第六章

 もう夏が近く蒸し暑い日が続くある日の夜、会社が終わって家に帰る人達が多いいつもの満員電車に揺られながら、キツネ目の男は大金の入ったアタッシュケースを持って横浜に向かっていた。

 いつもはこんな時間に取引のお金を持っていることは余りないのだが、ここ何日かはこういうことが続いている。例の仕入れルートが潰れてから新しい取引で苦戦していて変則なことが多くなっていた。

 明日の朝早く、この金を取引で使わなければならない。なかなか安定した取引ができないことが男をいらつかせていた。

「まったく、あの野郎のせいで」

 満員の車両で窮屈な思いをしていることと、蒸し暑さがそのイライラに拍車をかける。

「こんな時は」と男は周りを見渡した。

 キツネ目の男にはこの満員電車で秘かな楽しみを持っていた。イイ女はいないかな、と眼だけで探していると先ほどの駅から乗ってきたミニのタイトスカートを履いた見慣れた女を見つける。

「またいやがった、あの女。今日も始めるのか?」

 男はその女の周りにいつも一緒に見かける背の高い男を探した。

「今日はいないのか」

 キツネ目の男はここ最近二回ほどその女を見かけていて、二回とも背の高い男が近くにいたことを思い出す。背の高い男とあの女は全く目を合わさないし、同じ駅だが別々に分かれて降りるので知り合いでもなさそうだ。

 実はその女との間にあの男がいたからよくは見えなかったのだが、女の斜め後ろすぐに陣取った背の高い男は、どうも痴漢しているようなのだ。だが女は嫌がっていたりしていない。時々顔をしかめたりしてはいるが、妙に顔を赤らめて喜んでいるかのように見えるのだ。

「痴女か?」

キツネ目の男は嬉しくなった。この男の秘かな楽しみとは痴漢だったのだ。月に何回かこの満員電車で男は痴漢を楽しんでいた。男は一流企業の会社に勤めている。万が一捕まったらおそらく即刻首になることだろう。そして今の高収入の生活は終わりだ。悲惨な人生を送ることになるに違いない。

そう理解しながらも痴漢を止められなかった。今まで何度か危ない場面もあった。が、なんとかその危機を逃れてきた。女性はいろんな反応をしてくれる。体に触れるとすぐに反応して睨んでくる女、声を全く出せずに震えて耐える女、なかなか反応しない女。それでも今までに痴漢を喜ぶような痴女に男は会ったことがなかった。

「今日は女一人か」

しばらく様子を見ていた男は、女に近づいてみる。満員電車はかなり混んでいて動きづらく、近くまで辿り着くのもままならない状況だった。ようやく女の左後ろの位置を男は確保した。

 近くで見ると三十代のキャリアウーマンのような雰囲気だが、ミニのタイトスカートから見えているのは白い細い素足で、上半身は胸が見えそうなほど開いて腕も肩からでて露出の多い服を身につけている。

 蒸し暑いこの季節であるから服の生地は薄く、ブラも薄いピンク色をしているのがわかるほど透けて見えた。まるで男を誘っているかのような服装だ。

 男は周りを見渡した後、女の体を下から上へ、上から下へと何度も舐めるように見た。前を向いて混みあった電車の中で揺られるがままに周りの人達に体を預けじっと立っている。チャンスだ。男はそう思った。

 左手にアタッシュケースを持ち替え、男は自由になった右手の甲で女のタイトスカートに軽く触れてすぐ離した。女の反応はない。もう一度手の甲で、今度は相手の体温が感じられるほど長くじっと触れた。

 今度も反応はない。次は手を返して手のひらで触れてみた。同じように体温が感じられるほどじっと。それでも反応が無い。男はだんだん興奮しはじめた。今度は手を軽く握るように女の肌をスカートの上から掴むように動かしてみる。

 さすがに今度は女がびくっと動いた。が、こちらを振り向くこともなく女は俯いただけだった。顔が赤らんでいるのが後ろからでもよく判る。

 やはりこの女は痴女なんだ、そう思った男は大胆にも一気にタイトスカートの中に手をいれ太ももに触った。

 その瞬間、女が「キャッ!」と小さく声をあげた。と同時に、男の右手の手首がものすごい力でぐっと掴まれた。

「何をやってる!」

 ドスの利いた声が男の耳のそばで聞こえる。

「次の駅で降りろ!」

 後ろから同じ声がまた聞こえ、同時にすごい力で男の右手首が体の後ろにひねられた。

 太くがっちりした腕が左の後ろからでてきて、男の左腕ごと体を締め付ける。瞬間的にまるで大蛇に巻き付かれたかのようなものすごい力で抱きかかえられた男は、その声の主を振り返ることもできず、後ろから感じるいいようのない恐ろしい迫力のある気配に声を出すこともできないままじっとしていた。

 次の駅に着き、扉が開いて他の多くの乗客がどっと出ていく流れとともに、後ろにいた男と一緒に電車の外にはじき出されるようにホームに降りた。男が周りを見ると、自分がホームの端で先ほどの女、そして自分の背後にいた男以外にも数人の男達に周りを取り囲まれて立っていることに気づく。

 その時初めて自分を捕まえた男の顔を自分の肩越しに盗み見ることができた。まだ腕は後ろ手にひねられ、アタッシュケースを持った左腕もがっしりと後ろの男の腕に体ごと締め上げられたままの状態だ。

 背後の男は背が高く体のがっちりした、若いが素人には見えないまるでヤクザの様な奴だった。茶色のカラーが入った眼鏡で、麻のジャケットを着ているが中に着ているシャツから覗く胸板は厚い。

 周りを取り囲んでいる男達も見た。その集団もまるでヤクザの様な奴らだった。普通の人達とは違う異様な雰囲気を持っていることで、この男達も腕をつかんでいる若い男の仲間だと思った。取り囲む男達もまたものすごい形相でこちらを睨んでいる。

 他の人間を近寄らせないように壁を作っているかのようだ。他には一組のカップルだけがその輪の外からこちらを見ていた。

 電車の中で騒がなかった分、痴漢が捕まったことに他の周囲の人々には気付かれなかったのだろう。それ以上周りの人に取り囲まれることにはならなかったようだ。

 若い男はまだ右手首と左腕を捕まえて離さない。強い力でびくともしない。振りほどいて逃げるようなことは全く不可能だ。ましてとぼけるようなことはこのヤクザのような男達には通じないと悟った男は、女に素直に謝った。

「すみません! つい、出来心で。ごめんなさい! 二度とこんなことはしません!」

 謝りながらだんだん自分のしたことの重大さがわかり、このまま警察に連れていかれたらと考え恐ろしくなった男は、腕を捕まえられたまま必死に頭を下げた。

「すみません! すみません! 許してください! お願いです! 警察だけはやめてください! お願いします! すみません! 許してください!」

 必死に謝罪を繰り返す男に対して、女も若い男も周りの男達も黙っている。女は戸惑ったような顔をして必死で謝っている男の顔と、捕まえている男の顔、そしてまわりのヤクザの様な奴らを交互に見ていた。若い男は先ほどからずっと黙っている。しかし絶対許すはずがない、そんな恐ろしい形相で男をじっと睨んでいる。

 これは女に何とかして許してもらうしかない。彼女さえ許してくれたらヤクザの様な若い男の方はなんとかなる。男がそう思ったのは甘かった。

「名刺出せ」

 若い男はまたドスの利いた声で男に向かって言った。有無を言わせないその迫力に押されて、後ろ手に回された右手が離されると、キツネ目の男は右手でスーツの内ポケットにある名刺入れ取り出すと、奪い取るように若い男がひったくっていった。そして一枚名刺を抜き出してから名刺入れを返し、そこでやっと左腕と一緒に体を放した。

 若い男は名刺を見ながら

「逃げんじゃないぞ。逃げたらすぐ会社に連絡するからな。ほう、いい会社に勤めているな。会社にばれたら大変なことになるだろうな」

「勘弁してください!」

 強く掴まれた右手首の痛みに耐えながら叫んだ。まずいことになった。何とかしなければ、俺の人生が終わる。このヤクザの様な男にと思った時、ひらめいた。

 こいつが本物のヤクザでもこの場を乗り切れば、後はあいつらに頼んでなんとかしてもらえる。警察にさえ捕まらずこの場を乗り切れば、そう考えた男はアタッシュケースを持ち上げて開き、女と男に中身を見せた。

「ここに現金がある! これから大事な仕事で人に会わなきゃいけないんだ。今すぐ許してくれるのなら、これを示談金として全て渡す。だから許してくれないか。お願いだ」

 アタッシュケースの中には二千万円が入っていた。これは取引に使う金だが自分が捕まれば、こんな金など吹っ飛ぶほど大変なことになる。

 今捕まらずに済めばこの程度の金ならなんとかできる。明日の朝の取引には別にプールしてある金をかき集めて用意するしかない。そう考えた男は必死に示談することを訴えた。

 

 アタッシュケースの中の大金を見て女は驚いた。あの札束一つが百万円だろう。それが一、二、三、と数えてざっとみて、そう二千万円ある! このお金があれば助かる! あの程度の痴漢で警察に男を突き出すよりも、このお金があればと考えた女は、ふとヤクザの様な若い男を見た。男もこちらを見ている。迫力のある恐ろしい眼で、お前はどうする? と聞いているかのように女の顔をじっと見ていた。

 この若い男、そして周りの男達は何者? ヤクザ? だったらこのお金は全部自分が手に入れることはできないだろう。最低でも半分以上は持っていかれるかもしれない。いや、半分の一千万円あれば助かる。なんとか半分で手を打ってくれないだろうか。そう女が考えていると、ヤクザの様な若い男のほうから、低い声で

「あんたさえよければ俺はいいぜ。金は半々だな」と言ってくれた。

 やった! 一千万円が手に入る! そう思った女は、しかしお金が欲しいということを悟られないよう焦らず冷静に、と自分を落ち着かせてから痴漢した男にゆっくりと振り向いて強気に痴漢男を怒鳴ってやった。

「助けてくれたこの人も言っているし、そこまで言うのなら私もいいわ。でももう二度と痴漢なんてしないことね!」

 そう女が言った瞬間、若い男はアタッシュケースを痴漢男から取り上げて、

「さっさといけ!」と犬を追い払うかのように手を振った。

 ちょうど電車が来たため、痴漢男は逃げるようにその電車に乗り込んだ。そして電車が出発した。ホームにはアタッシュケースを持った若い男と女、そして取り囲んでいる男達が取り残されるように立っていた。

 

「なんとか助かった」

 電車に乗り込んだ男はほっとした途端、額から噴き出した汗をぬぐい、まだ混んでいる電車に揺られながら息をついた。

「しかし二千万円は高くついたな」

 しばらく経ってからキツネ目の男は今更ながら悔やんでいた。

 

「あのう」

 女がアタッシュケースを持った若い男に声をかけると、男は出て行った電車が去る方向をまだじっと見ている。電車が遠く去ったのを見届けてから、もういいだろうという顔をして女の方を向いた若い男は、おもむろにジャケットの内ポケットから紙袋をだし、アタッシュケースから札束を抜き出して入れていった。

 素早く百万円の束を十束紙袋に移し替えて、アタッシュケースの中の札束も十束残っていることを女に確認させるように見せた。その後アタッシュケースを閉めて

「お前の分だ」

 とケースを突き出して女に渡し、紙袋を持ってさっさとホームから男達は立ち去って駅を出て行った。有無を言わさない、ほんのわずかな時間の出来事だった。

 

 紙袋を持って立ち去っていく男達を呆然と見送りながら、

「こんなことがあるんだ」

 一千万円の入ったアタッシュケース持った菅沼ひとみはつぶやいた。ひとみがこの路線の電車に乗ったのは今日が三回目だ。こんな時間にこの路線の電車に乗ることは今までなかった。きっかけは英吾さんとデートをするようになってからだ。

 ある日「飯尾クリニック」での診察が終わって病院を出たところ、ばったり英吾さんに会った。急なことでびっくりしていたひとみに、なんと英吾さんが

「あれ? ひとみさん?」と声をかけてくれたのだ。

 英吾さんが私のことを覚えてくれていた! あまりの感動で何もしゃべられないでいるひとみに、彼は一階のレストランでお茶でもと誘ってくれた。

 その時ひとみは頭に血が上り、顔が上気してのぼせたようになった。天にも昇る気持ちとはこのことだ。その後レストランでは彼と何を話したか全く覚えてないが、またこのビルに来たら声をかけてよ、と言われたことだけは覚えている。

 それからクリニックに通院するたびにひとみは彼の事務所を訪ねた。営業で外出していていないことも多かったが、会えた時は必ず一階のレストランでお茶を飲んで話ができた。

 お茶に誘われて二度目からは正気を取り戻し、二人の間での話は結構弾んだ。ひとみが本当は銀行員ではなく、生保の外務員をやっていることを正直に告白した。すると同じように生命保険も扱っている彼とは共通の話題や共感できることが多いとわかり、楽しい時間を過ごすことができた。

 彼はさすがに営業をやっているだけあって話がうまく、しかもユーモアもあった。それに聞き上手でもあったため、ひとみはとても気持ち良く話をすることができた。仕事の愚痴も聞いてもらった。彼はよくわかるよ、と言って話に乗ってくれる。

 そんなことが何度か続いている間に、ひとみは彼から夜の食事に誘われた。横浜より少し手前の、ここからは少し遠い所にあるレストランだけどとても気に入っているお店だというのだ。ひとみは嬉しくてしょうがなかった。彼に誘われたその日、二人が別れて家に帰る途中、ひとみは何度もガッツポーズをしてしまった。あの憧れの英吾さんに夜の食事に誘われたのだ。

 初めて連れて行ってもらったのは一ヶ月ほど前だった。不思議なのはまず車で移動し、何故かお店の最寄り駅の四つほど手前の駅で車を止めてから電車に乗り、駅を降りるとそこから十分ほど歩いてお店まで行くのだ。 

 彼にになぜかと聞いたところ、こう言われた。

「あの店に行く時のちょっとしたジンクスさ。でも電車で移動したり、駅から一緒に歩いたりするのも良くないかい?」

 確かに車だけでなく、二人で夜道を一緒に歩くこともできるし、電車も混んでいるけどその分彼と接近できるからいいか、とひとみは深く考えなかった。ただ奇妙だったのは、電車の中で彼はいつも斜め後ろに立ち、小声で話しかけてきたことである。なぜか目を合わしてくれず、前を向いててというのだ。

 しかし前を向いて後ろから耳元で囁くように話をされるとすごく嬉しかった。時々彼の体が触れることもあって、変なことを考えそうになる。

 そんな妄想をしないように目をつぶると後ろから優しい声で、どうしたの、なんて声をかけてくれる。すごく幸せな時間だった。自分でも顔が赤くなっていくのがわかり、この年になってひとみはまるで少女になったかのようだった。

 彼は電車を降りる時、降りるよと小声で言って、目も合わさずにさっと自分だけ先に降りてしまう。でもホームの階段の少し降りたところでこちらを向き、ニコッと笑って待っていてくれる。最初は驚いたが、彼なりのイタズラなのだろうとひとみは思っていた。そんな英吾さんにますます夢中になっていた。

 彼が紹介してくれたお気に入りのお店は、ログハウス風の洋食店で、客層もいいのか落ち着いた雰囲気で趣があり素敵だった。食事自体もとても美味しくて彼が気に入っていることがよく理解できた。

 彼は車があるからお酒は飲まない。帰りも店に来る時と同じ方法で帰る。そんなことが二度続いて、三度目の今日もひとみは彼と一緒に電車に乗るはずだった。それなのに二人が駅に着いて車を降りた途端彼の携帯が鳴り、急な仕事のトラブルが起きたのでお客様にお詫びの電話をしなければならない、と言い出した。さらに時間がかかるから先に電車に乗って店で待っていてくれ、と言われたのだ。止む無くひとみは一人で電車に乗ったのが今日だった。

 せっかく彼の希望通り、普段めったに着ないような露出の多い服を選んできたのに。彼が私に、二人で食事に出るときはもう少し肌の露出した服を着て欲しいなあ、なんて前回誘われた時に、電車の中でつぶやくもんだから。

 最初は驚いたけどかなり混みあう電車の中で肌と肌が触れ合う度、彼にそんな趣味があるんだ、喜んでもらわなきゃ、と思っていた。だからせっかく勇気を振り絞ってミニのタイトスカートまではいてきたのだ。そんな時に限って痴漢に遭うとは。

 最初は災難だと思っていたけど、ヤクザみたいな男の人にすぐ助けられて、どうしよう、どうしよう、と思っている間に降ろされた駅は目的の駅だった。そしてあんなに困っていた一千万円が、今手元にある。このアタッシュケースの中に入っているお金は自分のものなんだ。世の中にこんなことってあるんだ!

 そう思い幸せな気持ちで駅の改札を出た。そこでひとみは考えた。こんなケースを店まで持っていったら英吾さんにおかしく思われる。あまりにもこの服装とこのケースは似合わない。しかも中身は現金で一千万円入っているのだ。

 慌てて駅でコインロッカーを探した。幸いロッカーはいくつか開いていて、ホッとする。そこで「13」と記されたロッカーにケースを入れ、鍵を閉めた。

 「13」という字はひとみにとって不吉な番号ではない。自分の名前のひとみとも読めるこの数字が大好きで、銀行のキャッシュカードの暗証番号などには必ず入れていた。覚えやすいからでもある。

 ロッカーのカギを上着のポケットにしまい、店に向かって歩きながら考えていた。今日、これから英吾さんは店までは車で来るだろう。それなら帰りは電車ではなく車に乗って帰ることになる。ということは、今日お金を持ち替えることはできない。

 彼にお願いして駅に寄ってもらい、ケースを取り出して持って帰ることも考えた。だが彼に不審がられるだろう。アタッシュケースの中身を問われればごまかすのも不自然だ。それなら明日一人で取りにくることにしょう、そうだそれがいい。そう結論付けたひとみは店に着いた。まだ彼は着いていないようだ。

 店の中に入り、英吾さんの名前で予約をしていることを店員に告げると席に案内された。メニューとお水を持ってきた店員には、もう一人の連れが遅れていることを伝え、料理の注文は二人揃ってからとお願いする。店員はわかりました、と丁寧にお辞儀をしてくれた。

 この店は料理に味もさることながら店員の対応もよく、お店の雰囲気も騒がしくなくゆったりとした気分で食事ができる。上着を脱いで横の席にかけ、水を飲みながら彼を待っていると、しばらくしてひとみの携帯が静かに鳴った。英吾さんからだ。

 店内で携帯を使うわけにもいかず、席をはずして外に出てから携帯に出た。すると彼はとても沈んだ声で謝り始めた。

「ひとみさん、本当に申し訳ない。先ほどのトラブルなんだけど、電話では解決しないのでどうしてもお客様に会って直接お詫びしなければならなくなりました。本当にごめんなさい。この埋め合わせは次回絶対しますから。今日の食事はキャンセルしてください」

 すごく残念だったが、そんな態度は全く見せず

「いえ、大丈夫ですよ。お仕事大変ですね。わかります。怒ってらっしゃるお客様の場合、直接会ってお話ししないとどうしようもない場合がありますからね。私も経験がありますから。ご心配なさらないで。またお誘いしていただくのを楽しみにしています」

 そう言って電話を切った。席に戻ったひとみは店員に一人分がキャンセルになったと告げ、いつもならコースでいただくところをアラカルトで二品ほど頼み、簡単に済ませることにした。

 食事をしながらひとみは考えていた。彼とのデートがキャンセルにはなったが、今日は一人で帰ることになる。ということはコインロッカーのお金を取り出し、持って帰ることができる。

 別の日に取りに来なくて済んだことは、ラッキーだったかもしれない。そう、今日は本当についている。なんていったって一千万円が手に入ったのだから。

 そう思いつくと待ちきれなくなり、食事をすぐに終わらせて駅まで走っていきたくなった。そして気が逸る思いを抑えながら、ひとみは注文した料理を素早く平らげ、店を出て早足で歩いた。そしてロッカーの近くまでくると上着から鍵を取り出そうとしてポケットに手を入れた。が、無い! 鍵が無い! 焦ったひとみは上着を脱いで全てのポケットを確認した。やはり無い! 鍵はバックにいれたのか?

 そう思い直し路上にしゃがみ込んで、バックの中身を全て出し探したが鍵は見つからなかった。どこかで落としたのか? 店に行くまでか、店で落としたのか。道を引き返そうと考えたが、その前に何気なくひとみは「13」の番号のコインロッカーを見た。おかしい。空いているではないか。

 確かケースを入れたロッカーの番号は「13」番だったはずだ。慌ててロッカーに近づき確認すると、中身は空っぽで鍵はさされている。違う番号だったのか?   

 いやそんなはずはない、ともう一度確認をした。その前後のロッカーも念のために見たがすべて空いていて中身は入ってない。どういうこと? もしかして私は鍵をかけ忘れたの? いやそれはない。確かに鍵をかけて上着のポケットに入れたはずだ。どこかで鍵を落とし、それを拾った誰かが開けて持ち去ったのか。

 呆然とたちつくすひとみの視界の端に、どこかで見たような物体が映った。そちらに目を向けるとロッカーの端の隅におかれているごみ箱の中に、アタッシュケースが捨てられていた。あの一千万円が入ったケースだ!

 駆け寄ったひとみがケースを拾って中身を見た。予想はしていたが愕然とする。やはり空っぽだった。ついてなんかいなかった。冗談じゃない。こんなはずじゃなかった……。力なくひとみはその場に座り込んでしまった。

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