花は蝶とたわむれる《花はひとりでいきてゆく 番外編集》
市來 茉莉
【1】二日目(カナ視点)
二日目①
雪がちらつく冬の小樽。
凍った空気の中、厳つい男に変貌した義兄がカナを連れ戻しにやってきた。
抵抗したが、カナは山口に帰ってきてしまった。
本当に厭だったら、嫌いだったのなら、飛行機に乗る前に逃げ出すことなど簡単だったはず。
なのにカナはいま裸のまま、『義兄さん』と並んで目が覚めたところ。
無理矢理だった。ここに連れてこられるのも、裸にされてカラダを乱暴に愛されたのも。
『帰るんだ、俺と』
『ここで暮らすんだ。俺と』
思い詰めたような怖い顔で威圧してきた義兄さん。
『イヤ』と抵抗した。小樽のガラス工房の事務所、親方の目の前でも必死の抵抗をした。腕を放してくれない義兄と真向かって、兄妹喧嘩のようにして言い合った。なのに親方が、義兄の味方をしてしまった。
その親方が『一度、帰るだけ帰ってみたらいい。実家の意向だったなら、俺でも介入できないよ。どうしても嫌だったら、上手くいかなかったらここに帰っておいで。いつでも待っているから』。そう言ってくれたから、ひとまず山口に帰ることにした。
だけど、カナにも思うところがあった。抵抗はしたけれど、久しぶりに会う耀平兄さんを見て、カナは案じていることがある。
親方も気が付いていた。
『倉重のお義兄さん。ここ一年でだいぶ様変わりしたと思わないか。実家で、なにかあったんじゃないだろうか』と。
雪の小樽まで迎えに来た義兄は変わり果てていた。帰省した時も、彼の様子がいままでと異なることは感じていたが、久しぶりに会った義兄はそれまでのお兄さんではなくなっていた。
爽やかな青年実業家の風貌だった義兄が、厳つい影のある男になっていた。
それまでは『カナちゃん』と呼んでくれる清々しいお兄さんだったのに。頬が痩せこけ、それを誤魔化すためか一度もしたことがない『無精髭スタイル』の顔になっている。スポーツマンらしい引き締まった肉体を思わす体型でスーツ姿も精悍だったのに、どことなくそのスーツがハリを無くし身体より大きめに感じ痩せてみえた。
親方まで義兄を見てそう感じるのだから、実家でなにかあったのかもしれないとカナも思わずにいられなかった。
抵抗したカナだったが、彼が準備した飛行機に大人しく乗って、彼と一緒に山口まで帰ってきたのは、そんな想いがあってのことだった。
ただ。いきなり女として求められるとは予想外だった。
それだけはと抵抗したのに。痩せた義兄でも、やはり力は男。
でもカナも否めないものがある。
抵抗はしたけれど……。
夢に描いていたようなものではなかったけれど。
義兄さんの唇があちこちを甘く愛してくれるから、最後は抗えなかった。
だから、義兄さんはズルイ。
カナの気持ちなんてなにも知らないくせに。義兄さんが好きだって知らないくせに。決して義兄さんには、わたしの気持ちは教えないと決めているのに。
なのに、甘やかな夜の淵に誘い込んで、わたしのカラダを食んで。わたしの恋心を知らないくせに、こっそり味わった男。
大事にしていた清い恋心は粉々になった。大人のしがらみが絡みついて、もうその心は今までのようにいられなくなった。
カナは倉重耀平の女になった。
―◆・◆・◆・◆・◆―
とても美しい賛美歌のようなメロディが聞こえる。
鐘の音。
気怠くシーツに素肌を横たえていたカナは、おもむろに起きあがり、ベッドルームの窓を少しだけ開けてみる。
朝の柔らかい光の中、生の音が風と一緒にカナのところまで流れてくる。
幾重もの和音が奏でる『アヴェマリア』が、西の京に響き渡っている。
すぐそばにある緑の小高い山、その山頂にあるサビエル聖堂から聞こえてくるようだった。
これからこの音を聞いて、朝を迎えるのだろうか。だとしたら、それは素敵なことだと、初めて連れてこられた見知らぬ家にときめきを覚えた。
朝の報せなのに。素肌で隣にいる彼は、その鐘を合図のようにして眠ってしまった。
一晩中、彼は起きていた。まるでカナを逃がさないかのようにして、何度も抱いて。義妹がまた黙って出て行かないかと案じていたのか、微睡みからカナが目覚めても義兄は起きていた。
その時、彼はジッとひとりでなにかを考えているようだった。やつれた横顔には、憂いしか感じられない。
あの爽やかで『これぞ、お兄さん』と言いたくなるような義兄はどこにいってしまったのだろう。
彼に話しかけられず、カナも黙って彼の隣で寝そべっていただけ――。
その彼がやっと眠った。その時になって、カナはそっと静かにベッドを降りることができた。
見つけたシャワールームで湯を浴びて、リビングでひと息ついた。
また、鐘の音が聞こえてきた。でも今度は鐘の音はひとつだけ。十五分おきに刻を報せてくれる。
すうっと目を閉じて、鐘の余韻を堪能する。この家に入ってくる日射しも穏やかで柔らかい。とても静か。
「カリヨンの鐘だ」
義兄の声が急に聞こえ、カナは驚いて振り返った。
シャツとスラックスだけという砕けた姿で、彼も寝室からリビングに現れた。
昨夜、初めて肌を合わせた男と女……。だからなのか、途端にカナは彼の顔が見られないし、義兄も気まずいのか黙り込んでしまった。
でもカナから、それとなく話してみる。
「知らなかった。サビエル聖堂の鐘がこんなに綺麗だったなんて。朝の始まりの鐘、素敵だった」
「普段は時報ひと突きのみで、朝の七時、正午、十八時の鐘はアヴェマリアを奏でる。これからはこの鐘が朝の始まりを感じさせてくれるだろう」
教会がある小山の麓の住宅地に、義兄が準備した家がある。
これからカナはこの家に住む。アヴェマリアの鐘は日常になるだろう。義兄さんはもうカナがここにずっといると決めつけている。
カナはまだその気にはなっていない。勝手に連れてこられて、勝手に決めて……。
白いシャツのボタンを胸元まで開けて、ざっくりと着ているだけの義兄は、疲れたような溜め息をついて、ダイニングの椅子に座り込んだ。
「疲れたな……。だが、でかけなくては」
小樽まで迎えに来て、また山口に義妹を連れて帰ってきて、その上、夜遅くまでカナのカラダを抱き続けたのだから、それは中年のお兄さんはお疲れだろうとカナは黙って彼を見つめるだけ。
「用事があるから、俺はシャワーを浴びて着替えたらでかける。カナは、今日はゆっくり休んでいたらいい」
そう言いながら、義兄がダイニングテーブルの上に幾つかの鍵を置いた。
「この家の鍵、それと工場の鍵だ。窯も材料も道具も揃えている。確認しておいてくれ」
「本当に、どうしてガラス工房なんて作ってしまったの」
なんの話も聞いていない。昨日、小樽に久しぶりに来たかと思ったら、いきなり『帰ってこい。ガラス工房を開く。倉重家の新しい事業だから、娘のおまえが貢献するんだ』と告げられた。本当にいきなりだった。
だが義兄は疲れた横顔でも、答えてくれる。
「昨夜も話しただろう」
「そうだけど――」
その時のことをカナは思い返す。
昨夜、小樽からこの家に連れてこられた頃には夜になっていた。そこでもカナは始終不機嫌にして、でも、今こそ義兄の真意を問いただそうと真向かった。
『わたしは言うとおりに山口に来たよ。どうしていきなり工房なんて作ったの。報せてくれなかったの。わたしの立場も考えてくれなかったの』
義兄もカナに向かい合って、閉ざしていた口をやっと開く。
『今度は造り出すことをやってみたい。だが俺は職人の素質はない。だから職人を雇って、俺は経営をする。倉重のお義父さんが、そろそろおまえだけの事業を立ち上げてみろと言ってくれたから、この経営を選んだ』
穏やかさを潜めてしまった厳つい顔が、こんな時だけ仕事の目つきでカナを見る。
『本店は萩にある。そこの工房はもう稼働している。職人は他にも雇っている。いままで懇意にしてくれた職人にだいぶ前から話はつけていた。勘違いするなよ。義妹がガラスをやっていたから、妹のために立ち上げた訳じゃない。その前から俺がやってみたかっただけだ』
『だったら。他の職人と同じような環境におかせて。こんなわたしだけの、家に工房なんておかしいじゃない』
カナも再び抗議をした。いきなり連れてこられたことは、どうしても納得できなかったから。
しかし義兄は揺るがない想いと決意を持っていた。
『カナ以上のセンスがあるやつを見つけたら、速攻、この家に住まわせて工場も専属で使わせる。その時は出て行ってもらう。いいな。死ぬ気で創作しろ』
カナの意志も無視して連れてきたくせに、随分と厳しいことを突きつけてくれる
そのまま彼に突然、『抱いてもいいか』、『おまえを抱く』と迫られ、強引に抱きつかれた。
そんな、なにもかもが無理矢理の夜。
まばゆい朝の光が降りそそいでいるのに、カナと耀平兄は黙ったまま一緒にいるだけ。
また十五分毎の鐘がひとつ鳴った。
「ガラス工房を経営することは、承知しました。倉重の事業です。娘のわたしもできる限りのことをします。やる以上はガラス職人としてしっかりやらせていただきます。でも……萩の工房の職人さん達は、わたしは倉重の娘だから手厚くしてもらっていると思うでしょうね」
「そう思うなら、思われないものを造るんだな」
また、シビアなことを言う。でもそれにも、カナは納得してしまう。萩の職人に認めてもらうにはそれしかないだろう。
「萩の親方にした職人はカナよりもずっと経験があるベテランだ。商品を造る力がある。生産性という目で見れば、親方はうちの工房のエースと言えるだろう。だが……。創造性の点から言うと、カナの方が伸びしろがあると社長として判断しただけだ。つまりここは生産性より、工房の特性を生み出してくれる創作品を集中して作る場として設けた」
おまえの為じゃない。おまえを囲うための家じゃない。義兄さんはそう言っている。
萩の工房との区別する為の目的も本当なのだろう。でも、やはりここは義兄がカナを連れ帰るためであるのも本当なのだろうともカナは感じている。
「わかりました。萩の製品とは別の特性を持った商品を作ってみます」
「そうだ。幾ら創作といっても『商品』だ。そこは忘れないで欲しい」
「小樽で嫌と言うほど、その差を味わいました。これからも心得ておきます」
「そうか」
そこで、やっと義兄さんが安心したのかふっと笑ってくれた。そこにカナがよく知っている耀平兄さんの柔らかさが戻っていた。
今度はカナが密かにほっとする。義兄さん、笑顔を忘れていなかった。よかった……と。
「コーヒーとか淹れられる? 道具とかないの」
「いちおう、エスプレッソマシンは買っておいたが、豆はまだだ」
「冷蔵庫もなにもなかったじゃない。もう、今日、買いに行ってきます」
そういうと、義兄が昨夜帰ってきて直ぐにソファーに脱ぎ捨てたジャケットを取りに行った。黒いジャケットの内ポケットから、彼がウォレットを取りだす。
「これで、暮らすのに必要なものを揃えておいてくれ」
無理矢理、数枚の一万円札を握らされた。
「わたし、幾分か持っているから」
「ここは俺の家だ。今夜もここに帰ってくる。なにか食わせてくれ」
まるで愛人……。そんな抵抗感。でも、わたし達は兄妹でもある。そしてこれからは、社長と従業員になる。複雑すぎた。
「カナ。工房では職人でも、家の中では家族でいてくれないか」
カナはなにも答えられなかった。この人の為に、遠い小樽に行ったのに。この人と甥っ子が、二人で幸せになってくれるなら、義兄の再婚も受け入れようと思って出て行ったのに。あなたを大好きという恋心を殺して……。
「言っただろう。俺は他の女のことなど、これっぽっちも考えていない。カナだけだ」
義兄の手がカナの頬に触れ、ドキリとする。そしてカナは動けなくなってしまう……。だって、ずっと好きだった人が、昨夜から当たり前のようにしてわたしに触れる。
そうして耀平兄は、カナの耳元にキスをする。もう、それだけで胸が張り裂けそうで。昨夜、愛してくれたことも嘘じゃなくて本当の出来事で。またカラダが甘く疼いて、思い出す。
最初は絶対にダメだと心に決めたことを貫き通そうと、今なら引き返せると必死だったけれど、最後はダメだった。望んだ男に抱かれる甘美に、カナは溺れていた。許していた。
「行ってくる。ここで待っていてくれ」
自分がいない間に、無理矢理連れてきたから逃げてしまうのではと不安そうな声色だった。
黒い目は、カナがよく知っている『お兄さん』のままだった。憂いを含んでいても、実直な彼の目のまま。
「工場を見せてもらうね。すぐに制作できるよう準備する」
カナも義妹の声で答えていた。
なんとなく……。いま義兄さんと一緒にいた方がいいような気がしてきた。
やつれてしまったお義兄さん。姉のことで思い悩むことが続いたのだろうか。激務で精を尽くしてしまったのか。または子育てで疲れているのか。カナが置いていった彼は、思わぬ男になってしまっている。
ひとまず、雇われた職人としてここにいることにしよう。
その決意のために、今度はカナから『社長』に要求をする。
「ここで働くなら、相棒が要るの。大学で一緒だった徳永君、ヒロにお願いしたい」
ガラスには技巧によっては二人でやらねばならないことが多々ある。ひとりでは絶対に無理だった。それは義兄も知っているはず。
すると義兄はカナを見つめたまま黙っていた。
ヒロは『初めての男で、元カレ』でもあった。姉が生きていた頃つきあっていたし家族にも紹介をしたし、ヒロも彼氏として実家に遊びに来たこともある。当然、姉の夫だった耀平兄にも紹介をしたから、彼もヒロのことは知っている。
俺とこれからここで男と女の生活も始めるのに。元カレを呼んでこいとは何事か。そう思っているのだろうか。でもカナも試したわけではない。
「いままで組んだ職人の中で、彼がいちばんしっくりした職人だから。彼しか考えられない。彼もわたしの感覚をよく知ってくれているから」
「そうか」
嫌な顔は見せず義兄は平坦な顔で答えると、またソファーに置いてあるアタッシュケースへと向かっていった。そこから封書をひとつ出してカナのところまで持ってくる。
「そう言うと思って、彼がいまどこでなにをしているか調べておいた。彼も細々だが、アルバイトをしながら講師の手伝いをして工芸を続けている。来週までにスカウトしておく」
手際の良い義兄の仕事ぶりに、カナは唖然とするしかなかった。やはりこの人は、父が見込んだビジネスマンだった。そして義兄さんの本気を見てしまった。
その義兄が本気で工芸ビジネスに取り組む。職人にはなれないから、職人の代わりに経営をする。それは経営は専門外で、または制作に没頭したい職人には強い味方だった。
この人と、これから一緒になにかを造っていく――。
まともに愛しあうことなど、これからもできないだろう。特にカナは、このような状況になってしまっても、最後の最後、この人に心は見せまいと誓っている。
この人が知ってはいけない秘密がある。それを隠し続けて行かなくてはならない。その覚悟も――。
義兄がいつもの颯爽とした黒スーツのビジネスマン姿になって、この家からでかけていった。
彼とこの家で暮らす。その二日目。まだ釈然としない。
カナを無理矢理に自分の女にしようと、決してきた義兄の気持ちがわからない。
姉がいなくなってしまったから、今度は妹を自分のものにして、倉重での地位を固めようとしているのだろうか。そうとも思えてしまって、素直になれない。
もちろん、これからも素直になる気はない。
秘密を守るために、決して、あの人とは添い遂げてはいけない。
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