花、匂うまえ③
倉重の両親と賑やかな夕食を囲んだ。
夜も更け、いつものベッドルームで、ようやく耀平もひといき。
寝転がって、雑誌を眺めている。
妻のカナが一番最後の風呂に入っているところ。
ふたりきりだった頃は、大胆な薄着になってベッドルームに戻ってきていたカナだったが、いまは高校生の航が同居していることも、本日は両親もいるとあってきちんとラフな部屋着のワンピースを着てベッドルームに戻ってきた。
「千花、眠っているね」
前ならすぐに耀平のところへ来ていたのに。いまはベビーベッドに寝かせている娘を気にするように。
しかもそこにある椅子に座って、しばらく娘のおでこを撫でたり、ちいさな手を握ったりして、カナとは思えないような微笑みでいつまでもにこにこにこにこ眺めている。
ほんとうに、あの義妹か――と、元お兄さんは少しばっかり眉をひそめてしまう光景。
おまえ、そんなに素直ににこにこできるなら、どうして男にそれをしない。どんな男もそれなら……と思った耀平だったが、『違うか』と密かに首を振る。
あの澄ました顔、なにを考えているかわからない女の顔、絶対に男に媚びないなびかない空気をまとった難攻不落の顔。それに男はそそられる。密やかに、僅かに微笑んでくれるから、それが麻薬のようになる。それを存分に味わってきたのは夫になった耀平だった。
「きっとまた夜中に起きるね。それまで眠っておこうっと」
水色のチェックのベビー服ですやすや眠っている千花にちゅっと愛おしそうなキスをするママの顔。
それを見ていた耀平の方が、いつのまにかにっこり微笑んでしまっている。そして、そのままそっといつものお兄さんの顔に戻しておく。
いつもどおりにカナが隣に寝ころんだ。耀平はまだもう少し雑誌を読みたく、枕に雑誌を置いて寝そべったままの読書を続ける。
「ねえ、眠くないの」
「ん? 灯りが気になるのか。この記事を読んだら消すからあと少し」
「そうじゃなくて……」
カナから耀平にくっついてくる。
「今夜はだめだからな。お父さんとお母さんがいるだろ」
「航がいても、いまは平気でするよ」
「それは……。もう、日常になったからだろう」
「わたしにはお父さんとお母さんがそばにいるのは普通のことだよ」
つまり。婿養子のお兄さんが気にするのを、わざとこの義妹は楽しんでいるわけだった。
溜め息だけついて、耀平は無視した。なのに、カナが間接照明のスイッチを切ってしまう。急に部屋が暗くなり、耀平は読書も続けられなくなる。
しかも。妻になった義妹から、今夜は大胆に耀平にまたがってきた。
「カナ……、」
女をのっけている状態の耀平は、下からその女の迫力に既に気圧されていた。ものすごい妖艶な気を放つ女が、どっしりと重くのしかかっている感触。
漂う彼女の匂いに負けて、おもわず、男の大きな手が下から女の肌を掴んでいた。
カナの目が、にっこりと緩んだ。娘に微笑む優美さとは異なる、そう、耀平が先ほど一人で思っていた『密やかな微笑み』だった。しかも男に勝ち誇った女の笑み。
ほら。欲しくなったでしょう。我慢できないでしょう。いっしょにたのしんでよ。
いつもこの義妹はそう。男を妙な手で引き寄せる。そして……、耀平はいつもそれに乗ってしまう。虜になってしまう。
「兄さんのせいじゃないの。わたしなの。抱いてよ、今夜はずっとそんな気分だったんだから……。がまんしていたんだから……。わたしのせい、わたしが誘っているの」
兄さんはなにもしなくていい。ただ、わたしに抱かせて。なんて、こんな義妹の誘惑に耀平も敵うはずもない。
「どうした。なにかあったのか」
またがっているカナのまろやかな腰を下から上へとそっと撫で上げる。熱い手が自分の肌から離れないのを見て、カナが満足そうに微笑む。
「嫉妬しているの」
「……おまえが?」
「そうよ。社長が、お兄さんが、彼のガラスを見る目に。いつか、きっと、……わたしのガラスを見るような目で、彼のガラスを見るんだって」
「俺とおまえの時間に、関係ないだろ」
あるよ! とカナの目が鋭く耀平を射ぬく。
「ガラスを造る女を妻にしたんだから。わかってよ」
並々ならぬ気迫の目。でも、耀平はすでにそんな鬼気迫る女の目に吸い込まれていた。そんな女に従うのも悪くはない。こんな女にこれほどに求められるのも気分はいい。
「わかるでしょ。兄さん。わたしがこんなになるのはどうしてか」
わかる。自分ではないガラス職人に感化されたのはカナもおなじ。
島崎がどんなにうまく造れなくても、カナも感じている。
この先、彼がどうなるかと。そうなるとカナもまた『なにかが湧き上がって造りたくなる』のだろう。
カナはその前に、いつも混沌とした人間の感情を削ぎ落とそうとする。ガラスの核を探している。
カナの好きにさせた。願いどおりに、女が男を絡め取るような夜――。
カナはここで、燃焼させている。ガラスではなくここで。
「藤の、匂いがする……」
目をつむってなにかを探している義妹の顔を、耀平も黙って見上げている。男を下に従えて、彼女は『花の匂い』を追っている。
耀平はそのままカナになにもかもを委ねる。彼女の好きにさせ、愛してもらう。
そして、耀平はそんなカナを愛している。男を喰うような妻を……。
きっと明日、カナはガラスを吹く。いつもとは違うものが生まれるのだろう。
―◆・◆・◆・◆・◆―
初夏の風が吹く。緑の匂いがする。
黒いジャケットの裾が翻る。風が入って幾分か涼しい工房の入口で、耀平はそれをじっと見つめていた。
「なんのつもりですか、花南さん」
「黙ってみていて」
130センチのステンレス製の吹き竿を手にしたカナが、溶解炉へと向かう。後輩の島崎を伴って。
「昨日のやつ、今日はわたしが造るから」
「どうしてですか。俺の作品を横取りするつもりですか」
「うぬぼれないでよ。うまく造れないくせに」
カナの男を蹴落とす時の眼差しには迫力がある。
島崎は黙ったが屈辱的な目になって燃えさかっている。カナの言い方も酷いため、それでは納得しないだろうと耀平は密かに呆れた溜め息をついた。
それでも耀平はひたすら離れたところから見守っている。
そこへ、事情は把握しているだろう親方のヒロが来た。
「昨日の島崎の作品を、カナが造るそうです。許可しました」
「うん、いいんじゃないか。俺も、カナは今日なにかをやると思っていたよ」
さすがですね――と、ヒロが笑う。だがそこからはヒロも耀平共にじっと見守るだけ。
そして溶解炉にカナの吹き竿が差し込まれる。
「わたしが造ってあげる。島崎君の作品がどれだけ美しいものか再現してあげる」
いまは技術が伴わない男に、女の先輩が横取りするように造ってあげるとぞんざいな行為だが……。
「島崎君にどれだけの創造性があるか証明してあげる。頭に描いているものを指示して。できあがったものがイメージどおりになるよう造ってあげる。だから……、技術を磨いて、はやく思い通りに造れるようになりなよ」
創作への思いが先立つ島崎に、技術の大事さを感じさせるためのもののようだった。
昨日。カナが耀平の身体の上で削ぎ落としたものは……。
嫉妬や、羨望や、焦り。そして、美しいガラスが生まれるなら、それは誰であっても賞賛したい。そういう思いを削ぎ落として、今日は『匂う花』に向かっている。
島崎もひとまず理解したのか。昨日、カナに告げていただろう『計画していた制作方法』を素直に説明している様子が見て取れた。
「わかった。それでやるね」
「自分がアシストをします」
ふたりの意志も固まったようだった。
差し込まれていた吹き竿に、とろけている橙色の熱いガラス。
カナが、吹き竿を構える。いつもの下玉作り、息を吹き込む姿。
「色ガラスを揃えます」
今日は島崎がアシスタントとして動く。昨日はカナに頼んでいた色ガラス棒を棚から取り出す。今日は他の色も取りそろえて。
カナに頼んでいたように、島崎も金槌で色ガラス棒の尖端を割り、小さな破片を準備する。
吹き竿で、下玉から上玉を作り終えたカナが、透明なガラス玉に紫の破片を付けた。
「自分が焼き戻しします」
「お願い」
助手の島崎が吹き竿を手にし、焼き戻し炉に。昨日と逆の作業をする二人。
次だ。昨日、島崎が失敗したところ。
だが耀平にはもう見えている。カナの姿が――。
焼き戻し炉から取り出された上玉をつけた吹き竿。それがカナに返される。
カナが竿を持つ。いよいよ始まる――。
紫の破片が透明なガラスと溶けあっている状態。その紫の欠片が、藤の花としてイメージされているのだろう。
カナが竿を構え、息を吹き込む。
細やかな竿の回転、ガラス玉を見据えて吹き込まれる息。ふくらみを見極め、竿の回転を細かに戻したり進めたり。竿の先のガラス玉は、美しい球体を保っている。
これぞ、職人の技。おなじガラスでも色によって温度差が生じふくらみが異なるため、そこを見極めて成形する。息と竿の回転のみで。
島崎も目を見開き、固唾を呑んでいる。その目が徐々に悔しさを滲ませ、最後は観念したようにしてうつむいた。
「花南さん、わかりました。……俺の未熟さがなにであるのか……」
だがまだ制作中のカナはひと言も発せず。そのまま彼女らしい勇ましい姿で吹き竿を手に、後輩の青年を圧倒させる凛々しさ。
「どんな作品になるか楽しみだな」
「カナが吹いたものではありますが、島崎の感性を垣間見るものになるのですよ?」
ヒロが笑った。彼もとっくに耀平の心情を見抜いている。
それはカナの感性ではなくとも。そう、カナは昨日、全てを削ぎ落とし、あの男のために透明になっていたんだ。
嫉妬なんて。俺の方がしている。そうしてガラスのために、他の男を憑依させるために。俺を使って、またおまえは真っ白になっていたんだな――と。
数日後、島崎が発案しカナが吹いたものが冷却炉から出された。
藤の花を思わせる柄を取り入れた飾り皿の美しさに、耀平は目を瞠った。
藤色のモチーフと、渋めの
まるで水滴が落ちた池の水面に映る藤の花――。
「島崎はこのような作品を造ろうとしていたのか。これは、金子の女将が好みそうな品の良さだな」
売りたい。そう思った。だが……。工房の作業台でその皿を品定めしていた耀平は、残念な思いでカナを見た。
「社長。これは売り物ではありませんよ。これは……将来の島崎君。いまは存在せぬ物です」
妻でも義妹でもない。職人の顔で言われる。カナはすぐさまその皿を『割ってもいいよ』と島崎に手渡した。
カナの隣にいる島崎も、もう納得済みの顔。
「これ以上のものができるまで目標として手元にいただきます。親方にもいわれました。まだスタンダードな製品を安定して作る段階だと」
「そうだな。……花南もヒロもそうだった。俺が工房を開くまで、それぞれの工房や制作先で創作をしたいと思いながらも、規定に沿った商品をまず作っていた」
「自分もそうします」
きっと彼は育つ。カナもそう思ったから、憑依をしてみたのだろう。
「あ、花の匂い」
またカナが唐突に。だが島崎も『ほんとうだ』と工房先へと向かっていく。それどころか、耀平の鼻先にも……。
「ほんとうだな。藤の花の匂いがするな」
耀平もカナと一緒に、島崎の後へと工房口へと立った。
向かいの家の藤棚に、ほんとうに藤が咲いていた。
「わあ、本当に咲いている」
カナの嬉しそうな顔。島崎も和んだ笑みを浮かべている。そう彼等は匂いどりも、季節にも敏感なんだ。
でも。今年も待っていた藤の花が咲いても……。耀平は妙な気分にさせられている。
『花は癒しだと思っていたのに。最近、どの季節の花もエロティックに見えてしまって困る』
暗闇に、男にまたがる花の匂いが、まだまとわりついている。
そんな花から生まれた娘がそうなったらどうしようと思う父心に苛む、花の季節。
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