第9話 マヨトリオ乱入

 真音が最大級の個人情報を透に打ち明けた。

 親友の奈々は勿論知っている。

 奈々は透に対する真音の本気度をそれで理解できた。

 真音をからかう様に突然、奈々が言った。

「真音さぁ~ だからわたしのお父さんを貸してあげるっていってるじゃん」

「やなこった! 娘の裸を見るセクハラ親父なんて、御免だよ~」

「え~ うちのお父さんはセクハラなんかしないよ~」

「そりゃ~ 自分の娘にはしないでしょうよ」

 真音は奈々へは寂しい眼差しを向けない。

 日が傾いて辺りに寂しさが漂ってきた。

 春陽も薄手の浴衣では薄寒さを感じさせて、あっという間に薄暗くなるだろう。

 鈴がそよ風に身震いした。

 それに直様反応した奈々が片付けを始める。

「は~い、本日のお花見はお開きで~す」家政を仕切る奈々の朗らかな宣誓。

 三人が追従すると瞬く間に終わった。

 皆が屋敷に撤収し始めた時、透がさっと振り向いた。

 隣にいた奈々が釣られて視線を合わせる。

 視線の先は天女桜。

 そこには―――微笑んでいる遺影の天女が手を振り見送っていた。

 奈々が確かめる様に強く瞬きをする。

 幻影の幕が閉じた。

 八重桜の幹が只、在るだけ。 

「透くん、お供えしたおはぎはあのままにしておく?」

「否、仏間に移そうか」

「解った、わたしがやるね」

 奈々が吸い寄せられる様に天女桜に向かう。

 奈々を包む様に、また、そよ風が吹く。

 花びらが一枚、お守りの様に奈々の胸元に落ちた。

「ありがとう、さようなら、お姉ちゃん……」

 奈々は合唱してから供物を下げると屋敷へと向かった。 

 回収に向かって一人遅れた奈々が視線を感じ、さっと振り向いた。

 天女桜には何の変哲もない。

 その先には隣家の辛島家があった。 


「それにしても、大きいお屋敷だねぇ~」真音が目前に迫ると透に聞かせる様に感嘆の声を上げる。

「まのんちゃん、すずがごあんないしてあげる」答えたのは鈴だった。

「ありがとう、鈴ちゃん」既にキッチンへは案内されているなんて野暮な事は言わない。

 鈴が真音の手を取って屋敷へと先に進む。

 いつの間にか打ち解けている鈴と真音。

 その後ろを進む奈々が透の手を掴み捕らえる。

 透が奈々の顔を覗き込む。

 奈々が頬を膨らませ見返す。

 気まずそうに透の口角が上がる。

「アリスさん! って、凄い美人だよねー」

 透がまだ終わってなかったかと苦笑いを返す。

「大丈夫だよ。俺はそんなに美人だと思ってないから」

「え! あんなに美人なんだよ。わたしじゃ絶対に太刀打ちできないよ~」

「太刀打ちって、奈々は美しさで張り合おうとしてるんだ」

「うぅ~ん」鈴の様な唸り声を上げる。

「まあぁ、確かに寺見先生は綺麗だよ。でもねぇ、寺見先生の美しさってのはそこじゃないんだ。奈々は多分知らないと思うけど、思いやりがあってとっても優しくて、親切は他人の為ならずを地で行く、根っからの日本人みたいな人なんだ。まぁ、本人も日本人のそう云う処が好きだって言ってたけどね。だから、奈々は容姿だけで判断してないか? 奈々は美人ってだけで差別してないかい?」

「差別じゃないもん、嫉妬だもん。それに『情けは人の為ならず』だよぁ。それより、透くんは、やっぱり寺見先生の事が好きなんだ。アリスさんに魅力を感じてるんだ」

「それは意訳の方が奈々に解り易いと思って言ったんだ…… そうだね、俺は寺見先生を魅力的な人だと思ってるよ、でも、奈々。俺には恋愛的な感情は全くないから。況(ま)してや、相手は人妻だぞ。勿論、あっちもそんな事は全く考えてはいないと思うぞ」

「でもねぇ、男と女の関係って、何があるか分かんないじゃない?」

「それは、恋愛脳の奴が陥るんだよ。全てに於いて恋愛が最優先されると周りが見えなくなる。俺も天女の時にそうなったから解るんだけどさ」

「じゃあさ~ もしかして、透くんがまたそうなる可能性もあるってこと?」

「ない……とは思うけど…… でも、その相手は、奈々が一番可能性高いぞ……」

 奈々が急遽、赤面する。

「わたしは既にそうだよ……」奈々が聞き取れない声で言う。

「何だって?」

「ううん! 何でもない」赤面を勢いよく振る。

 奈々が瞳を閏わせて言う。

「不倫はダメだよ」

「奈々は俺を何だと思ってるんだよ、俺には倫理観がちゃんとあるから。言っておくけど、俺は天女が人妻だった時に疾(やま)しい事なんて一つもしてないからな」

「解った……それなら、許す……」

「許すってなぁ…… 奈々! 俺を信じろ!」

「うん、解った」

 奈々が一歩顔を近づける。、

「それじゃ、寺見夫人を家に呼ぶの? ご飯作って貰うの? 鈴ちゃんに会わせるの? もっとも、ここは透くん家なんだから、わたしがとやかく言える事じゃないんだけどさ~」

「鈴に会わせるなってのは、ちょっと嫉妬のし過ぎじゃないかな?」 

「うぅ~ん」鈴の様な唸り声を上げる。

「わたし美人じゃないから……」

「前にも言ってたけどさ、奈々は何で美人じゃない事に拘るの? はっきり言って美人だと思うけど、まあ、何となく予想は付くんだけどさ……」

 奈々が俯いた。

「美人薄命とか、美人は幸せになれないとか、美人は禍の元とか、そんな処かな……」

 透が奈々の心傷に踏み込んできた。

 奈々は透には話してもいいかなと噤んだ口を開く。

「……わたし小学生の時にね、可愛い可愛いって周りの男の子からちやほやされて、有頂天になってたんだ。それでいつの間にか孤立してて、これじゃいけないって一度改めたんだけど、前に話した中学の時にね、実は胸だけじゃなくて、やっぱり美人だからってのもあったんだ。わたしね、自分が美人だなんて全く鼻にかけていなかったのに、小学校の時の事を皆んな覚えていて、鼻持ちならない美人ってレッテルを貼られてたの……」

「そうか、それは辛かったな」

「だから、鈴ちゃんには気を付けて観ていないとって思ってて、とっても心配なの」

「ありがとう、鈴の心配をしてくれて。けど、奈々も美人て言われてさらりと受け流せる余裕のある大人にならないと」

「うぅ~ん」鈴の様な唸り声を上げる。

「奈々はとっても可愛いよ」

 奈々が赤面する。

「これは大丈夫そうだな」

 奈々の赤面が上下する。

「私の胸は普通だよね?」

「うん、そうだな。奈々の胸は普通だ」

 奈々が安堵の表情を浮かべる。

「その件も、さらりと受け流せるようにならないとな」

「うぅ~ん」鈴の様な唸り声を上げる。

「あっ! やっぱり、さらりと受け流せるって話は、全部無しで! 奈々の『美人じゃないもん』とか『胸は大きくないもん』とかはさ~ 凄く可愛いから、ずっとそのままでいて!」

「うん! 解った!」


 片付けが終わると真音が言った。

「新婚家庭を邪魔しちゃ悪いから、とっとと帰るわ」

 透が苦い顔で調子を会わせる。

「そうだな。邪魔だからとっとと帰ってくれって、それは冗談として置いといて、真音、料理を手伝ってくれて、ありがとう」

「いいえ、どういたしまして」

 真音が奈々へ視線を移す。

「奈々はどうする?」

「わたしはもう少し居る」

「解った、じゃあ、がんばれ奈々。また明日」

「うん、がんばる」

「それじゃ~ 透君! 鈴ちゃ~ん! バイバ~イ」両手を勢いよく振る。

「また明日」

「バイバ~イ」鈴も元気に両手を大きく振る。

 最後ウインクをして真音が去った。

 鍵を閉めて戻った透が真っ先に鈴に言う。

「鈴、お父さんは奈々ちゃんと大事な話があるから、少しだけお部屋へ行っててくれないかな?」

 鈴が戸惑った表情をすると、直ぐに「わかった」と言って二階へ向かった。

 奈々の視線が、消えるまで後を追う。

 足音が小さくなると鈴の部屋の扉が閉まる音が響く。

 透が開口一番奈々に言う。

「おい、奈々! あれはどう云う事なんだ! 何で反対しない。何で一緒になって妾になんかしようとする。奈々は、どう云うつもりなんだ?」

 奈々が透の真剣な表情に気圧(けお)される。 

「最初は冗談だと思ってたけど、最後は本気で言ってただろ? 真音も可笑しいけど、奈々はもっと可笑しいよな」

「そ、それはね…… え~とね、真音ならいいかなぁ~なんて、思っちゃたりなんかして…… えへぇ」

「えへで誤魔化す事じゃないだろう! 俺は結構、怒ってるんだぞ!」

 透が曲がり形(なり)にも怒っていますと云う顔を向ける。

「ごめんなさい、茶化すつもりじゃないんだけど、何か言いづらかっただけなの…… それでね、その事は今から説明するんだけど、最初に、透くんに確認してもいい?」

「ああ、いいぞ」

「透くんの一番は、天女さんを抜かしたら、わたしって事で、合ってる?」

「お、おう……奈々が一番で合ってるぞ」

「そう、良かった。違ってたら、根底から崩れちゃってたわ。それでね、まのんは二号でいいって言ったじゃない、という事はわたしを一号で立てるって事じゃない。だから、反対しなかったの」

「それ、答えになってないぞ」

「話は、これからなの! もちろん、透くんにわたし以外の女がいるなんて、絶対に嫌なの。でも、真音だけは別。だから反論しなかったの」

「それだけ? それも答えになってないぞ」

「え? なってるじゃない。真音だからいいのよ。真音とはね、親友以上の絆で結ばれてるんだから、絶対に裏切ったりなんかしないんだから、わたしね、もし真音が男だったら等にプロポーズしてるわ。だから、真音が幸せになれるなら、少しぐらいの我慢は全然問題にならないの」

「お前たちって、変な関係じゃないよな?」

「変な関係って……気持ち悪い想像はしないでよ。私たちは健全な関係です」

「ごめん、流れでつい……」

「透くんも、わたしを信じてよ」

「解ったよ」

 透は今一、納得していない様な顔を向ける。

 怒りの仮面を外した透が不意に言った。

「なあ、奈々。真音は俺の事、好きなのか?」

「それは、わたしの口からは言えないよ。でもね、真音はねぇ、素直に好きですなんて簡単に告白するタイプじゃない事は確かかな? だからああいう形になっちゃったんだと思うんだ。あと、わたしが目の前にいた手前もあったと思う。わたしからはこの位にしておくから、もっと知りたいなら本人と二人きりの時に直接訊いて、多分、正直に話すと思うから」

「否、それは止めておくよ」

 奈々は落胆と安堵の混ざった顔をする。

 透が改まって真剣な表情を向ける。

「それじゃあ、この際だから、俺の素直な気持ちを聞いてもらおうか」

 奈々も真剣な表情で頷く。

「俺は嫌だ! 俺は一人の女を愛したい! 俺は今でも、天女を愛してる!」

 奈々の顔が歪む。

「奈々には、天女の事を忘れるとは言ったけど、やっぱり簡単にはできそうにもないんだ。鈴を見てると、どうしても天女の存在が浮かんじゃうんだ」

 奈々の顔が歪む。

「俺には同時に二人を愛する事なんかできない。そんな事したら、愛情が薄れちゃうんじゃないかと思う。俺は男としての器が小さいんだろう。だから、決して、世間の目や対面を気にしての事じゃない、倫理感からの事でもない。本当に無理なんだ」

 奈々の顔が更に歪む。

「それでも、天女の事、忘れようと思えるようになったのは、やっぱり、奈々のお陰かな」

 奈々が傍と歪みを糾す。

 透が真顔を崩して、はにかむ。

「ありがとう! 奈々!」

 奈々がはにかむ。

 透の顔が真顔に戻る。

「少し昔話をするね――― 俺は一度、天女を諦めているんだ。初めて天女に会った時に思わず一目惚れしちゃったんだけど、兄貴と結婚する事になって義理の姉になると決まった時にきっぱりと忘れようと決心したんだ。そんな時に、ある後輩の女の子と知り合って付き合う事になったんだけど、結構うまくいってて天女を忘れたかなと思えるぐらい仲良くなったんだ。あっ、ごめん、昔の彼女の話なんかしちゃって」

 奈々が口を尖らせ見つめる。

 透が気まずそうに続ける。

「それで、そんな時に丁度あの交通事故が起こった。で、どうなったかと云うと、兄貴が死んで天女が未亡人になって天女への思いが復活しちゃったんだよ。その時の思いは、もう周りが何も見えなくなって、天女だけしか眼中になかった。それで、もうその後輩とは付き合いができなくなって、だから、その子……捨てたんだ……」

 奈々が驚愕する。

「俺って、やっぱり、最低な男だろ……」

 奈々が驚愕の表情で見つめる。

 透が続ける。

「でもね、今回は絶対にそんな事にはならないんだよ。だって、天女は死んだんだから……」

 透の奈々を見つめる目が、奈々を通り越して彼方を見つめる。

 奈々は虚ろな透の目を眺める。

 瞳にドーナツホールが浮かぶと、奈々の意識が吸い込まれていく。

 奈々の驚愕の色合いが、最低な男から少しずつ変わっていく―――透の天女に対する思いは、奈々が思ってたよりもずっとずっと大きかったのだと改め、その失った穴はもっともっと大きかったのだと覚り、それを埋めるために必要な奈々の慰安は、さらにさらに大きくなってくるのだろうと―――天女への思いは、最低な行動をさせる程に大きく、重く、狂わせる程に……

 不意に透の視線が奈々に戻る。

「だから、今は、奈々の事だけで精一杯なんだ」

 透の哀愁を秘めた瞳が奈々に注ぐ。

「だから、奈々。もう少し時間をくれ。時間しか解決出来ない様な気がする……」

 透がはにかむ。

 奈々の口がやっと開いた。

「大丈夫だよ。わたし、ちゃんと保険を貰ったもん」

 奈々が虚勢の笑みを浮かべる。

 透がにこりと奈々へ微笑む。

「そう云う事で、奈々でさえこうなんだから、真音の事は、もっと無理だよ」

 奈々はこの先の透との展望に不安を覚え始めた。ドーナツホールの大きさに怖気付く。次第次第に内気になって、甘えが出始めた。

 奈々の頭に真音の顔が過ぎる。

 奈々は唐突に話題を変えた。

「透くん、そういえば真音に料理の手伝いありがとうって言ってたじゃない? 実はね…… わたしよりもね、真音の方が、ずうっと料理が上手なの…… だって、真音ってわたしの料理の先生なんだもん……」

「え! そうなの」

「真音って、凄いよね」

「あぁ、本当に尊敬するよ」

「惚れちゃいそう?」

「なあ、奈々。今の話の流れでその話をするってどう云う事?」

「……わたしは、ただ、真音を認めて欲しいだけなの」

「それなら、俺が本気で奈々より真音の方を好きになったらどうするんだよ?」

「そうしたら、わたしが二号にしてもらう」

「それ本気で言ってる?」

「嘘、ごめんなさい。やっぱりヤダ。でも、もしも、ほんとにもしも、そうなっちゃったなら、我慢する」

 透が奈々の真偽を確かめる様に見つめる。

「俺、奈々のそう云う気持ちが全く理解できないんだけど」

 奈々が押し黙る。

 透は奈々の言葉を待つ。

 奈々が透の目を見つめ返すと、重い口を開いた。

「……この話はね……軽はずみに他人に話していい事じゃないんだけどね…… 透くんだから話すんだけどね……だから、ちょっとだけ話すんだけどね……」

 透はじっと待つ。

「わたしと真音の二人はね…… 二人っきりなんだけど、本当は三人なんだ」

「へぇ?」

「三人ってのは、私たちの間にはもう一人いるんだぁ」

「へぇ??」

「その子は私たちの絆なんだぁ~」

 透は理解に努めようと続きを待つ。

「はい、終わり、今はここまで。これ以上詳しく話していいかは、真音と相談してから決めるね」

「え! 何だそれ」

「透くんだって、時間を頂戴って言ってるんだから、わたしにも時間を頂戴よ」

「それはそうなんだけど……仕方ない、解ったよ」

「それじゃあ、鈴ちゃん連れてくるね」

 奈々は早歩きで鈴の部屋へと向かった。

 結局、透は奈々から答えを貰えず、上手くはぐらかされてしまっていた。

 奈々の後ろ姿に、そんな透の視線がへばり付く。


 奈々は花見料理の残り物でさっと夕食の準備を終わらせる。

 家族の様な団欒を終え、奈々にいよいよ帰宅の時間が迫る。

 透が気遣い、遅くなる前にと奈々へ帰宅を即す。

 奈々は名残惜しそうに父娘へ視線を送る。

「まだ、洗い物が残ってるもん」

「いいよ、奈々、俺がやるから」

「そう、それじゃあ、洗濯は―――」

「いいよ、今度まとめてやれば」

「終わった洗濯物の仕舞う場所とか教えてほしかったのに……」

「それも、今じゃなくてもいいよね」

「そう、それじゃあ…… 解った、わたしそろそろ帰るね」

 奈々が立ち上がる。

 しかし、一歩も動かない。

 鈴に視線を向ける。

「鈴ちゃん、オムツ忘れないでね」

「うん、わかった」

 透に視線を向ける。

「透くん、ちゃんと鈴ちゃんと寝ること」

「うん、大丈夫だ」

 言う事が思いつかなくなった奈々が渋々と重い足を動かす。

 玄関で靴を履くと、振り向き様に両手を目一杯に広げる。

 鈴が駆け込み飛びつく。

 奈々がぎゅっと抱き留める。

「ななちゃん、またきてくれるよね」

「いい子にしてたら、またくるよぉ~」

「すず、いいこにするから、ぜったいだよ」

「うん、約束するよ~」

 奈々が鈴を離す。

 鈴が甘えた顔を向ける。

 奈々か慈母の笑顔を向ける。

 鈴が一歩近づく。

「ななちゃん、ずっとおうちにいてよお~」

「うん、できるだけ来るからねぇ」

「ななちゃん、きょうもいっしょにねてよお~」

「うん、また今度ねぇ」

「ななちゃん、すずの……」

 鈴が等々泣き出してしまった。

 奈々も釣られて涙ぐむ。

「あ~ん! 透くん、帰れないよ~ 帰りたくないよ~」

 鈴の甘えを見逃していた透が、堪らずと言った。

「鈴、いい加減にしなさい! 奈々ちゃんにだって事情があるんだぞ」

 鈴がしゅんとなる。

 奈々も堪らず言う。

「なんか離婚して子供に面会に来た帰りみたい」

「なんか仮釈放明けに刑務所に戻る女囚みたい」

「なんか不治の病で一時帰宅が終わって病院に戻るときみたい」

 透があんぐりと口を開ける。

「奈々、何を言ってるの!? それ、テレビの見過ぎ!」

「それくらい、辛いってこと!」涙目で抗議する。

 奈々が一歩下がる。

「透くんも、体に気を付けてね。夜ふかしなんかしないでよ」

「おう」

「鈴ちゃん、寝る前にちゃんとハミガキするんだよ」

「うん」

 奈々がドアに手をかける。

 透が見送りの言葉をかける。

「奈々、今日は本当にありがとう」

 奈々が振り向いて挨拶をする。

「じゃあ、透くん、鈴ちゃん、バイバイ」

「バイバ~イ」

「気を付けて帰れよ」

 奈々が後ろ髪を引いて去っていった。




トトトトトトトトトトトトトトトトトトトト




 奈々が消えたドアを鈴がずっと見つめる。それは、もしかしたら奈々が直ぐにでも戻って来てくれるのではないか、と思っているかの様だ。

 寂しがる娘に声を掛ける。

「鈴、歯磨きしてきなぁ」

 鈴がはっと振り向き、「は~い」と言って消えた。

 透にも寂しさがどっと押し寄せた。

 奈々の明るさに反比例する静寂に、しばし佇む。

 透は洗い物を思い出すと、キッチンに向かって動き出した。

 不意に、玄関のドアの鍵がカチリと響いた。透は慌てて振り向く。

 泥棒かと思った透は、傘を握り玄関の土間へと降りる。

 その隙にドアがゆっくりと開いていくと、奈々の顔が覗き込んだ。

「何だ、奈々か。どうしたんだよ、忘れ物か?」

 奈々は玄関にいた透に驚くと、気まずそうに扉を閉め中へ入ってきた。

 奈々が驚きの残った顔で言う。

「え~と、そうだ! あ、あのね、透くん。通りにね、なんか怪しい男の人がいてね、怖くなっちゃってね、戻って来ちゃったの……」奈々が視線を反らせ言った。

「そうか、じゃあ、俺が送っていくよ」

「え! それはダメだよ! 鈴ちゃんを一人にしたら可哀想だよ。だから……」

 口篭る奈々を透が見つめる。

「奈々、それ嘘だろ。本当の事、言ってごらん」

「ごめんなさい、嘘です……」上目遣いに覗く。

 透は呆れ顔を向ける。

 奈々が透の目前まで、にじり寄る。 

 奈々は透の服を引っ張ると額を胸に押し付けた。

「透くん、帰りたくない。今日も泊まっていく」

「駄目だ奈々。俺達は高校生なんだ。親に養ってもらってる分際で、自分でも弁えてるって言ったばかりじゃないか。おまえ箱入り娘なんだろ。親に心配掛けちゃ駄目だろ。大人になれ! 奈々」

「そんなの判ってるよ! 頭では分かってても、心がついて来ないんだもん。こんな気持ち始めてなんだもん。抑えられないんだもん! 抑えたくないんだもん!」

「なぁ~奈々? 俺には鈴って云う娘がいる。鈴が年頃になって帰って来ないなんて事があったら、心配で心配で仕方な―――」

「お父さんの話なんかしないで!」

「そんなあ、今、父親の気持ちを代弁してやったばかりなのに、父親ってそんなものなのかよ」

「いいの、お父さんはわたしのオッパイ見たんだから、心配掛けたっていいの」

「それは、おれも少しはムカッとしたけどさ」

「とにかく、お父さんのことは忘れて」

「そうか……今の奈々は悪い子だな」

「そう、今の奈々は悪い子なの」

「鈴はいい子だぞ」

「そうね、鈴ちゃんはいい子だもんね。透くんにオッパイ見せてあげるなんて言う程にね」

「おい、奈々、馬鹿な事言うな」

「見たい? わたしのオッパイ。私も鈴ちゃんを見習って、見せてあげるよ?」

「やめろ奈々。いい加減、引くぞ」

「ごめんなさい。じゃあ、ぎゅっとしてよ」

 透が奈々を包み込む様に抱く。

 透は奈々に再会できた喜びを必死に隠した。寂しさに反比例する喜びに。

 いつ間に開いたのか、奈々の胸元がはだけていた、そこに双丘の谷間が見える。

 奈々の左胸には、押し込んだキーホルダーの跡がくっきりと残っていた。

 それは、恰(あたか)も天女が奈々に刻印を施した様であった。

 透はその刻印に…… 何故か恐ろしさを感じた。

「奈々、兎に角、今日は帰れ。明日、学校があるんだし」

「……解ったよ……ごめんね、透くん。我が儘ばかり言って、鈴ちゃんに見られる前に帰―――」

「おとおさん、ハミガキおわったよ~」鈴の足音が間近に迫る。

「あっ! やっぱり、ななちゃんだ!」

「ちょっと、忘れ物しちゃったんだ。じゃあねぇ~ 今度は本当のさよならだよ」

 奈々は鈴から逃げる様に帰っていった。

 鈴は唖然と見送る。

 その内に思い出した様にべそを書き涙を零す。 

 奈々の軽はずみな行動は、鈴に余計な寂しさを与えた。

 透は無言で鈴を抱きかかえると鈴の部屋へと運ぶ。


 布団を敷き、オムツを履かせ、着替えが終わっても鈴はまだ泣いていた。

 消沈する鈴を寝かせると添い寝をする。

「おとおさん、おふとん、ななちゃんのにおいがするね」涙声で言う。

 まずい事に、また奈々を思い出させてしまった。

 透は慌てて鈴の顔を覗き込む。その顔は―――天女の亡骸に寄り添う、あの時と同じ顔だった。

 透が布団を替えようと思い立ち、立ち上がろうとした時、鈴が話し始めた。

「あのね、おとおさん」

「なんだ、鈴」

「おかあさん、しんじゃったの……すずのせいなの」

「何を言ってるんだよ、鈴は」

「あのねぇ、おかあさんがしんじゃったときねぇ、すずねぇ、おかあさんなんか、しんじゃえーっていったの」

「鈴! その話、ちゃんと始めから話してごらん」

 鈴のたどたどしい話はこうだった。

 ―――あの日、天女が鈴を保育園に送りに行った時。天女が突然、怒り出して鈴を叩いたそうだ。その言い分に、鈴は全く身に覚えが無かったと言う。納得いかなかった鈴は、反論しても聞く耳を持たない天女に思わず死んじゃえと言ってしまったそうだ。その直後、天女が頭を抱え蹲(うずくま)って動けなくなってしまった―――

 透は、くも膜下出血による錯乱では、と結論づけた。只、鈴の死んじゃえが引き金になってしまったのだろう。不可抗力とは云え、何て事をしてくれたんだと天女を呪う。

 鈴はずっとこの闇を一人で抱えていたんだと思うと―――

 透はやるせない気持ちで鈴に向き合う。

「鈴? あのね、人は死んじゃえって言っても、死なないんだよ」

「でも、おかあさんは、そんとき、きゅうにうごかなくなっちゃったんだよ?」

「それは、只の偶然だよ。お母さんは、鈴が死んじゃえって言わなくても、病気で助からなかったんだ。だから、鈴が言った事は全然関係ないんだよ。それにね、お母さんは病気で頭が混乱してたんだ。だから……全部、病気が悪いんだよ」

「こんらん?」

「え~と、鈴が昔、お漏らしをした時の事をね、お母さんが思い出して、今したんだと勘違いして、よく判らなくなっちゃったんだよね。それも全部、病気のせいなんだよ」

「ほんとに、すずがいったからじゃないの?」

「うん、そうだよ」

「じゃあ、おかあさんがおこったから?」

「ん?」

「すずがもっといいこだったら、おかあさんはしななかったんだよね?」

「鈴、それはどう云う事?」

「すずが、まえにおもらししたから、おかあさんがおこって、しんじゃったんだよね」

「鈴! それも違うよ」

 鈴の潤む目が透に縋る。

「鈴は今、お漏らしして――― そうか、そう云う事か!」

 透が目を見開くと、鈴を見つめる。

「鈴? 鈴は今、おねしょしてるのは、お母さんが罰を与えてるとか思ってない?」

 鈴が頷く。

「じゃあ、鈴は、お母さんがそんな事をすると思ってる?」

 鈴が必死に首を振る。

 縋る目が透で止まる。

「……わるいことすると、おかあさんはこわいの。でも、おかあさんは、すずのこと、ぶったりしたことなかったのに……」

 やはり鈴は母親の死と云う衝撃に理不尽さも考えられずに、自分を責めている。打たれる程の悪い事をしたんだと無理やり自分を納得させている。鈴の可弱い心はずっとそのストレスに耐えていたのか。

 天女はもう死んだ。鈴に訂正させて謝罪する事も出来ない。今、それが出来るのは透しかいない。それを知らずに、最初のおねしょの兆候で異変に気付かなかった自分に虫唾が走る。 

 透はまた、心の中で胸を掻き毟る。鈴に気が回らなかった後悔は、ドーナツリングの闇の深さを認識させた。

 掻き毟った傷跡は、天女からの罰の様に透を鞭打つ。

 鈴を叩いた手で、天女が胸に鞭打ちの跡を残す。

 鈴を叱責した口から、怒声が飛ぶ。「鈴のこと、お願いって言ったでしょ! 鈴はもう、あなたしかいないんだよ!」

 父親の未熟な自信が揺らぐ。

 錯乱の天女が女神の天女に変わった。

「ほらぁ、ちゃんとして、お父さん」透に温もりを授けた手が、透の尻を叩く。

「ほらぁ、ちゃんと、鈴を見て」透に温もりを囁いた口が、まだ間に合うと言う。

 鈴の背後にあった意識が鈴へと戻ってくる。すると、そのドーナツリングの闇に光明が現れた。

「鈴のおねしょはね、お父さんに対する罰なんだよ」

「え? おとおさんの?」

「うん、そうだよ。お母さんはね、ちゃんと鈴の事を見なさ~いって、鈴を使ってお父さんに知らせてるんだよ。今、お父さんそれに気がついちゃったから、明日から鈴はもう、おねしょしなくなるぞ~」

「え~ ほんとぉ~」

「本当だ、多分。だから、鈴! 鈴は、なぁ~んにも悪くないんだぞ!」

「うん、わかった」

「お父さん、ちゃんと頑張るからな。鈴に心配かけて、ごめんな」

「うん}

 鈴が爽快に微笑む。

 透の鼻に奈々の匂いが広がった。

 透に悶々とした煩悩が湧き上がる。 

「鈴、やっぱりお父さんの部屋で寝ようか」

「え! いいのぉ~~」

 透が鈴を抱き上げる。

「きゃ~ おひめさまだ~」

「鈴は、世界で一番のお姫様だよ」

 透は鈴を部屋までお姫様抱っこで運ぶ。

 鈴は初めて透のベットで寝る事になって、上々の気分になっていた。

「おとおさんのうでで、まくらしてぇ~」

 腕枕で甘える鈴に、透も甘える。

「なあ、鈴。お父さんも鈴の事、スッチーって呼んでもいいかなぁ?」

 鈴が一瞬戸惑った顔をしたが、直ぐに「うん、いいよぉ」と返した。

 透が満面の笑みで言う。

「そん時は目一杯、甘えてもいいんだぞ」

「じゃあ、おとおさ~ん」

「なんだ鈴」

「パパっていっていい?」

「いいぞ、スッチー」

「パパ~♪」




トトトトトトトトトトトトトトトトトトトト




 洗い物が片付いて一休みしていると、真音からメールが届いた。

 タイトルは『お大事に』だった。

 画像が添付されている。

 天女桜の前で抱き合いキスする透と奈々の写真。

 お大事にの意味は、奈々を大事にしろと云う意味か、それともご愁傷様と云う意味か、どちらにも取れる。真音の事だから後ろの意味だろう。

 透は返信した。

『おまえとのキスシーンが撮られてなくてよかったよ』


 また、真音から来た。

 タイトルは『永久保存版』

 奈々が真っ赤になって、満面の笑みを浮かべる最高に可愛い写真。

 下に説明文が―――ファーストキッスの余韻。


 直後にまた来た。

 タイトルは『永久保存版2』

 あどけない奈々のパンチラ写真。

 説明文は―――16の恥じらい。


 透の驚愕が真音への嫉妬に変わっていく。

『奈々は俺のもの!』と入力し直ぐに消す。

『二度とやるな!』と返信。

『ラジャー』あっという間の返答にびっくり。


 また真音から来た。今度はメッセージのみ。

『寝顔と水着の写真もあるけどほしい?』


 透は苦笑いを含んだ。真音に対し嗜虐心が沸く。

 透は躊躇った末、以下の文を返信。

『真音のヌード写真がほしい』


 真音の反応が途絶えた。

 透は満足そうに微笑む。


 忘れた頃にやっと返信が来た。

 タイトルは『全裸だよ(キスマーク)』

 太腿から下の生足写真だった。

『肌綺麗だな。上はまだ?』送信。

『スケベ~ 奈々に言いつける!』返信。

『俺も奈々に言いつける』

『ごめん 停戦しよう』

『降伏を受諾する。賠償は・・・残りの部分の写真でいいや』

『本当に私の裸を見たい?』

『いや、見たくない!』

『Booooooooooo!!!』


『スリーサイズなら教えるよ?』

『知りたくない!』速答。


『B85 W50 H80』

『Bは盛りすぎ!』

『誤差は+-5で~す』

『誤差ありすぎ、じゃあBは80か?』

『エ~ン(´;ω;`)』


『奈々と足して2で割ってこい』

『もうやった』

『どうやって?』

『もみもみ』

『さらば』


 また真音から来た、と思ったら奈々からだった。

『保育園は何時に預けるの?』

『7時に出ないと遅刻するから、六時半に出る』

『解った。それに合わせて行くね。じゃあ、おやすむなさい(キスマーク)』

『今日は、ありがとう、おやすみ』


 少しして真音からまた来た。

『私にはおやすみ言ってくれないんだ(´;ω;`)』

『おやすみ』仕方なく送る。

『何か冷た~い でもいいや おやすみ 透ちゃん(ハート)』

『やっぱりやめだ! 奈々が嫉妬するから今後はやらないぞ! 俺は奈々の彼氏だからな! 一応』思わずハートマークにマジレスした。

『エ~ン(´;ω;`)』


 少しして、もう来ないだろうと思うと、別のメールを開く。

 昼間に与音から来ていたメールを確認する。

『鈴ちゃんを寝かして一人になったら、照代さんの鐘を四回叩いて下さい。そうしたら伺って話したい事があります。尚、この話は他言無用でお願いします』

 夜に与音が家に来ると云う不穏な内容だった。只、鐘を四回鳴らす意味がさっぱり解らなかった。照代の鐘とはキッチンの打鐘の事だろう。この呼び名も良く解らない。が、照代とは透の祖母の名だ。取り付けたのがお婆ちゃんなのだろう。実は、透は土夏家の謂れや仕来りをよく聞かされていなかった。昔、隣に土夏神社があって、家がその神主の家系で、食前食後の唄があって、開かずの間が存在する事、それぐらいしか知らなかった。その理由は、透が嗣子ではなかったからだろう。嗣子は兄貴で、突然事故で父、母、兄を失った。父は兄には色々話していたんだと思う。だから、伝承するような重要な話があったのなら―――それは、失伝と云う事になる。

 透はこの事を思い出して、何か嫌な予感が働く。

 昼の与音の言葉―――天女の引き継ぎ、奈々を守る、この言葉が奇妙に引っかかる。

 与音の辛島家には何かがあるんだろうか……

 透は打鐘に向かい、木槌を取る。

 [近所迷惑、使用禁止]の張り紙を剥がした。

 [照代の鐘]を四回叩く。

 コーンと少し甲高い音が四回木霊する。周り近所にまで響く程だ。

 透はじっと待った。

 鈴が起きださないかと後悔しながら。

 何が始まるのか解らないと不安になりながら。


 与音から確認メールがあってから半時程経った。

 玄関の呼び鈴が鳴った。

 透は客の与音に義務感を纏(まと)って、玄関のドアを開ける。

「こんばんわ、透ちゃん。まさか鈴ちゃんがこんなに早く寝るとは思わなくて、準備に時間がかかっちゃったよ。鈴ちゃん、寝てるんだよね?」

「ああ、鈴はもう寝たよ」

 そう言った透が与音を見ると、その後ろに他にも誰かが居る事に気付く。

 迎える客は与音だけではなかった。

「取り敢えず、上がって」

 与音を通すとその二人が寄り添って入ってきた。

 透は二人共知っている。

 一人は米津(よねづ) 舞(まい)、透の二つ上の歳で、肌が真っ白の白子だった。所謂、アルビノだ。真っ赤な瞳を向けると透に話しかけた。

「透ちゃん、お久しぶり、元気になってよかったね」

「久しぶり、舞ちゃん。綺麗なお姉さんになったね」

 舞はにっこりと微笑む。人見知りの舞が昔馴染みの透に旧知の安堵感を漂わす。

 その舞にしがみついて手を取られているのが、もう一人の旧知、海老名(えびな) 真夜(まよ)。多分、二十代半ばだったか。彼女は目を閉じていた。彼女は全盲だった。昔、閉じた眼を開いて見せてもらった時、その瞳が白濁した翡翠色だった事を思い出す。

「透ちゃん、この度はご愁傷様でした」軽く会釈した。

「真夜姉ちゃんも、お久しぶり。出歩いても大丈夫なの?」

「大丈夫ですよ。夜に押しかけてごめんなさいね」

「別に構わないよ。それに、舞ちゃんが来るんなら、夜じゃないと駄目だしね」

 舞は直射日光を浴びると火傷するので昼に出歩けない。

「取り敢えず、上がって」

 透は真夜から白杖を預かると傘立てに置いた。

 透が空いた手を取る。

「透ちゃんの手は、暖かいですね」

「じゃあ、ここに段差があるから、足を上げて」

 透は抱くように真夜の脚を補助して、床に上げる。

「あらぁ、相変わらず透ちゃんは優しいのね」赤目が細まる。

「え! 目が見えないんだから当然だろ。別に、これぐらい普通だよ」

 真夜の両手を取ると、脇に寄り添いリビングへと導く。

 透はお茶を淹(い)れる。

 抽出の待ち時間に三人の共通点を謂(おも)う。

 三人の家は元土夏神社の氏子だ。

 辛島家は裏庭に隣接し、元氏子の中でも乙名役の一つだった。

 米津家は通りに面する隣家で、もう一つの元乙名役だ。

 最後の海老名家は米津家の反対側の隣家で、元氏子筆頭役だった。

 この三人から推測されるのは、土夏神社の件で間違いないだろう。

 透は不安を抱きながら淹れたお茶を運ぶ。

 向かいに真夜と舞、透の隣には与音が座る。

 舞の手が真夜の手を添え茶碗に誘導する。

 真夜が茶碗に鼻を寄せ香りを嗜む。

「流石です透ちゃん、夜だからほうじ茶ですね」笑を讃えると一口すする。

「茶受けは出さないよ」

「私は夜行性だから、玉露でもよかったのに」舞はちょっとふざけ気味だ。

 舞が同じように誘導し茶碗を戻す。

 全員が茶を一口すすると、与音がコホンと咳払いをする。

 辛島家代表が進行役を始めた。

「それでは本題に入ります。透ちゃんは聞いた事ない? 土夏神社の呪いって」

「土夏家の女は非業の死を遂げるって話だろ?」

「そう、それなんだけどね、今回、天女が亡くなって、やっぱりって感じで、三家のお婆ちゃん達が騒いでるのよね。だから、鎮魂祭をしないかって事で、宗家の透ちゃんにお願いできないかなってお話なの」

「俺には無理だよ。俺は鎮魂祭なんて神道の行事は何にも知らされてないもん」

「そう、やっぱりそうだったか。でも大丈夫、ちゃんと海老名家に残ってるから。ね、そうだよね、真夜姉ちゃん?」

 海老名家代表が答える。

「はい、そこは大丈夫です。三家の力を借りて復活は可能だと考えます。後は、透ちゃんの宗家の了承があれば、問題はありません」

 米津家代表も答える。

「家も万全に協力するよ。夜だけ、だけどね」

 土夏宗家代表は考える。

 透は親指と人差し指を顎に付けて、しばし黙考する。

 なかなか決断しない透に、与音が気持ちをぶつける。 

「あと、お婆ちゃん達が騒いでいる理由は他にもあるの、私達のこの先天性の不具はね、やっぱり、呪いなんじゃないかって―――」

 真夜が与音を遮る。

「待って、与音ちゃん。それは私の役目。だから、私に言わせて」

「分かったよ。真夜姉ちゃん」

 真夜は直ぐに話さず間を取った。

「……三人の代表として、話しますが、私の盲(めしい)、舞の白子(しらこ)、与音の双成(ふたなり)、これは、丁度、土夏家に女の子が産まれなかった頃に符合します。透ちゃんは輝ちゃんとの男兄弟でしたよね。だから、本家の呪いの代わりに、周りの元乙名の三家に散ったんじゃないかって考えられていました。まあ、全ては非科学的なんですが、でも呪いって、科学的に説明できない事の言い訳には丁度いいんですよね。前置きはこれぐらいとして、それでは本題に入りましょう」

 真夜は一息つくと溜息を吐く。 

「最初に言っておきますが、私達は決して宗家を恨んでなんかいません、そこの処は勘違いしないで下さい。話を聞きますと、達盛(たつもり)小父さんは息子の透ちゃんには何にも話してはいなかった様ですね。まあ、それは透ちゃんが嫡子じゃなかったから、仕方がない事なのでしょうけど。おいそれとは話せる事じゃないですからね、呪いなんて物は…… でも、その事はもう気にしないでいいんですよ、先に言った様に私達が、いえ、海老名家が諸々の神事の示唆を致しますので、そこは安心してお任せして頂きたいと思います。そして、今回のお願いなんですが、唯一の神官宗家の透ちゃんに斎主を執り行って頂き、鎮魂祭を催して頂きたいのです。因みに、鎮魂祭とは慰霊祭で、仏式の葬式みたいなものだと思って下さい。しかし、葬式が成仏を目的とするのとは違って、死んだものを慰霊する事が主の目的ではありません。本当の目的は残った者に慰撫を与える事なんです」

「真夜姉ちゃんの言いたい事は解った。そもそも、鎮魂祭って謂うからには、鎮魂する対象があるんだよね、それは何なの? それが呪いの元凶なの?」

「そうでした、ごめんなさい。透ちゃんは何も知らないんでしたね。そこら辺の伝承は折を見てお話するとして、簡単に言うと、元凶は土夏桜です。神の御社(みやしろ)亡き今、同時に伐採された御神体は祟神(たたりがみ)となって人へと恨みが返ってきたのだと云う話です。それと、達盛小父さんなんですけど、結婚した孝枝(たかえ)小母さんが呪いなんか全く信じない人で、それに合わせる様に無関心だったそうなんです。だから、お婆ちゃん達から結構、愚痴を聞かされていました。そう云う事も今回の開催に絡んでくるんです」

「そうか、薄々そんな事じゃないかとは思っていたんだ。確かにお袋は迷信なんか全く信じない人だったよ。それより、真夜姉ちゃんは何でそんなに詳しいのかな?」

「私はですね、こんな形(なり)ですから、何でこんな風に産まれたのかなって思うと、自然と呪いに関心が湧いてきたのですよ。だから旧土夏神社の話をお婆ちゃんから良く聞くようになちゃってたんですね。気が付いたら語り部みたいになっていて、何か私、琵琶法師みたいですよね」照れ隠しに微笑む。

「ごめん、余計なこと訊いて……」

 三人が揃って頷くと気まずい空気が漂う。

 言いたい事は終わったのだろう。沈黙が続くと三人が同時に透へ顔を向けた。決断を迫る様に真剣な表情が並ぶ。

 母親に似て迷信を信じない透は、未だ決断できない。

 すっと真夜の手が伸びた。舞が添えて茶を一口すする。

 添えた手を離すと、舞が言った。

「あと、鎮魂祭は私達の為でもあるのよ。決して治る病ではないんだけど、やっぱり私達も怖いんだよね、透ちゃんの宗家が鎮魂祭を執り行ってくれるなら、凄く安心するんだけどな~ だから透ちゃん、うんと言ってくれないかなぁ」

 真夜が続く。

「そうしたら今度ね、鎮魂祭が終わったら、透ちゃんに話してあげますよ、土夏神社の顛末をね……」

 透は考え込んだ。

 実は結論は出ている。透は鎮魂祭を受ける気はないのだ。真摯に頼み込む三人に対して、うまい言い訳が見つからないのだ。母親の様に迷信だと一蹴する事もできるが、そんな無碍な態度は取りたくない。三人供、妙に信心深いので一笑に付すなんてとても出来ない。

 与音が察した様に顔を近づける。

 与音は堪らず気持ちをぶつけた。

「それからね、鈴ちゃんなんだけど、久しぶりに産まれた土夏家の娘じゃない、大人になった頃がとても心配なの。このまま迷信通りなら、怖いことになりそうじゃない? 透ちゃんはどう? 心配にならない?」

 透は薄々と予見していた事ではあったが、雷に撃たれた様に刮目する。

「解った! 但し、一つ条件がある。そこに一人巫女として参加させてほしい人がいるんだ」

 透は鈴の事を考えたら自分の信念などどうでもよくなった。咄嗟に過ぎった奈々の要望まで思い出し、即、了承してしまった。

「ありがとう、透ちゃん」与音の安堵。

「優しいのね、透ちゃん」舞の感激。

「流石、透ちゃんです」真夜の信頼。

 透は三人の期待を一身に受ける。

 真夜が要望に答える。

「一応、祭りの段取りとかは考えてあるんですよ。透ちゃんが禰宜(ねぎ)役、他に初音巫女(はつねみこ)役一名を筆頭に巫女役若干名、だから、一人と言わず、出来るだけ若い生娘を引っ掛けてきて下さい。透ちゃんならお得意ですよね。因みに、舞ちゃんは流歌(るか)役、与音ちゃんは鳴子(めいこ)役、私くしはサニワ(審神者)を担当する依代役です。以上の様式は、土夏神社の絵依流(えいりゅう)です。日程、時間は改めて連絡させて頂きます」

 与音と舞が打ち合わせ済の様に「はい」と声を揃える。

 透は粛々と進む話に唖然と見つめる。

「……若干って、具体的には何人必要なの?」

「ん~ 二・三人ってとこですかね? 巫女舞は舞ちゃんが指導しますので、余程運動が苦手でなければ大丈夫ですよ。あと、出来れば見栄えが良い方をお願いします」

「はい、日本舞踊の心得もありますので、私にお任せくださいねぇ」これも打ち合わせ済みの様だ。

 透が嘆息の息を吐く。

「真夜姉ちゃんには、何か、宗家の役目を押し付けちゃってるみたいだね。ありがとう、真夜姉ちゃん」

「いいえ、私でよければ、いくらでも協力しますよ」

 真夜が茶を取ろうと手を伸ばす。

 何故か舞が介助しない。

 透が咄嗟に真夜の手を取る。

 真夜が固まった。

「透ちゃんは、本当は乗り気じゃなかったでしょ?」

「え! 何で判ったの?」

「私、触れた人の心が読める様になったのよね」

「う、うそ!」

「嘘よ。只の女の勘」

「なんだぁ~」

 真夜が手を振り解くと立ち上がる。

 透の視線が真夜の顔を追う。

 真夜の瞼が突然開いた。

 翡翠色の瞳が透を射抜く。

「透ちゃん、こっちに来て」見えない筈の目が透に集点が合う。

 透は暗示にかけられた様に無抵抗に従う。

「ねえ透ちゃん、透ちゃんの事、もっとよく見せてよ」

 透が目前で屈む。

「どうぞ」

 真夜はぺたぺたと透の顔を触る。

「透ちゃん、いい男になったねぇ」

 透がくすぐったそうに甘える。

「止めてよ。真夜姉ちゃん」

 真夜の手が髪から腹まで徘徊する。

 突然、抱きついた。

「会いたかったよ、透ちゃん」

 透はほとぼりが冷めるまで動かなかった。

 真夜が手を離す。

「それじゃあ、次は、私」舞が飛び込む。

「え! 舞ちゃんまで」透は拒否しなかった。

「はぁ~~ 会いたかったよ~」舞は色っぽい声を出す。

 舞が手を離す。

 すると当然、与音も動く。

 与音は透の目前で止まる。

「透ちゃん? 責任を取るって約束、覚えてる?」

「あっ! え~と、覚えてるけど……」

「あれね、只の口約束だから! 子供の頃の口約束だから……」

 与音が飛び込む。

 与音は最後の別れの様に透を締め付ける。

 透の息が漏れる。けれど、透は耐えていた。

 与音が離れて全員が席に戻る。

 真夜が待ってた様に話しだした。

「そう云えば、昼間にお母さんが照代さんの鐘を確かめに伺ったらしいのよ。その時にね。若い娘さんが出てきたんだって。ねえ、その娘、だあれ~ お姉ちゃんに言ってごらんなさい」

 真夜は与音から聞いていると思われるが、そこは態(わざ)とらしく訊いてきたと云う塩梅だ。

「えっ! 何? もう、次の女がいるの~」こちらも態とらしい。

 舞は調子付いて破目を外した。

「透ちゃんは、やっぱり、女なしじゃ生きていけない人だったんだ。そんなら、こんな近くにいい女がいるんだから、声を掛けてよ~ 因みに、私、今日は大丈夫だよ」

 透は思わず与音に視線を移す。

 与音がじっと見つめる。

「与音ちゃん? 奈々の事、話してないの?」

「え? 誰それ?」

「何言ってんだよ、今日、あったじゃない」

「嘘よ、今のはね、皆で透ちゃんをからかってたのよ」

 うふふふと女性陣の嘲笑が広がる。

 透が苦笑いで答える。

「透ちゃんって、子供の頃から女の子に囲まれて、凄く可愛がられてたわよね、だからこんなに優しくていい男になったのかしらぁ、まあ、その女の子ってのは私達なんだけどね~」舞がまた調子に乗る。

「天女も心残りだっただろうなぁ」与音が呟く。

 真夜の笑顔が傍と戻る。

「そう云えば、天女さんへのご挨拶忘れてるじゃない。本当は一番に済ませなければならなかったのに」

「そうだね、私達は葬儀にも参列しなかったんだから、尚更だよ」

 与音以外は葬儀に参列していない。

 透が仏間へと案内する。

 導かれた真夜は土夏神社絵依流の祝詞(のりと)を披露したいと言う。本番までに透に覚えてもらう準備として。

 透が了承すると、真夜が祝詞を奏上した。

 土夏家のご先祖が、屋敷が、そして透の血が―――神妙に震える。

 透は神妙な面持ちのまま、三人を見送った。

 帰り間際、舞ちゃんが両掌を頭の上に立て獣耳の真似をした。

 それは透にだけ理解できる暗号だった。

 透が昔付けた渾名、白兎の―――

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