十年前、私は女子高生だった。

 十年前、私は女子高生だった。




 野球部の四番サードだった藤森君は校内一のモテ男で、一年生の段階でバレンタインの日に下駄箱にチョコを突っ込んでいる女子生徒がいたぐらいだった。


 かくいう私もそれをやった女であり、その時はまだ手作りする勇気なんぞなくてデパートで一〇〇〇円のそれを買って来て突っ込んだのはいい思い出だった。




「藤森君プロになるの」

「多分無理だよ、それより勉強して大学野球志望かな」


 野球部らしい坊主頭を輝かせながら、まあプロ志望届は一応出したいけどなと言いつつ勉強にも部活にも全力投球する、ああピッチャーじゃなくサードだけど、そういう彼はどんなイケメンよりもイケメンだった。




「お前よ、勉強の方大丈夫か」

「俺は工業科だぞ、どこぞの工場に入り込んで汗に塗れて過ごすさ」

「今と同じだな」

「まあな、そんでお前は」

「僕は栄養士だね」

「俺はプロ野球チームだ」

「あのさー、藤森でさえプロになれるかわからねえっつってるのに、お前おつむはともかくさ」

「だから球団職員になって日本一のチームを支えるんだよ、どうだカッケーだろ」

「まあ、多少期待しておくぜ」



 藤森君以外の野球部員は基本的にその他大勢扱いだったから、何をしゃべってても基本どうでも良かった。そんでも本気の子はこんなくっだらない雑談でも耳に入れたりする。


 一応甲子園一歩手前レベルの学校だけど、それでもプロになるような人間なんかほとんどいないから、99%の人間はここで野球をやめる。やめないとしても、大学野球とか社会人野球とか言うプロ入りありきのコースになんかほとんど行かない。

 それだけに、この学校初のプロになる可能性もあった藤森君は先生からも目をかけられる存在だった。




 そして、私もそうだった。


 将来の夢に外資系サラリーマンと書いても誰も嫉妬されない程度には成績もよく、生徒会副会長の座もそれなりに務め、そしてそれなりの美女だったらしい私。


 そんな私に交際を申し込む男や、羨望のまなざしで見つめる男はやはりそれなりにいた。

 付き合って下さいと言われたことは二度や三度じゃない。



「ってかさ、戸頃さんまた男の子ふっちゃった訳?」

「まあ、そうなるわね」


 でも私は、藤森君しか見えていなかった。この学校の生徒たちと同じように、藤森君を好んでいた。藤森君のお嫁さんとなり、彼がプロでホームランを打つ傍らで料理を作り、それと同時に世界中を飛び回る私の姿を思い浮かべていた。


「戸頃さんって藤森君のお嫁さんになりたい訳?」

「藤森君のお嫁さんだなんて、本当ハードル高すぎー。その上に外資系だなんて欲張りだと思うよー」


「でもさ戸頃さんなら……」

「まあ、戸頃さんならねえ……」



 みんながそんな事言ってくれるもんだから、私ものぼせ上っていたのは間違いない。うまくもないお弁当を作っては毎日消化して食べさせられるレベルまで上げようと努力して、その上で学生らしく学問も頑張った。



 でも時には購買部に行って菓子パンで終わらせる時もあった。



 なぜなら、そこにある自販機をしょっちゅう使うのが野球部だからだ。



 コーラやコーヒー、オレンジジュースと言ったよくあるそれに加えてなぜかおしるこまであるのには笑ったけど、やっぱり一番人気はスポーツドリンクだった。


「やめなさいよ買いもしないのにボタン触るの」

「いいじゃない、あなただってこの前」


 藤森君にあこがれる女の子たちは、みんなスポーツドリンクのボタンを押しまくっていた。一年の時などは使い走りとして買いに行かされることも多かったからそれこそ数回単位で押されてた事もあった。

 その度に私なんか胸がときめき、ボタンになりたいとか本気で考えるようになった。



 ああ、来た。顧問の先生と一緒に、藤森君がやって来た。

 ああ、今回はお茶かあ。スポーツドリンクだと思ってボタン先に押してたのに。


「おい牛乳も飲んどけよ藤森」

「しゃーないんすよ茶かスポーツドリンクかしか」

「ここなら大丈夫だろ、たぶん……」

「その多分が危ないんすよ先生、うちで飲んでますから安心してくださいって」



 でもこの自販機、牛乳はない。って言うか乳製品全般がない。牛乳を飲まなきゃ強くなれないのに、なんで飲もうとしないんだろう。藤森君の体に問題が起きなきゃいいけど。



「ねえ先生」

「どうしたんだ戸頃」

「藤森君はなぜまた牛乳を」

「浅村の事を心配してるんだよ、先生も彼女の事と思うとな、まあしょうがない話だけれどな……」


 顧問の先生が言うように、藤森君が自販機はおろか学食でも牛乳やその類の物を買わないのは、すべてあの浅村伊織って女のせいだった。







 視力0.1にふさわしい厚底メガネにぶっちゃけガリガリ、成績こそ優秀だけど取り柄はそれだけの女。確かこの年に出たなんとかの9だか13だかってテレビゲームを待ち望んでいたような連中の方が、よっぽどお似合いな女。




 それがいつも、藤森君たちの側にいる。側にいて、誰よりも配慮されている。


 野球部のマネージャーだからだ。




 でも三人マネージャーがいるってのに、一年生だってのに、誰からも大事にされている。

 私のクラスにも同じ野球部のマネージャーがいて、彼女も浅村の事が気に喰わなかった。


「藤森君も含めてね、みんな浅村に気を使いまくってるのよ。あんな瘦せぎす女を!」

「そうよね、絶対おかしいわよ!なんか理由でもあるの」

「乳製品全部ダメだって」

「好き嫌いせず何でも食えはしつけの基本でしょ!大方相当に甘やかされて育って来たのね!」

「それがさ、牛乳を飲んだら死ぬって野球部の顧問の先生が」

「一〇〇年後に死ぬって言うあれなんじゃない?」

「先生が言ってたんだけど」




 笑う気も起きなくなった。


 牛乳で人が死ぬのならばそれこそ牛の存在意義などなくなる。自分たちは何で生きてるのか。小学生レベルの屁理屈をこねて失笑されもしたけど、好き嫌いは良くないはしつけの基本じゃないだろうか。

 そのあげく先生までたぶらかすだなんて、一体何様なのやら。



「ちょっと文句言いに」

「やめなよ、下手すると藤森君に嫌われるよ」



 藤森君に嫌われる、それだけは絶対に嫌だった。だからおとなしくするしかない。でもその間にあの女に藤森君が奪われたらと思うと、何事も手に付かなくなった。




 夏休み、藤森君たち野球部は地区予選準決勝で敗退した後夏合宿へと行った。

 私は逃げるように、夏休みを勉強に費やした。模試も受けまくり、一流大学のA判定をもらうに至った。

 すごいすごいってみんなほめてくれたけど、すべてのほめ言葉が耳をすり抜ける。




 一番ほめてほしい人が、遠くにいたから。




 あの浅村って女の事が頭から消えない。今頃、藤森君に大事に大事に扱われているのかもしれない。


 だいたい、夏合宿なんてある種の監禁拘束だ。それで恋愛感情が生まれないのはむしろおかしい。と言うかなぜ合宿にマネージャーまで巻き込むのか、うちの学校は訳が分からない。



「ちょっと、あの二人どうなってるの」

「どうもないよ。ただのマネージャーだよ、私と同じ」

「ちゃんとチェックしてるの!」

「当たり前よ……」


 そんな電話まで同級生にかけて、藤森君の動向ばかり気にしてた。スマートフォンなんていう文明の利器をそんな事ばかりに使いながら、私はただ逃げるように夏休みを終えた。







 で、二学期の事実上の初日、九月二日。


 夏合宿は終わったけどなおも部活、秋季大会に向けて三年生の先輩たちと共に藤森君はその日も汗を流していた。

 生徒会の報告もそこそこにグラウンドへと走り込んだ私、次期主将がほぼ確定的な藤森君の雄姿を見に廊下を早歩きしてなぜか遠いグラウンドへと向かう。


 またかよと思いながら避けてくれるみんなのおかげでたどりついた私。いつもならば走るなって言うから早歩きをするなとか言う屁理屈をこねるなとか突っかかって来るようなのもいない私。

 グラウンドのフェンスにへばりつき、藤森君の姿を探し当てた私は、またいつものように声援を出そうとした。


「藤森く……」




 声が出なくなった。藤森君が、浅村さんに寄り添っている。




 気分悪そうにうつむく浅村さんの背中をなでている。ずいぶん親しげに、派手にボディタッチをしてる。

「ああ戸頃さん、俺と付き合って下さ」

 足が勝手に動き出し、そのまま下校した。誰かが私を呼んでた気がしたけど、もうどうでも良くなった。



 あんなに親しげに抱かれている姿、もはや部員とマネージャーどころじゃない。


 完全に恋人だ。


 やっぱり恋人だったんだ。わかった諦める、諦めてあげる。


 でもその前に、本当に藤森君の恋人足りえるか、私が確かめてやる。




 その思いで、頭が一杯になった。




「何も!」


 帰宅してお母さんをその言葉で追い払うと、どうにかしてあの女の化けの皮を剥いでやる方法を考えた。


 悪い噂でも撒く?出所が私とわかればおしまいじゃない。

 彼女よりいい女になる?あんなやせぎすの、マネージャーであること以外一体何が勝ってるのかわからない女にどうやって?

 私からプロポーズ?あんな親し気な様子からするとどうやら公認カップル。ごめんなさいのひとことでおしまいに決まってる。



(何よ、あんなに貧弱ぶって……!)


 私は確かにモテていた。でもその相手をよく見ると大半がひ弱そうな子ばっかりで、藤森君どころか運動部員レベルにたくましい子はひとりもいない。



 戸頃さんは強くてかっこいいですと言われた事もある、ほめ言葉のはずなのに全然嬉しくない。私にいつの間にかくっついていた強い女ってイメージ、それが肝心

の藤森君にモテないのかもしれないと言う枷になっていた。


 どこかに弱みを見せればいいのかもしれないと思ったが、急に作り上げた弱みなどすぐさまばれる。でないとしてもむしろ媚を売っているだけと見なされて逆効果だ。




「何よ……!何が牛乳飲んだら死ぬよ!」




 小声でつぶやくと同時に、私は苛立ち紛れに部屋中を片付けた。

 天然の弱みを持っている女がものすごくうらやましく思えて来る。どうして私はこんな風に生まれて来てしまったのか。


 キラキラした趣味に逃げる事もなく、必死に学生らしく学問、でないとしても料理や掃除などきちんとやって来たし、今後もその気で頑張って立派な一流外資系企業に勤めるつもりなのに!


 私は努力を怠れないかつての自分を恨み、そして今の自分を恨んだ。

 はたきをかけても、掃除機をかけても、気持ちは全然収まらない。それこそ、浅村伊織と言う存在を藤森君から追い出したくてたまらなかった。

















 そして、忘れもしない九月十七日、金曜日。

 私はお弁当を作らず、購買部でパンと牛乳パックを買った。


 そのまま浅村の定位置、昼休みにいつも浅村がいる場所へと赴く。


 野球部の部室。まるで藤森君に媚を売るかのように、いつも彼女はここでじっと立っている。




 本物かまがい物か、私が見てあげる。私が、藤森君を愛する存在の代表として確かめてあげる。




 その思いを込めて、浅村の姿を探し当てた。


 全く予想を裏切る事なく、じっと立って何らかのメモを取っていた。

 まったくこちらに気付いていないのを確認して、私はパックを開ける。


「ああ戸頃先輩」

「浅村さん……」




 私は腕を鋭く振り、牛乳パックの中身を浅村の頭にぶちまけた。




「戸頃先輩っ……」


 ひょろひょろの肉体が急に崩れ出し、顔と剥き出しの手足に赤い発疹ができた。そして呼吸が荒くなり、叫んでいるつもりだろうけど声が聞こえない。




「ああ、本当だったんだ」

 他に何にも言う気にならなかった。とりあえず、藤森君のが嘘つきでない事に安心した。それだけだった。


 もちろん、助ける気などなく、踵を返して黙って立ち去った。




 すぐに後ろからおいどうしたとか言うとんでもない大声が鳴り響く。



 あーあうらやましい事だなとか思っていると、後方から先生にぶん殴られた。

 牛乳パックの中身が砂に吸い込まれ、セーラー服が砂まみれになる。


「戸頃、戸頃!お前のやった事はなぁ!!」


 野球部の顧問の先生が頭をわしづかみにしながら、校舎中に響く声で私を責め立てる。

 強引に起こされ、その上で今度は胸ぐらをわしづかみにする。体罰とかセクハラとかうんたらかんたらを抜かすような人間は誰もいない。


 救急車のサイレンが聞こえる中、私はあーもしかしてあの女藤森君に運ばれてるのかなとか歯嚙みしていた。







「本当だと思いませんでした」

「何が本当だと思わなかっただぁ!?お前のやった事はな、殺人未遂と言われても何も言い返せないんだぞ!」


 校長室に連れ込まれた私は思ったままの事を話し、さらに怒鳴られた。



 殺人未遂?あれが?私はただ藤森君の彼女を試したかっただけなのに。



「もし彼女が死んだらな、お前はその罪を一生背負って生きる事になるんだぞ、わかってるのか!」

「はい……」


 私はなおも意味の分からないままうなずき、校長先生の説教をずっと聞いていた。




 でもなぜか耳に入らなかった。頭の中にあったのは、藤森君の事だけ。


 あんな大変な女の子を守ろうとするだなんて、やっぱり藤森君はカッコいい。  やっぱり私じゃムリなのかもしれない。

 いっそ自分もそういう体質だとしたら藤森君に優しくしてもらえたのかもしれない。

 そう考えるたびに逆恨みが始まり、そして校長先生から聞いてないのかと言う罵声が飛んで来る。



 やがて連絡が来た。浅村さんはとりあえず一命は取り留めたが半月はくだらないレベルの入院が必要、進級も危ういかもと言う事らしい。


「命が助かっただけでもありがたいと思え!お前は本当の本当に一人の人間を殺してたとこだったんだぞ!」

「そうですか……」

「言っておくが、最低でも留年は覚悟するように!追って処分する!今日はもう帰れ!」




 校長先生と野球部の先生からそう言われたけど、まだ私は平気だった。


「藤森君は、藤森君は、藤森君は……」


 私の頭の中にあったのは藤森君の事ばかりだった。


 藤森君は私の事を嫌ってないだろうか。藤森君は浅村さんをますます好きにならないだろうか。藤森君は私を許してくれるだろうか。


 そればかり考えながら、私は教室へと戻った。




「おい殺人鬼」


 いきなり、私のあだ名は「殺人鬼」になった。男の子は一斉に引くか罵詈雑言を投げるかのどちらかで、女の子は当たり前のように私を避けた。先生はものすごい目でわたしをにらみつけている。


「っつーかお前さ、そんな事も知らないで生きてたわけ?お前のような奴が外資系を志してたのかと思うとそれだけでクーラー要らなくなるな。グルテンフリーって知らねえのか」


 ヨーロッパでは人口の四分の一が小麦粉アレルギーで、日本人の花粉症と言う名のアレルギーと共に国民的課題になってるらしい、へー参考になったなあ。


 まだ私は、そんな事を考えられていた。



 それで荷物をカバンに突っ込んで教室を出た所で、藤森君に出くわした。浅村さんの所に行かなかったんだろうか。

 ならば危機に陥った私を何とかしてくれるんじゃないか、そう思いながら私は声をかけた。


「ねえ藤森君」

「よう、人殺し」




 人殺し。




 人殺し。




 人殺し。




 その言葉を聞かされた私は、何も言えないまま足元定まらず校舎を出て、別の先生に胸ぐらをつかまれるまでの記憶をなくしていた。

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