死の匂い
鯨飲
死の匂い
私は死の匂いを感じます。死期が近づいている人からそれは香るのです。死ぬ時が迫るにつれて、匂いは強くなります。
またその人が死を自覚しているか、していないかに関わらず匂いは放たれます。それは、何ていうか甘辛い匂いです。
つまり私には人の死期が分かるのです。占星術や超人間的な能力ではなく、人間に機能として備わっている、五感のうちの一つが他人よりも繊細なだけに過ぎません。少なくともそう信じたいです。他人とは異なる能力が備わっているだなんて、あまり思いたくないのです。普通が一番です。
より正確に言うと、多くの人間と同じような構造や生き方だと、悩みを共有できるので、生きていく上でとても楽だと思うのです。
私が初めて、この匂いを感じたのは、小学生のころです。ニコニコ笑顔の祖母からは、とても甘辛い匂いがしました。私はその匂いの出処が祖母だとは思いませんでした。
戸棚の中に入っている、おかきか何かの匂いだと思いました。その二日後に、祖母は交通事故で帰らぬ人となりました。
この体験だけでは、私は死の匂いを感じ取れるとは思いませんでした。しかし、この匂いというのは、直接人と会っていなくても香るのです。
若いミュージシャンがテレビに出ている時にも、その匂いを感じました。そしてその一週間後、彼は自殺しました。同じような体験を、私は過去に十四回しています。
人の死期が分かるというのは、気分が良いものとは言えません。だから私は対面でのコミュニケーションが苦手です。もし、目の前の人から甘辛い匂いがしたらどうしよう、という気持ちになり、話どころではなくなるからです。
なので、私は大勢の人がいるところを好みます。なぜなら、多くの人が行きかう道を歩いていると、甘辛さが鼻に来ることがありますが、その時、どの人から匂いがしているかまでは特定できないので、幾分か気は楽なのです。
いつかの金曜日、私は部活動で遅くなって、一人で暗い道を歩いていました。人通りはなく、そこにいるのは私だけで、まるでこの道を支配したかのような感覚に襲われていました。
しかし、いつもとは少し異なる甘辛い匂いがその感覚を中断させました。いつもよりもニ倍ほど濃い匂いです。今にも死んでしまうような人の匂いです。
思わず振り返って見てみると、一人きりだと思っていたその道には、後ろにもう一人、違う人間がいたのです。今は追い風、匂いの源泉は間違いなく、後方の男性です。彼はヘッドホンをつけながら、頼りない足取りで夜道を歩いていました。
いつもなら、甘辛い匂いがしても、本人に興味を示さないように努めているのですが、不思議と彼に目を惹かれました。そこで私は「どうせ明日は休みだし」と思い、彼を尾行することにしました。
彼に追い抜いて貰わないと、尾行することはできないため、私は歩く速度を遅くしました。そして、彼が私を追い越す瞬間にも、強い匂いがしました。
彼は頼りない足取りですが、目的地がはっきりしているためでしょうか、止まることなく進んでいきます。
やがて、一つのペナントも入っていない、廃ビルの前に着きました。彼は迷うことなく、その中に入っていきました。
私も彼に続いて入っていきました。上へ上へと進んでいきます。バレないように、なるべく私は足音をたてずに付いていきます。そして屋上に出ました。
彼は後ろを振り返ることなく、設置されている柵の方へ進んでいきます。そして柵を乗り越え飛び降りようとしています。
しかし彼は躊躇しています。私は、彼の自殺を止めようと思いましたが、彼の抱えている苦悩を1グラムも理解していないので、止めるのも、どこか自分勝手だと感じ、止めることはしませんでした。
しかし、死んで欲しいとは思っていないので、思わず人には聞こえないほどの小さな声で
「やめて」
と呟いてしまいました。すると、彼はこちらを振り向きました。止めてくれるのを待っていたのでしょうか、彼は少し笑顔でした。彼はその笑顔を引っ込めて、ヘッドホンを取り、こちらへ駆け寄ってきました。
「こんばんは、あなたはここで何をしているのですか?もしかして順番待ち?自殺の順番待ち?だったらお先にどうぞ。僕は今日中に死ねる気がしません」
そう言われて私は、
「いつもとは少し違う甘辛い匂いがしたからあなたに付いてきたんです」
と言う訳にも行かないので、
「そうです。死にに来たんです」
と思わず嘘で返してしまいました。
すると、彼は「そう」とだけ言い、その場にへたり込むように座りました。そして、聞いてもいないのに、苦悩を語り始めました。
「僕はね、耳が良すぎるんだよ。そのせいで聞きたくないことまで聞こえてしまう。自分への悪口とかね。うんざりするんだ。自分に向けられた悪口でないにしても、他の奴らが話してることとかが、一気に僕の耳の中に入ってくるんだ。一日中ずっーと何かしらの音が聞こえてくる。だからこれをつけてるんだよね」
そう言って彼は、身に着けているヘッドホンを指差しました。
「これ着けて、爆音の音楽を流しているんだよね。それでも聞こえてしまう時はあるけど」
私は、「へぇ」とだけ返しました。しかし、その素っ気なさとは裏腹に、彼に対して、親近感を覚えていました。なぜなら、彼もまた尖すぎる五感に関する悩みを抱えていたからです。
「あなたは、どうして死にたいの?」
そう聞かれて、私は、どう答えようかと悩みましたが、どうせ嘘を言ってもバレないので、
「仕事のことで…」
と返しておきました。彼もそれ以上は深く聞いてきませんでした。そして彼は話を再開しました。
「いやー、今日は死ねると思ったんだけどねー。思い残したことがあるとやっぱり死ねないのかねー」
「思い残したことって何ですか?」
「えーとね、それはね…」
と言いながら、彼は立ち上がり、その辺に落ちていた、ビール缶を五個ほど拾い、縦に積み上げ始めました。
その後、完成したタワーを思いっきり蹴り飛ばしました。甲高い音が夜空に響き渡ります。そして、恍惚そうな表情でこう続けました、
「僕ね、普段から様々な音を聞きすぎて、音にめちゃくちゃ敏感になってるんだよね。だからこんな感じの、普段あまり聞くことがない音とか、今まで聞いたことがない音を、常日頃から求めてるんだ。」
「だから、この世に存在する、まだ聞いたことがない音、それを聞くまでは死ねないのかもね。それと、僕は音に対して、受動的な態度を取ってきたから、僕自らの働きかけで、これまで聞いたことがないような音を発生させてから死にたいんだ」
なんだか、分かるようで、よく分からない理論です。音に支配される生活で、心まで音に支配されてしまったのでしょうか。そう考えていると彼は、新たな質問を投げかけてきました。
「あなた、遺書は書いてきたの?」
書いてるわけがありません。死にたくないし。でも、ここで、「私自殺しに来たんじゃなんです。あなたのことを見に来たんです」と言うわけにもいかないので、こう返しました。
「忘れてました」
「えぇ!忘れたの!そんなに突発的に死にに来たの?書いといた方がいいよ?嫌いな奴の名前書いて、原因をそいつのせいにしといたらいいじゃん」
こいつ最低すぎだろ。
「いやー、でも忘れちゃったものは仕方ないかなって」
「紙とペンなら持ってるよ、貸してあげる。まぁ、最期だから返せないと思うけど」
自殺する前の人間って冗談を言うぐらいには余裕がある、妙なテンションだなぁと思いながら私は、
「じゃあ、折角なんで、借ります。今から書きます」
そうして、遺書を書くはめになったのですが、これが難しい。思っても無いことを書くのってこんなにも難しいのか。私は、適当に、存在しない恨みや苦悩を書き連ねておきました。
「できました」
「おぉ、結構時間かかったね」
「まぁ、色々書きたいことがあったからですね」
「スッキリした?」
「ええ、まあ…」
「どうする?もう死ぬの?本当に死にたい?」
なんだか、彼はさっきよりも瞳孔が開いています。何だか、Noとは言わせないという思いが感じ取られます。私は、その圧に負けて、
「はい…」
と、また嘘をついてしまいました。
「そうなんだ。はぁ…そうか。そうなんだ。へぇ…」
彼は、何かを噛みしめるかのように呟いています。
そして、
「んー、一回見てみたら?これから自殺する現場のことを」
やけに落ち着いた口調で、彼は私に進言してきます。ここで断って、彼に「自殺する気ないの?冷やかし?もしかして、僕が自殺するのを見に来たの?」と言われても、嫌なので、私は、
「じゃあ見てみます」
と返事をしました。
立ち上がり、柵を越え、私はビル壁の端に立ちました。下にある街灯が、今にも消えそうに、チカチカと点灯しています。
このビルは七階建て、ここから飛び降りると間違いなく死にます。転落死って、どんな感じなんだろう?痛みは一瞬なのかな?滞空時間はどのくらい?などと色々考えて、彼に質問しようと、振り返りました。
「あの、」
トンッ
と、優しく私は押されました。本当にソフトタッチでした。私を押した彼の顔は、限定のケーキを買おうと、並んで待ってる子供のような表情でした。
グチャ
「へー、こんな音なんだ。聞けてよかった」
「それじゃあ、僕もそろそろ…」
「15日未明、○✕市内の路上で、男女二人の遺体が発見されました。また道路沿いのビルの屋上には二通の遺書が残されており、警察は、男女二人が心中を図ったものとして、捜査を進めています」
死の匂い 鯨飲 @yukidaruma8
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