05 彼

 海で、なんとなく。


 溺れれば、死ねるかなとか、考えていた。


 顔を砂に擦りつけて。肌をぼろぼろにして。その上で、海に沈んでしまえば。


「ばかだな、俺は」


 ばかだった。高校も出ていない。頭は良いほうだったが、勉強することに価値を見出せなかった自分がいる。


 学校生活というのは、とにかく。顔がすべて。顔の良い自分には、どこにも居場所はなかった。支えてくれる友達がほしかったけど。そんな人間は、どこにも、いないと知った。


 女が周りに寄ってくる。まるで蚊みたいに。煩わしい。口々に、ばかなんかじゃないとか、ばかでもすきだよとか、わけのわからんことを言っている。あのシュッとすれば蚊が来なくなるスプレーみたいなやつの、女版が欲しい。切実に。


 死のうとするのをあきらめて。


 今度提出する数学の論考について、思いを巡らせた。数字について考えている間、女の顔も声も聞こえなくなるから。


 ばかな頭には、数学が肌に合った。数字は、ばかな自分にも、誠実。すりよったり、意固地に仲良くなろうともしてこない。こちらが問いかけると、応えがある。そういう、無機質な感じが好きだった。


 高校にも行かず延々と数学だけをやっていたら、海外のどこかの研究機関に認められて客員待遇になった。


 英語も漢字もできないので、日本語の丁寧なひらがなでメールが送られてくる。そのメールを開いて、海外の顔も知らぬ誰かと一緒に。問題を解く。それが、ばかな自分の楽しみだった。なにより、顔を見せなくていい。


 ぼうっとしていたら、すでに夕陽が海に沈もうとしていた。


「どうする。おれたちは呑みに行くけど」


 複数の、男と、女。俺の顔をマッチングツールの代わりにして、出逢った関係。


「いや、俺はいいよ。つかれちゃった。帰って寝ることにする」


「そうか。残念だな」


 残念そうな顔をされたので、ちょっと驚いた。自分の顔にしか、興味がないと思っていたのに。


「じゃあな」


 彼ら彼女らの幸せを願いつつ、帰路についた。帰ったら、少しだけ数学を楽しんで。それから、寝よう。


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