花、匂うまえ②
【 カナちゃん、いつもどおりです 】
航からも『特に変化なし』というメッセージが届いていた。
それから二日、耀平が山口の家に帰宅する日が来ても、平穏そのもの。耀平の仕事も滞りなく終えることができた。
やっと帰宅。娘に会える、息子とあれとこれを話して、そしてカナの手料理も食べることができると、耀平は山口へ向かう。山陰の金春色の海沿いを走り、心躍らせている。
失ったはずの『ありきたりの家庭』がやっと手に入ったと思っている。そのうえ、この歳になって娘が生まれるだなんて。息子もしっかり者の長男になりつつあり頼もしい。義妹のカナも母親らしくなってきて……。
「いや、まだ妹みたいなもんだな」
妻であってほしいと思いながらも、どこかで妹ではなくなるのも寂しく思っている自分を知ると、耀平は驚いてしまう。結婚してから気がついたことでもあった。
爽やかな潮騒の風景が途切れ、山口へ向かうほどに緑に包まれていく。
カナが好きなシャクヤクがいま花盛り。初夏の花へと季節が移ろうとしている。
もうすぐ山口市内。そこで耀平は少し気合いを入れた。
「あの不機嫌な声はなんだったんだ」
彼女と一緒に留守をしている者達が『なにも変わりはない』と伝えてくれているのに、耀平は夫として義兄として、どうも安心できない。なにか予感がある。
緑燃ゆる小山からサビエル聖堂が見え、麓の住宅地にある自宅が見えてきた。緑の垣根の家、その隣は蜃気楼のような熱気が外まで流れ揺らめく工房。
愛車のレクサスから降り、耀平は自宅ではなく、工房へと足を向けた。
今日も山口工房の職人数名が、ガラス製品を淡々と製造している。その中には、生活用品を作らせるなら第一人者となってきた親方のヒロもいる。弟子となる若い青年達がガラスを吹く姿を厳しく見つめているところ。
そこで耀平は思わぬ光景を見つけてしまい、あまりの驚きに工房には入れなくなった。
「お、お義父さん?」
ガラス工房に、凛々しい老紳士がいる。ライトグレーのスーツの後ろ姿だったが、その品の良さもあって一目で義父の雅晴だとわかった。
義父が熱気揺らめく工房なのに、涼しげな眼差しで見つめているのは、ガラスを造っている職人姿の娘とその助手である青年の島崎二人の作業。
親方のヒロが工房社長である耀平の帰宅に気がついて、急いで入口まで来てくれた。
「社長、お帰りなさいませ」
「ヒロ、うちの義父はいつからここに」
「今日の昼過ぎでしょうか。豊浦の大奥様と一緒に来られましたよ。なんでもカナがお母さんに『助けてほしい』と連絡をしたようで」
「助けてほしい……? 一昨日のカナからの連絡はそのことだったのか。ヒロも航もカナはいつもどおりだとの連絡だったし、昨日もなんの連絡もなかったから安心していたのだが」
するとヒロが困惑した表情を見せた。ヒロもなにかが急に起きて、それに対してどうすればいいかわからなくて、豊浦の両親が手伝いに来た結果となっているようだった。
「気がつかなくて申し訳なかったのですが。カナではないんです……」
カナではない? なにを言いだしているのか耀平にはわからない。
没頭したいから、家族の誰かに来て欲しいと連絡をしたのではないのか。カナではないのなら……。だが耀平はなにがあったと吹き竿を持っているカナを見ている内にハッと気がついた。
「……カナが、助手、なのか?」
竿を吹いているのは青年の島崎。彼が吹いた竿を焼き戻し炉に入れてガラスの形を保ち、創作者である主に手渡しているのはカナ。
「花南さん、ガラス棒の不透明紫をお願いします」
「了解」
こまごまとした下準備をカナが担っている。工房の片隅にあるガラスの色づけや模様付けにつかうための色ガラス棒の棚へ向かうと、カナは指定された色を手にして島崎のそばにある作業台へと持っていくる。
その太い色ガラス棒の先を金槌で割って、紫色のガラスの欠片を準備する。
そこに島崎が吹いて形を整えていた透明なガラスの玉へと、ピンセットを使って頭に描いているだろう模様になるようにくっつける。
「焼き戻しと接着、お願いします」
「任せて」
再度、カナが吹き竿を島崎から受け取り、焼き戻し炉へと制作中のガラス玉を入れる。
熱い炎の中でガラスの玉が冷えてしまわないよう、また島崎が吹いた形が崩れないようカナが調整する。そしてつけたばかりの紫のガラスの欠片が透明なガラスに溶け込むようにとじっと炎の中をみつめている。
形を保つためにガラスの状態を見極めるのは、これぞ職人の腕と感だった。ここは島崎よりもカナの方が優れた感と技術をもっているはず。
焼き戻し炉からカナが吹き竿を外に出すと、また島崎に返す。再度、島崎がガラス玉を形にするために吹き竿へと息を吹き込む。
カナも跪いて、じっと下から後輩職人が息を吹き込み、竿を回しながらガラス玉を形にする姿を見つめている。
「島崎君。右半分、息を吹き込みすぎ。竿の回転をもどして。寒色のガラスと透明ガラスは同じ温度でも膨らみ方が違うから、いつも通りに吹き込むと偏るよ」
「わかっています」
「ほら、今度は下が膨らみすぎ。そこが薄くなるよ」
カナのアドバイスに、島崎の顔が歪んだのを見る。わかっているが、花南さんの言うようには上手くはできない。カナより未熟である自分が浮き彫りになり悔しそうな顔をしていると、耀平には見て取れた。
「あれが来てしまったのは、島崎のほうか」
やっと理解した。耀平も気がついていた。『島崎はカナと感性が似ている。創作作家タイプ』だと。カナは近頃、後輩の島崎を相棒にするようになってきていた。それは感性が似ているから彼を自然と選んだのだと耀平もわかっていた。
そして島崎も、カナがやることいちいち気にして、影響されている。
カナが没頭する時に助手をする島崎は、なんだかとても生き生きしている。
周りが見ていて『なんて追い込み方をするんだ』と辟易する姿を見せつけられるのに、島崎もカナと同じ世界にでかけられることにわくわくした眼差しをしている。
実は耀平。そういう若い青年がカナと一緒の世界にいる時、ちょっとばかり羨ましくて嫉妬していることがある。だからとて、彼に意地悪いことをするとかしようだなんて思うことはないが、羨ましい。
「それで、うちの倉重の義父も真剣に眺めているわけか?」
「お父さんも一目見て判る人でしょ。いままで目に見えなかった島崎の開花しそうな感性に興味を持ったようですよ」
「ほう。あのお義父さんの眼鏡に適ったら、本物だ」
義父の眼差しが恐ろしい。俺と一緒に仕事をしている時の、他の大会社と渡り合う時の目をしている。
なのに、その威圧が目の前にあるというのに、島崎もなんのその。本社社長の眼が品定めしているというのに、まったくそこに恐ろしい人がいる動揺など微塵も見せない堂々とした吹き姿を見せている。
だがそれも一時で。島崎は途中で竿を投げ出してしまった。
「ダメです。失敗です」
回転をやめてしまった吹き竿の先にあるガラス玉がとろりと垂れ下がって球体を崩してしまう。せっかく彩った紫の模様もマーブル状になって崩れ落ちていく。
島崎が作業台に放った竿をカナが手にとって眺める。
「そうだね。あの息の吹き込みのままやっても、思う形にはできなかったでしょうね」
手厳しい評価だった。だが島崎はもう動き始めている。新しい吹き竿を手にして、また溶解炉へ新しいガラスの下玉を作ろうとつっこんでいる。
カナもすぐに彼の隣へと寄り添っていた。
ヒロがさらに報告してくれる。
「島崎がこういうのを作りたいと言い出したのが一昨日です。ですが俺が親方として却下しました。工房の作業を優先、創作は終業後にするようにと。一度、島崎は諦めたようなのですが……。カナが逆に彼の創作魂を復活させてしまったんですよね」
ヒロにこちらに来てくださいと言われ、耀平はヒロに言われるまま後をついていく。
連れて行かれたのは、冷却炉のそば。出来上がった商品や作品を並べておく保管棚だった。
そこに見覚えのないものが数点、並んでいた。
「カナが数日前に創作したものです。今日、冷却炉から出したところです」
そこには美しい紫の彩りの小さな花瓶と、お揃いなのか花柄の角皿のセット、筒型のオブジェができあがっていた。
「いいな。藤で揃えたのか。そういえば、そろそろ季節だな。しかもこんなに一気に? あれはこなかったのか」
「カナには就業中もノルマを終えれば、創作よしという権限を既に与えていますから。その時間内でこれだけ作れたんですよ。やっぱり母親になったんじゃないですか。時間内にカラダの中に湧き上がっているものを表現するべき――。そういう姿が見て取れました」
うん。いい。これはすぐ売れる。耀平も手にとって感嘆の溜め息をついた。
「社長がその眼をした時は売れますよね。……というか、やっぱりカナには敵いません。あいつ、最近、すごい感性が溢れている気がします。妊娠で一年間、自由に吹けなかった分、いますごく溢れている。竿を持ったらさっと表現できる力もついてきていると感じています」
相棒だった職人の男がそこまでいうのだから、そうなのだろうと耀平も思う。だが、知らない間にこんなに彼女が感性を豊かに鋭くしていただなんて驚きだった。
「なんていうか。カナは『匂いどり』も上手いんですよね」
ヒロも藤色の柱オブジェを手にとって、羨ましそうに溜め息をついている。
「匂いどり……とは?」
ただの経営者は、職人の言葉に首を傾げる。カナもそうだが、彼等はそういう感性で話すことが多い。
「これを作りはじめた朝でしたかね。カナが島崎と一緒に工房の入口を掃き掃除してくれていて、じっとサビエル聖堂を囲む緑を見上げていたので『どうしたのか』と尋ねたんですよ。そうしたら、こういったんです……」
藤の花の匂いがするよね。
「は? まだうちの庭先でも咲いてもいないし、近所の藤棚もまだ咲いていないようだったが?」
「そこがカナの『季節や自然を感じる、嗅覚』ですよ。もうすぐ藤の花が季節。そう感じたらもう、咲いていなくても『花の匂いがする』。それを感じたら、その花が咲く前にもうガラスにしてしまう。出来上がった頃、藤の花が咲く。店頭に並んでいる。藤を見てきた客は、藤の花を思わせる商品を手に取る。そういうラインをうまく引き出す時があります」
そうだ。商売は季節を読んで行かなくては商機を逃すこともある。それは耀平もホテル業で常々気にしているところ。その季節の前に、その季節を迎える準備は必須な商売をしている。
だが、ガラス職人にそれを強いたことはなかった。でも、カナは既にそれを取り込んでる。
「そうか。確かに、マグノリアの時は咲いてからだったが、あれも嗅覚だったのだろうな」
驚きだった。カナの創作は季節を感じて出来るものばかりではない。瑠璃空のように心情をガラスに表現することも出来る。
だが今年は、藤の花が彼女の心を誘っていたらしい。
「で、島崎もカナに感化されたということです。『花南さんが花の匂いがすると言ってから、俺の鼻にもずうっと藤の香りがまとわりついて離れない』と……」
「ふむ。カナほど先取りではないが、その刺激さえあれば、カナと同じ世界に入り込める感性があるってことか」
「まだまだですけれどねえ。いま吹いているのが店頭に出せるものができるかは疑問ですが。ああやってやらせないと、カナのようになれるはずもなく、です。今日は特別に許可しました」
そうだったのかと、耀平は再度、ずっと向こうの焼き戻し炉で再度のチャレンジをしている島崎と、助手をするカナを見つめた。
「それでカナが、島崎を自分と同じように没頭させてあげたくて、連絡をしてきたってわけか」
「そのようですね。とうとうお母さんに頼ったようですね。いま島崎にさせてあげるべきだという気持ちが大きかったのでしょう。あのカナが自分の仕事はさっさと終わらせて、後輩に心を砕けるようになるだなんて……。俺としてはそっちのほうが『成長』に見えてしまいますよ」
ヒロが笑ったが、耀平もほんとうだあのカナが大人になっていると思えてきて、一緒に笑ってしまった。
「ほうほう、それが花南が造った『藤の花』か」
義父の雅晴が職人鑑定にひと満足したのか、めざとくガラス製品に目をつけて近づいてきたという顔でそこにいる。
ヒロも躊躇わず、見る目が厳しい本社社長に娘の作品を差し出している。
「うん、気分があがるね」
父親という目贔屓などしないと信じたいが、やはり雅晴は娘の花南が造ったものを穏やかな眼差しで見つめている。
「ほしいと言うと、花南に叱られるのが難だねえ。父親と言うだけで、素直に買えないとはなんとも……。どうせ耀平がまたどこかに売ってしまうのだろう」
「いえ。『倉重社長』も大事なお客様ですよ」
耀平がそういうと、雅晴が嬉しそうに微笑んだ。
本当に欲しそうな目で、藤色の一輪挿しを眺めている。でも最後に溜め息をついた。
「いや父親だからこそ、やめておこう。これは店頭に出して人々に眺めてもらい、耀平の営業でバイヤーの目にとまったりするほうが、この製品にも作品にとっていいことだ。父親だからと手元でいますぐ囲うのは良くないしもったいない。だからとて、では売れなかったら買おうなんていうのも、娘を評していないことになる。悩ましいね」
本当に惜しそうにして、美しい藤色の一輪挿しを棚に手放してしまう。
「いまのお父さんの気持ちを知れば、その方が花南は喜びますよ」
「私は嬉しくないね。この一輪挿しが欲しいよ。でも人々に見せたいよ」
ちょっと機嫌の悪い顔になって、耀平はヒロを顔を見合わせ少し笑ってしまった。
だが途端に、雅晴の目が厳しくなる。見据えているのは、再度、藤の作品に取り組んでいる島崎だった。
「あの青年はまだ時間がいるようだなあ。良いものは持っているが、まだ早そうだね」
島崎を育てろとまではいわなかった。今の時点では良くもなるし悪くもなると言いたいのだろうと、婿で部下の耀平はそう察した。
「親方。まだまだ規定の製品を何度も作らせた方がいいと思うね、私は。花南の昔の作品も酷かったもんだよ。それを製品にも作品としても製造できるようになったのは、小樽の親方が『商品となるものを造るべき』と勝手な創作を許さずに叩き込んでくれたから。
その後だからこその、芹沢親方という工芸家のポテンシャルの引きだしかたが効果的だったと思うんだ。娘を褒めるわけではないが、あの道筋がなければ、娘もあそこまでにはならなかっただろう。
彼女がガラスに対して本気だったというのもあるけれどね。うちには製品を作り出すには最高技術を持っているヒロ君がいる。そっちが先ではないかね。この工房のいいところは、技巧の徳永と創作の花南、その両タイプの職人が既にいること揃っていること」
父親が娘を労るような言葉にも聞こえるが、だが事実だった。花南が自分で見つけた『師匠』が良い職人だったという幸運もあったかもしれないし、彼女にも見る目があったからこそだったかもしれない。
だが、それをじっと堪えて続けていく根気も絶対になくてはならないもの。それをカナはやりこなしてきたのだという、社長としての評価でもあるのだろう。
「かしこまりました。検討いたします、倉重社長」
花南のように感性をぶつけるような創作はまだ彼には早いと言われ、ヒロも親方として肝に銘じたようだった。
耀平も溜め息。だがのびのびと育てたい気持ちもある。創作タイプの作家は少しでもそう言う時間が必要だとも思っているから。
「お、そうだ、そうだ。さっき母さんとこの家に着いた時には、千花は眠っていたんだよ。そろそろ起きているのではないだろうか! 耀平、今夜はここに泊まるのだろう。今日は寿司でもとってくれないか。な、な」
え、お義父さん。今日はここに泊まるつもりですか。と言えず、耀平はひとまずにっこり微笑み返す。
お義父さんも千花にメロメロのようだった。航が生まれた時の嬉しそうな義父も覚えている。あれがまたやってきたよう。娘の『助けて』ひとつで駆けつけるような父親ではなかった。なのに、娘の『千花を助けて』のひとつでは義母と一緒にすっ飛んできてしまうんだから。
「えー、わかりました。では、うちの料亭旅館から仕出しができるか確認しますね」
「そうしてくれ。まだ千花は小さいし、外食よりは自宅でゆっくりがいいだろう」
と、楽しみな祖父さんの顔になっても、ふと棚にある切子グラスを手にとって、また厳しい目……。
「うん、大丈夫だ」
花南ではない、他の職人がつくったグラスや切子にぐい飲みなどと手にとっては、真顔で唸っている。
千花目当てもあっただろうが。本当はこの工房がちゃんと品質を保っているか、抜き打ち検査に来たのではないか? 耀平はそう感じてしまい、改めてゾッとした。
抜け目ない義父で上司である。
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