Ⅰ-7 夜半
ツェリスカは自室に設けられた祭壇に祈りを捧げていた。
ツェリスカの実家、バーテルバーグ家の筆頭家臣であるファイファー家は古来から炎の神を信仰している。
稀に炎の魔術師が生まれるからだ。
炎の神はアルドワヒシュタと呼ばれる神で、「最善なる天則」という意味がある。
情に厚い勇猛な戦士であったとされ、穢れを払う聖火にも、全てを焼き尽くす業火にもなり得るとされる。
実際に竜になる事はないのだが、未だにそれは信じられており、竜鱗人に僧侶が多いのは竜になろうと修行をする者が多いからである。
その為、竜鱗人には優秀な
「神よ……、我が息子をお守り下さい……」
ツェリスカは不安だった。
王宮内に流れる暗殺の噂、突然決定した国王の南部戦線視察、カルカノやアブトマットの諜報員の暗躍。
全てが恐怖でしかない。
本当に息子は王位につけるのだろうか。
ファイファー家はバーテルバーグ家の筆頭家臣であり、バーテルバーグ家配下の中では最も権威を持っているのだが、最古三家であるシグ、フローコード、勲三家のユマーラ、ガイルース、ルーインバンクからみれば取るに足らない。
この五家がその気になれば、バーテルバーグ配下筆頭家臣であろうが簡単に潰され兼ねない。
所詮、ツェリスカはバーテルバーグ家の人間ではないのだ。
ガーランドが死んだ場合、次にバーテルバーグ家を掌握のはヘンリーである筈だが、如何せん未成年。
恐らく、実権は現ベレッタ城城主であり、ガーランドの叔父であるピダーセン・フォン・バーテルバーグだろう。
ピダーセンはツェリスカを軽んじている。
それはツェリスカがファイファー家出身であるからだ。
形式上、王妃であるツェリスカに頭を下げはするが、その目は蔑みの色が濃い。
それ故に、ツェリスカとピダーセンは既に十年以上顔を合わせていない。
「殿下、そろそろお休みに……」
侍女が心配そうに言った。
彼女はツェリスカが嫁ぐ際にファイファー家から連れて来た唯一の侍女だ。
幼い頃からの付き合いで、この王宮の中で信用できるのは彼女だけだ。
「そうね……」
「噂などお気になさらず」
「それはいいの。別にガーランドの生死を心配してる訳じゃない」
国王の側近が耳にしたら発狂し兼ねない発言だ。
しかし、この二人の間では取るに足らない会話の一部でしかない。
「承知しておりますが、あまりその様な事は仰らない方が」
「今は私と貴女しかいないから大丈夫。心配なのはヘンリーよ。下手をすれば、叔父上が玉座に座るかもしれない……。そうなれば、私はヘンリーにも会わせてもらえず、王宮に軟禁されるでしょう」
「その様な事がありましょうか」
「きっとそうなるわ。バーテルバーグを名乗っても、所詮ファイファーの人間としてしか見られていないのだから……」
「おいたわしや……」
侍女は涙を流す。
「泣いている場合ではないわ。私は私の生き残る方法を考えなくては」
「そうですね……、猊下にご相談なされてはいかがですか?」
猊下とは大僧正のカルカノの事に他ならない。
しかし侍女は知らずとも、ツェリスカはカルカノの裏の顔を知っている。
慈悲深い大僧正としての外面と、ガーランドの政敵となり得る人物達を暗殺する裏面だ。
カルカノは恐らくガーランド派、ガーランドの意思を尊重する動きを見せる筈である。
となると、ツェリスカを助けるとは限らない。
「いっその事、首謀者に会ってみようからしら……」
「殿下!?」
「暗殺を企む首謀者の狙いはガーランドの命だけよ。ヘンリーや私の命まで狙っているという噂は流れていない。ならば首謀者に取り入れば、私を庇護する可能性もゼロではないわ」
太后としてヘンリーの摂政となり、実験を握る事は諦める事になる。
しかし、何よりも命が大事だ。
生きていれば、いつか
「暗殺の首謀者を洗い出しなさい。他の間者に気取られぬように」
「承知致しました」
侍女は一礼してその場を後にした。
彼女もまた、独自の情報網を持っている。
主に王宮関係者もよく利用する高級娼婦と中心とした情報網である。
この侍女は目端が効く事から、ツェリスカの父であるクレイン・ファイファー自らが娼館から引き抜いた経緯がある。
一時はクレインの妾であった事もある。
元娼婦という事もあり、王都に存在する全ての娼館に顔が効き、それと
昔から言われる事だが、娼館には情報が集まりやすい。
肌を重ねれば心を許し、何でも話しやすくなるのが男の
故に、娼館は情報収集の場でもあるのだ。
こうして王宮内では、カルカノの蛇、アブトマットの諜報部隊、ガーランドの婆や、そしてツェリスカの侍女という、四つの諜報員が暗躍する状態となる。
†
真夜中の政務部には、煌々と灯りが灯っていた。
中では二十人近い人々が動き回っている。
それを統括するのは勿論、丞相のウィンチェスターだ。
彼は既に三日寝ていない。
目の下の隈は日に日に濃くなっていく一方で、それと比例して元々細いウィンチェスターはやつれ始めていた。
「ウィンチェスター様、少しはお休みになって下さい」
書類を受け取りながら部下の一人が言う。
その言葉に他の者も頷いている。
「馬鹿な事を言わないでくれ。陛下の南部戦線視察までに、可能な限り政務を進める必要がある。短くとも半月はお戻りにならないのだ、その間に王国の
「その前にウィンチェスター様が倒れられては元も子もありませぬ!」
「どうか、一時でもお眠りに!」
「その間は我々で何とか致します!」
泣きそうな目でウィンチェスターを見つめる部下達。
何とも殊勝な者達だ。
部下達は三つのグループに分け順番に休ませている為、問題なく働けている。
「ウィンチェスター!」
政務部の扉が勢いよく開けられた。
そこに立っていたのは大蔵大臣のラハティだった。
「ラハティ殿!?」
「何をやっとるか、ウィンチェスター!お主が休まずに働いていると、部下達が休みづらいではないか!そのくらいの配慮はしてやれ!」
「なっ!?」
ラハティの言う通りである。
上司であるウィンチェスターが寝ずに働いていると、交代で休憩をとっている部下達も気が休まらない。
それでは仕事の効率が下がるだけだ。
「しかし、政務が山積しておりまして……」
「お主はもう少し部下を信用せんか!お主が全てに目を通す必要などない!重要度、優先度を考え、適切に仕事を部下に振り分けるのがお主の仕事だろうて!」
「しかし……!」
「ラハティ様の仰る通りですよ、ウィンチェスター様。一人で抱え込み過ぎです」
「もっと我々を頼って下さい!」
そうだそうだと部下達は声を上げる。
実際、この政務部で働く面子はウィンチェスター自身が一から集めたのだ。
全員仕事が早く、正確だ。
ウィンチェスターが休んでいても、それなりの速度で仕事を熟せるだけの人材が揃っているのだ。
「ほれ見よ、部下を扱き使って休むのも上司の仕事だて!」
そう言ってラハティが笑うと、部下達も全くだと言いながら笑った。
笑いながら、ラハティは政務部が良い職場である事を実感していた。
皆がウィンチェスターを心配し、支えようとしている。
ウィンチェスター自身は一心不乱に働いているだけだが、だからこそ部下達がここまで心を寄せているのだろう。
「さっさと帰るぞ、ウィンチェスター。なんちゅう顔をしておるんだ、それで審議会に出たらカルカノから薬を処方されるぞ」
「ラハティ殿……」
ラハティはウィンチェスターの首根っこを掴み、無理矢理椅子から引っぺがすと、そのまま政務部から出て行った。
「ラハティ殿!」
「よい部下達を持ったな」
「え……?」
「部下に感謝して、今は休め。お主が倒れたら、それこそ政務部が潰れるぞ」
「……はい」
「飯と酒を用意している。腹一杯食って寝ろ、良いな?」
「はい……」
まるで父親の様な乱暴なラハティの優しさに、ウィンチェスターは甘える事にした。
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