夢だったのか!?それにしてはやけに現実感のある夢だった。家にいるという当たり前の現実に、違和感を感じてしまうほど。

 おそるおそる 「ラウザー?」 と声に出してみる。もちろん返事があるはずない。

「はは、無いよな。あー何やってんだ、俺」

 スマホの画面を見ると、もう夕方だ。部屋の中も薄暗い。一日中ベランダにいた?ありえない気がする。それに何だか頭がクラクラした。裸で外にいたから風邪でも引いたのか、まずいなこの時期に、と焦りが出る。今の方が夢のような気がしてぼんやりしたが、腹が減ってるしとにかく何か食べよう。

 そう思って部屋を出てキッチンに行くと、夕飯の準備をしていた母親が俺のことを見てびっくりしている。

「あ?なに?」

 いつも通りに不機嫌な声を出すと、母親が呆れたように言った。

「龍太、なあに?その顔。なんで日焼けしてるの。一日部屋にこもって何やってたのよ」

 一瞬、何を言われているのかわからなかった。


―――日焼け?は?


 そう思いながら洗面所に向かい、鏡を覗き込むとそこに写ったのは、こんがりと程よく日に焼けた自分の顔だった。いや、顔だけじゃない。気づけば腕も、トレーナーをめくれば腹も背中も焼けている。多分、全身がこんがりと焼けている。思わず頭に手をやると、髪は砂にまみれぱさついていた。


 その瞬間、理解した。理屈じゃなく、わかった。自分があの海辺にいたことを。あの、砂浜でラウザーと過ごした時間が夢じゃないということを。陽気で元気で、でも淋しがり屋のオレンジ色の竜のことを思い出した。仲間の竜に責められながらも、俺を励まし、ここへ帰れるようにしてくれた。

 体中に鳥肌が立っているのに、頭の中はカッと熱かった。洗面所でボロボロ涙を流す俺を見て、母親が不気味がった。心配になったんだろう、ここ最近では一番の優しい声で色々聞いてきたけれど、結局何も話せなかった。


 あの世界での日々が

 夢ではなかった、ということが

 俺の中の何かを塗り替えた。


 毎日見慣れたはずの景色も、人も、そして何より自分自身も、今までとは違って見える。あそこから無事に戻れた、という意識が、今の生活をかけがえのないものだと認識させてくれた。


 まだ、自分はここにいる。

 もう一度、この世界で生きていける。


 二度と帰れないかも、と絶望しかけたあの時の気持ちを思えば、なんでも出来る気がした。でも、まあとりあえずは勉強して、勉強して、勉強した。小言マシーンだった母親は喜び、そしてそのうち心配し出した。この間までは、倒れるまで勉強しろって勢いだったのに、今は「ちゃんと寝てるの?」とか聞いてくる。母親っていうのは本当に、口うるさくて、バカで、そして……ありがたい。

 母親が心配するほど勉強に身が入るようになったのは、具体的な目標が出来たからだ。


 雷を研究したい。ラウザーが大好きだと言った雷を。その為の入り口としての進学だ。だって、ひょっとしたら、雷雲の中に入り込んで身動きとれなくなってる奴とかいるかも知れないじゃないか。そう、たとえばお人好しの竜とか。

 ありえないこともないだろう?ありえないと思えるようなことが起るのは、もう経験済みだ。


 勉強して、模試を受けて、本番に備える。


 先のことが不安で、じりじりと火で炙られるような気持ちの日々は結局変わらない。


 でも、俺は最高の気分だった。


 変わり映えの無い一日が、

 また、始まる。



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