第18話 気をつけて

 小熊は学校の授業が終わるのを待ちきれなかった。

 昨日ゴーグルを装着してカブで走った小熊は、それまで目に当たる風に負けて出せなかったスピードを出すことが出来た。

 他の車に絶えず追い抜かれながら走っていた幹線道路を、同じ速度で流れに乗って走れる。

 ただそれだけのことで、カブに乗ってどこまでも行ける気分を味わった小熊は、この思いを何度も繰り返し味わうべく、もっと走りたい気持ちを押さえながらアパートに帰ってきた。

 駐輪場から部屋まで歩いて戻る間も、茹でたパスタにフリーズドライの具を入れただけの夕飯を食べている間も、風呂に入っている時さえ、まだ体に残っている感触を楽しんだ。

 中古バイク屋で買ったカブに初めて乗った時には、こんな感覚は味わえなかった。ただアパートまで、学校まで無事に走らせることに精一杯で、走る行為そのものを楽しもうと思ったことは無かった。

 カブに乗り始めて数日。やっと自分の足としてカブを扱えるようになった実感が小熊の心に沸いて来た。

 電車でも車でもない、しかしそれらに劣ることの無い自分だけの移動機械。

 今まで地図で見るだけだった自宅周辺の色々な場所に興味が沸いてくる。大きな買い物の時にしか行けなかった近隣の街に行けるかもしれない。

 眠りに落ちた小熊は、夢の中でまでカブに乗っていた。中学の時に数回行ったことのある東京都心をカブで走る夢。

 翌朝目覚めた時、いくらなんでもそれは欲張りすぎと照れくさくなった。

 とりあえず今日の放課後は、カブで少し遠くまで走り、夢の一端にでも触れてみようと思った。

 

 もう習慣になった礼子との昼食。クラスにお喋りをするような友達が居ない小熊の、誰にも気付かれない変化も礼子にはバレていたらしく、ナンに卵とベーコンを挟んだ弁当を食べながらニヤニヤしている。

「わたしも最初は貰い物のハーフヘルメットだったから、初めてフルフェイスのヘルメットを被った時はそんな感じだったわ」

 小熊は白飯にレトルト鶏丼の弁当を食べながら、自分のヘルメットが納まったスチールボックスを撫でた。

「色々、走ってみようと思う」

 礼子も自分の郵政カブを見つめ、赤いボックスに映る太陽をピシャンと叩きながら言う。

「わたしも、ね」

 都会より夏の暑さが緩やかな南アルプスの麓。そろそろ屋外での昼食では汗ばむようになってきた。

 夏休みが近づいていた。


 放課後。小熊はエンジンをかけたカブのリアボックスに通学用のバックを放り込み、ゴーグルのついたヘルメットを被った。

 ヘルメットの額に上げていたゴーグルを顔の位置まで下ろし、ストラップに指を通して位置を直し、グローブを装着する。

 横で小熊と一緒にエンジンの暖気をしていた礼子が「じゃ、気をつけて」と言って、いつもながら喧しい郵政カブで走り去ったが、小熊も走り出そうとしたところで、礼子の赤いカブは一度戻ってくる。

 礼子は小さな紙片を差し出した。レシートの裏に何か書かれている。

「わたしの携帯の番号よ。何かあったら連絡して」

 小熊はその時になって初めて、礼子と携帯の番号を交換していないことに気付いた。まだ友達と言えるかどうかわからない関係。

 同じカブ乗り。それはもしかしたら同じクラスでお喋りをする、友達とかいうものよりも濃い関係かもしれない。

 小熊がそういう意識を持てたのは、小熊とカブが他の車やバイクと対等の存在になったから。


 原付を買う前に慌しく取った免許証にはさほど感動を覚えなかった。正直、学生証と同じような写真つき身分証明書だけど、やたらお金と手間をかけさせられた記憶しか無い。

 礼子に貰った携帯番号の紙切れは、小熊にとって一つの証明書のように思えてきた。

 ほとんど登録の無い携帯のアドレス帳に礼子の番号を入力した小熊は、携帯番号が書かれた紙を制服ベストの胸ポケットに大事に仕舞い、ゆっくりとカブで走り出した。

 今日はカブで今まで行かなかった所まで走りに行く。はやる心を抑えつつ気をつけて行く。礼子は「気をつけて」と言った。

 友達の言うことならともかく、同じカブ乗りの言うことは一言も漏らさず、真摯に自分の胸に取り入れることにする。

 小熊は礼子のメモを入れたベストの胸ポケットにそっと手を当てた。

 電話番号はもう携帯に入れたし、このメモもアパートに帰れば制服をハンガーにかける時、買い物のレシートと一緒に捨てることになるだろう。

 でも、言葉は忘れない。 

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スーパーカブ トネ・コーケン/角川スニーカー文庫 @sneaker

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