二日目②
どのような家なのかあちこちを確かめ、隣接している小さな工場も確かめた。
真新しい窯にはまだ火が入っていない。でもガラスの材料がもう仕入れてある。キルンワークをする電気炉に切子をするグラインダー、サンドブラスト機まであって感激した。
工房と言うには本当に小さい工場。でも、その設備を見て、義兄がそれだけガラスのことを知っている、学んでいることを痛感する。
本気なんだ。本当に、事業にして売り込もうとしているんだ。
やつれていたのは、やはりこの事業立ち上げで忙殺していたからだと思いたい……。
家の中をひと通り観察しおえたカナは、暮らすために必要なものを買い出しにいく。馴染みのない街のどこになにがあるかを確かめる買い物にもなった。
スーパーやドラッグストアでひとまず様々なものを揃えた。
それでも時間があったので、直ぐそばに見える『亀山』に向かった。山口サビエル記念聖堂がある小山をゆっくりと登っていく。
登り切ってそこで初めて教会を見た。大学時代に友人達と山口に来たことはあるが、なにもない街だと思ってドライブの途中の食事をしただけですぐに通り過ぎただけの想い出がある。その時にこの小高い山の緑の隙間から聖堂がちらりと見えたことは覚えている。
カリヨンの塔がすうっと天へと伸び、てっぺんに九つの鐘があった。あれがアヴェマリアを奏でるのだとカナは感動した。
そして教会の中にはいると、見事なステンドグラスの壁――。光を空かして、壁や廊下に美しい色を奏でている。ガラス職人の血が騒いだ。
カナはそれを目に焼き付けて、急いで麓の家に帰る。
リビングに戻ってきて直ぐに荷物に入れてある小さなスケッチブックとコンテを取り出して、カナはダイニングテーブルでスケッチを始める。
「キルンワークでできる、もっと手軽なもの」
色ガラスの棒を並べて幾何学模様を作る。それを電気炉に入れるとガラス棒が溶解し、熔けることで接着する。熔けた棒が一枚のガラス板になる。これなら相棒がいなくてもすぐに造り出せる。明日からでもできる。
手元に置けるような、さり気ないもの。あんなに荘厳でなくていいから、複雑でなくてもいいから。それは教会だけのものであればいい。
そのスケッチを始めると、次から次へと造りたいものが湧いてきた。夢中でスケッチをした。
『カナ』
その声でカナはふっと目を開ける。目の前に無精髭の男がいる。びっくりしてカナは飛び起きた。
あたりを見渡すと、もうリビングには灯りがついていて、カナはソファーの上にいた。
「眠っていたのか」
庭を見るともう暗くなっていた。
「やだ、わたし寝ちゃったの」
「そうみたいだな。帰っていたら真っ暗で……やっぱり、いなくなったのかと……」
義兄がバツが悪そうにカナから目を逸らし、手持ち無沙汰な様子で藍色のネクタイを緩めている。
だがその彼が、ソファーの下に落ちているスケッチブックを見つけた。
「これをやっていたのか」
「教会を見てきて、急に……」
義兄がしかめ面で、スケッチブックを眺めている。ページをめくって描いたものを黙って全部見てくれた。
そうしたら最後。彼がふと笑ってくれる。
「いいじゃないか」
あんなに厳つい顔で近寄り難くもあったのに、急にぱっと笑顔に輝いた顔を見せてくれる。
「特にこの、ステンドグラス風の箱形スタンドライト」
カナがよく知っているお兄さんの笑顔でつい釘付けになる。
「すぐに造ってみてくれ。そうだな、まず三つ。柄違いを造って俺に見せてくれ。それとこのクリアなガラスに、青い
「はい……、わかりました」
もう社長の顔だったけれど、満足したかのような笑みをずっと口の端に残してくれている。
義兄はそのまま、リビングを見渡している。
「もしかして……、じゃなくても、夕飯の準備はできなかったみたいだな」
カナも我に返る。慌てて寝そべっていたソファーから立ち上がった。
「ご、ごめんなさい」
それでも耀平兄が、いつかのお兄さんの笑顔で優しくカナを見た。
「カナも疲れていたんだろう。まあ、いいだろう。兄さんもこの街に来て食べてみたい店をいくつか見つけているから、今日は外で食べよう」
その笑顔になるとお兄さんで。厳つい顔だとカナを奪う険しい男になって。やはり兄は変わってしまった……。
その日は耀平兄が見つけた店で夕食をした。
「家事なんてあまりやってこなかっただろう。そこはわかっているから。俺が来るからと食事の準備を気遣わなくていい。職人の仕事と創作に専念してくれ。そちらが優先だ。この会社、潰すわけにはいかないんでね」
食事中にもそう言われる。
「家事が手に余るなら、ハウスキーパーを雇うことも念頭に入れている。まずはカナのペースで暮らしてみてくれ。その様子から判断する」
カナもわかったと答えておいた。
あの笑顔はまだ戻ったものではないのかな。
カナは静かに彼の隣にいて、気にすることしかできない。
この一年ほど。義兄はなにを苦しんでいたのだろう。姉が夜中に飛び出していったことを気が付かず逝かせてしまったこと。余程に思い詰めてしまったのだろうか。
起業でやつれただけだと思いたい。初めての起業なのだから、それは精神をすり減らしたことだろう。融資もかなりしてもらったはず。まだ気が抜けないことだろう。
それならカナは、ガラス職人として彼を助けなくてはならない。自分にはそれしかできない。
カリヨンの鐘は、二十一時まで。
義兄さんに捕まってから二日目が終わる。
その夜も、耀平兄はカナが眠る部屋にやってきて、きつく言い渡す。
カナしかいない。これからはカナだけだ。
だから――。
「カナ……、他の男は許さない。わかったな」
力無く、カナは頷いた。きっと義兄は『俺が勝手にものにした』から、無理矢理に自分と暮らすようにそばに置いた女は簡単に離れていくと思っているのだろう。
なにも知らないものね、義兄さんは。わたしが、いままで手に入れたくて入らなくて、ずっとずっと堪えていたものは『アナタ』だって知らないんだから。
いままでの一瞬だけの男達の方が望まない男達だったのに。ヒロと別れてから後は、男に夢中になれなかった。どれも直ぐに終わったか、通りすがりの関係。
カナも、義兄を少しだけ受け入れた夜。
彼が眠る前に呟いた。
「もうカナにに嫌われる覚悟だった。そうしたら、倉重を追い出されるかもしれない。それでもいいかって」
やっと耀平兄さんに戻ってくれたような微笑みと語り口だった。
「追い出されて、どうするつもりだったの」
「倉重のことは忘れて、宮本に戻ればいいと」
「航は?」
「仙崎で『いつか倉重の跡取りになるように』育て上げればいいと思っていた」
「本気で? そんなに倉重を出たいなら、まだ間に合うよ」
そこで義兄は空をみたまま、緩く微笑んだだけ。でも今夜は力なく、隣にいるカナの手首を探して掴んでいた。
「またカナと暮らせると思っていたよ。俺達は一度は一緒に暮らしてきたんだから」
そして今度は、二人だけの生活になる。
またそこで、義兄の顔が硬くなる。険しい眼差しになる。
「カナ。俺と航とまた一緒に過ごすんだ」
手首をぎゅっと握られる。その為に? まさか義兄さんは賭けていた? カナを捕まえられなかったら倉重を出て行こうと?
「ガラス工房を作ったのに、出て行くつもりだったの」
「それは別。宮本になっても、やり遂げるつもりだったから」
「そうなんだ」
そこでまた義兄が『カナちゃんのお兄さん』の顔になった。
「俺は航のためになにがあっても倉重にいるよ」
彼の目がずうっと遠くを見つめた。そこにカナは見えていないようだった。でも手は握ったまま。
そしてカナはそんな義兄の胸元にそっと手を置いた。
「お兄さん、痩せたね。どうしたの」
「ああ、起業で忙しかったからな……」
それならいいんだけれど――。
「カナは? どうする」
初めて真っ直ぐ問われ、カナは戸惑った。でも、カナはそんな義兄からそっぽを向く。
「わからない。勝手すぎるんだもん」
でも、とカナは兄を見下ろした。
「でも、ステンドグラスのライトだけは造るから」
すると、耀平兄がどこかおかしそうに笑い出す。
「そっか。じゃあ、ステンドグラスのライトが出来上がったら、その後はどうするのかまた話し合おう」
カナの素直じゃない天の邪鬼な言い方に、大人のお兄さんは余裕で合わせてくれていた。
彼に腕をひかれて、カナは義兄と寄り添って眠ることになってしまった。
長い腕がカナのカラダを抱き寄せて離してくれない。いつまでも黒髪を撫でてくれていた。
カナも仕方がない顔をして、でも、初めて……。義兄さんの胸に頬を寄せて眠ろうとしていた。
きっとこれから、彼が来るたびにこうして求められるのだろう。
カナ、どこにいる。カナ。
翌朝。遠くからそんな声が聞こえていたが、カナはもう工場で色ガラスを揃えて集中しているところだった。
寸法を決めて、色ガラス棒を切って、並べて幾何学模様を作っている。
「カナ。ここだったのか」
やっと捜し当てた義兄は息を切らしていた。
「今日から造りますね、社長」
義兄が驚いた顔をした。
「あ、ああ。頼む」
もうカナはこの工房の職人だった。そして義兄は社長。
「豊浦に帰るの、義兄さん」
「うん……。一人で大丈夫か」
「小樽でも一人だったよ」
「そうだった。なにかあったら俺に連絡を」
頷いて、カナは義兄に微笑んだ。
「航に言っておいて。会えるのを楽しみにしているって……」
それはカナがこの家にいるという返事でもあった。義兄の顔がちょっと泣きそうに崩れた気がした。
「そうか、そっか。うん、喜ぶと思う。というか、はしゃいでたいへんなことになりそうだな。今夜、帰ったら言っておく」
では、行ってくる。黒いスーツ姿で険しいビジネスマンになった義兄の顔が引き締まった。
なのにガラス棒を並べているカナを暫くじっと見下ろしている。カナが訝しそうに首を傾げると――。彼の顔が急に近づいてきた。
「に、にいさ……?」
頭の後ろにお義兄さんの大きな手。それがカナの頭をぐっと引き寄せ、彼にくちびるを重ねられた。ぞりっと髭がこすりながら、でもちゅっと強く吸われている……。
「じゃあな。行ってくる」
「は、はい……。いってらっしゃい」
おまけに頭を大きな手で撫でられていた。
笑顔で彼がでかけていく――。その笑顔が、『カナちゃん』と呼んでくれていた耀平兄さんの爽やかな微笑みだった。
それでも、車に乗ろうとしている姿はもう、キリキリと機敏な冷たいビジネスマンに整えられていた。これが今の義兄の姿。
もう二度とカナちゃんと呼んでくれないだろう。でも、あの笑顔をたまに見せてくれるなら……。これからはその微笑みが『カナちゃん』と呼んでくれた代わりになると思った。
二日目、三日目。
カナは倉重耀平の女になって。倉重ガラス工房の職人になった。
腹立たしさは残っているけれど、カナもここでいきていく。
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