第33話 監禁された雅

 ヘアーのお話で怒らせた帰り、家に着くまで一言も口を聞いてくれなかった。


 黙って家に入る雅。


 自室に戻り、悩んでいると電話が掛かってきた。嫁ちゃんからだ。


「はい」

『……さっきはごめん』

「えっ」

『私も一方的だった』

「いや、俺の方こそ」

『……ふふふ』


 電話越しに雅の笑い声が聞こえる。機嫌を直してくれて本当に嬉しかった。


「ねえ、久しぶりにカーテン開けてよ」

『えーーー、どうしよっかなーーーー』

「お願いだ」


 カーテンを開けて待っていると、雅側のカーテンが開く。


「あっ、また白ふわパジャマだ」

『あんまりジロジロ見ないでよ』

「俺、可愛いものには目がないんだ」

『ばか』

「美術部の初めての活動、楽しみだね」

『まあね。あの子たち良い子だからね。癒されるわ』

「俺たち、良い人と巡り会ってるね。運が良いよ」

『そうね。感謝しないとね』


 俺は思いの丈を雅にぶつけた。


「けど、一番神様に感謝してるのは……」

『なに?』

「雅と出会えたことさ!」

『――ッ! ば、バカじゃないのっ!』

「うそじゃない! 俺の目を見てっ!」

『……』


 じーっと雅を見つめると、


『も、もう寝るから。じゃあ!』

「あっ!」


 そう言って電話を切り、カーテンを閉める雅。恥ずかしがり屋ちゃんめ。そんなやりとりをしながら夜は更けていくのだった。




* * * * * *




 それから暫く経ち、日曜日がやってきた。公園に朝十時集合なので、雅と一緒に家を出る。


「おはよう、雅」

「ええ、おはよ。良い天気で良かったわね」

「そうだね。それじゃあ、はい」


 俺は左手を差し出す。だが、


「き、今日はやめとく」

「えっ、なんで?」

「なんとなく」

「そんなぁ」

「ふふふ、行くわよ」


 手つなぎはお預けされ、横を歩いて公園を目指した。


 集合場所に向かうと、若菜ちゃん達は先に到着していた。


「早いね」

「はい。準備があるので」


 見ると、材料で溢れていた。ふたりで持って来るのはさぞ大変だっただろう。


「手伝えなくてごめんね」

「良いんですよ。誘ったのは私たちからなんですから」

「じゃあ、早速描くんだね?」

「そうです。これが道具になります。使い方を説明しますね」


 パレットに絵の具を落とし、器用に混ぜていく。どんどん色が増え、豊かになっていく。

 雅は琴音ちゃんに教わっている。


「へえ、器用ねえ」

「そんなことないですよ。雅先輩もすぐにできます」

「そうかしら」


 とても楽しそうだ。

 俺は若菜ちゃんに教わっているのだが、道具に手を伸ばす度にたゆんたゆんするので、全く集中できない。これではパレットの色合いよりも俺の妄想の方が豊かになってしまう。


「はい! やってみて下さい」

「え、あ、ああ、そうだね」


 教わったように混ぜるのだが、汚らしい色にしかならない。心の色を反映しているのだろうか。


「うわっ、アンタの汚い色ね」

「やっぱりそう見える? うまくいかないなぁ。俺、美術の成績も悪いからなぁ」

「貸して、やってあげる」


 ズボンを穿いた雅がしゃがんで絵の具を混ぜている。俺は立って後ろからその様子を観察する。

 ふと、胸元に目をやると、上着の首元から中が見えそうだ。


「これをこうして」

「ふむふむ」


 俺は雅に相槌を打ちながら覗く。もう少しだ。もう少しでブラちらだ。


「ひゃっ!」

「――ッ!」


 上を見上げた雅にバレてしまった。すぐに胸元に手を置かれる。


「み、見た?」

「見てない、見てない」

「それなら良いけど。って、アンタ、教えてんのにサイッテ―」

「ごめん。悪気は無かったんだ」

「ものすごく前傾姿勢だったじゃないっ!」

「すみません」


 そのやり取りを見ていた若菜ちゃんが、


「お二人、本当に仲が良いですね。羨ましいです」

「そ、そんなことないわっ。私たちはそんな関係じゃ……」


 俺が雅の本音を言ってみた。


「雅は俺にぞっこんなのさ」

「や、やめてよっ! ばかっ!」


 ようやく準備が終わり、皆で絵を描き始めた。公園の中にある池を描くのだが、俺が描くと寝小便の敷布団にしか見えない。どうしよう。

 今度は琴音ちゃんに聞いてみる。


「あのぉ、寝小便にしかならないんだけど」

「えーーー、なんでこんななるんですか?」

「ごめん」

「ここはこうして」


 琴音ちゃんには鏡花と同じような印象を受ける。とてもしっかりしていて頼りがいがある。男が頼っていてはダメなのだが。


「はい、これでどうですか?」

「おおっ! 池に見える」

「光が当たっている所に白を加えるんですよ。そうすると、反射してる感じが出るんです」

「素晴らしい」


 プロの二人はさておき、雅の絵の腕前を見てやろう。俺と大差ないかもしれない。


「雅、どう?」

「ああ、あんまりね。ほらっ」

「な、なにっ!」


 素人だと言っていたはずなのに、二人と比べても遜色ない出来栄えだった。


「ヒドイ! 不公平だ!」

「えっ、何が?」

「全てを与えられた者と、全てを奪われた者の違い。神はなんて不公平なんだ」

「大げさよ。こんなのへたっぴよ」

「それなら俺のを見てごらん。プロが手直ししてコレだ。手直し前は小便たれだった」

「ぷっ、はははは!」

「なっ! 酷いぞ雅」

「ごめんごめん。あまりに下手なもんだから」

「ぷっ、ふふふ。自分でも笑えてくるよ」


 雅の笑いにつられて笑ってしまう。雅は人を幸せにする素質がある。

 雅がすっと立ち上がり、


「私、トイレに行ってくるわ」

「うん」


 雅がトイレに行っている間に、少しでも上達しなければならない。俺は懸命に筆を走らせた。だが、結果として寝小便が放尿に進化した程度だった。とても悲しい。


 気付けば三十分ほど過ぎていた。だが、雅が戻ってこない。


 ――まさかっ、トイレで襲われたんじゃないだろうなっ!


 公園のトイレは物騒だと聞く。レ○プ被害も多いらしい。そんなことになろうものなら、雅の初めてが汚らしいクソッたれに奪われてしまう。俺は血相を変え、トイレに走った。


 トイレ付近に差し掛かると、叫び声が聞こえる。やはり襲われているんだ、そう確信した。

 女子トイレに入ると、そこには誰もおらず、


「雅! どこだっ!」

「あっ! 和哉、良いところにっ! 助けてっ!」

「やっぱりっ! レ○プ魔めっ! 俺が成敗してくれるっ!」

「ちょっと、何の話をしてるのよっ! 扉が開かないのよ!」

「へっ!?」


 俺は雅が入っているトイレの扉の前に立つ。


「全然、びくともしないのよっ! 何とかしてよっ!」

「よしっ! 任せろっ!」


 力いっぱい引っ張ってみるが、びくともしない。なぜだ。


「雅がトイレでナニをしていて、くっ、となった拍子に扉に足が当たり、壊れたんじゃ……」

「してないわよっ、そんなことっ! 鍵が壊れてるのかしら」

「どれどれ」


 扉の隙間から見てみると、何やらピンク色の物体が見える。


「コレ、ガムか。こんなものを仕込むとは。不届き千万!」

「えっ、ガムなの? どうやって取るのよ?」

「どうしよう……。ちょっと待ってて。何か探してくるから!」

「えっ、ちょっと!」


 俺は近くを探し回る。何か長くて薄っぺらい物。そうやって見つけたのが金属製の定規。かなり尖っているため、痛そうではある。だが、それくらいの物でないとガムを取り除けないだろうと決心し、


「雅、良い物を見つけてきた」

「えっ、なに?」

「金属製の定規だ。俺と雅が両サイドを持ち、下から上に引き上げる。今から差し込むからね」

「え、ええ」


 とても薄いため、隙間に入った。片側を雅が持つ。


「それじゃあ、せーので上げるよ」

「ええ」

「せーの!」


 二人同時に掛け声をし、引き上げる。だが、びくともしない。


「もっと強く上げるんだ!」

「でも、手が痛いのよ。切れるわ、こんなの」

「そうだ。トイレットペーパーをグルグル巻きにするんだ」

「あっ、それだったら」


 雅の手は大事だが、俺の手などどうでも良い。俺は素手で押し上げる。


「じゃあ、もう一回いくよ」

「ええ」

「せーのっ!」


 二人の力が噛み合い、見事にガムは取れた。ようやく扉が開く。

 中では雅が便器に座っていた。ガムが取れた拍子に後ろに倒れ込んだのだろう。


「良かった」

「ええ、ホントに。ってアンタ、手が血だらけじゃないの」

「そんなことどうでも良いんだ!」


 俺は座っている雅の膝の上に頭を置いた。


「えっ、ちょっと」

「ホントに良かった。雅が怖い目に遭ってるのかもと思ったら、俺、俺……グスン」

「ちょっと、泣かないでよ……。ありがとね」


 雅はそう言って俺の頭を撫でてくれた。


 と、その時、後ろから声が聞こえる。


「へっ!? お二人、何を……」


 振り返ると、トイレをしに来た若菜ちゃんが驚いた表情で立っていた。トイレの個室で雅の膝に突っ伏していたのだから。


「いぃぃぃやぁぁぁあああああ! 離れて、変態っ!」

「イタっ!」


 俺は雅に突き飛ばされた。あれ程優しかった雅はどこへ。


「か、勘違いしないで! 私たちは何でもないのよ。トイレから出られなくなって、それで」

「えっ、そうだったんですか。大変でしたね」

「ホントよ。一応、和哉に助けてもらったってわけ」

「では、さっきの体勢は?」

「へっ!? 和哉が襲ってきたのよ。はあああ、やらしっ!」


 そう言って雅は行ってしまった。


 その後、写生会は無事に終わり、若菜ちゃん達と別れ、ふたりで帰路に就いた。


「……」

「ごめんね。若菜ちゃんに見られて気が動転しちゃって」

「わかってるよ。でも、助けられて本当に良かった」

「……はい」


 見ると、右手を差し出す雅。


「えっ?」

「ご褒美よ」

「でも、俺いま左手、血で汚れてるし」

「良いから!」

「――ッ!」


 雅は何の躊躇いもなく、俺の左手を取った。自分の右手が汚れるにも拘らず。


「雅」

「帰るわよ」

「うん!」


 俺たちは四度目の手つなぎをして家に帰った。

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