空の青さ

ヤタ

空の青さ

1.


 不意に、なんの前触れもなく、当然、空が緑色に変化した。まるでスイッチのオンオフが切り替わるように、まばたきのあとにはいままでと違う空が広がっていた。

 澄んだ快晴の青空も、まぶしい陽射しも、太陽さえも消え失せ、空はまるで、カエルの皮膚のように黒のまだら模様がまじった濃い緑色に変わっていた。

「あ、故障かな」

 最後の菓子パンを食べ終えたとこで、対面の机で頬杖をついて外をながめていたショートカットの若い女性――クシア・ロレッタは気軽な口調でつぶやいた。

 わたしは指についたチョコクリームを舐めたあと、菓子パンの袋を机の下にあるゴミ箱に捨てて、彼女に声をかけた。

「仕事の時間だ。準備はいいか」

「いつでも」軽い口調がかえってきた。「先輩がお昼ごはんを食べてるあいだに、私のほうはとっくにすませていますから。というか先輩、きのうもそのパン、食べてませんでしたか」

「おとといも食べてたよ。さらにいえば、さきおとといもそうだ」

 彼女があきれた顔になった。

「よく四日も飽きもせずおなじものを食べれますね。私なら無理だな。それとも、それが地球人の習性なんですか?」

 首をふった。「おれがおかしいだけさ。好きな味の食べ物を見つけると、飽きるまで食べたくなるんだ」

「ふうん」と彼女。「まえから思ってましたけど、先輩って子供ぽいところがありますよね」

「男はみんなそうさ」

 わたしは立ち上がり、部屋の奥の壁に掛けられている丸い時計に目をやった。十三時四十八分。宇宙暦になってから、アナログ時計には二十四までの数字が置かれるようになった。すべての宇宙人が正しく時刻を知るため、午前と午後というものを廃止し、完全に二十四時間制になったのだ。

「よし、行こうか。急げば、あしたがくるまでに帰ってこれる」わたしは机の上に置いてある携帯端末をズボンのポケットにしまった。「おれは着替えて荷物をとってくる。きみは禁止区域の通行許可の書類をつくって、交通省と地上警察にそれぞれ転送してくれ。おっと、上司からハンコを貰うのを忘れるなよ。このまえみたいに、とんぼ返りになるのはごめんだからな」

「もうあんな失敗しませんよ」彼女は拗ねたように唇をとがらせた。

 定期点検のさい、空飛ぶ車で二時間かかる場所に行ったとき、上司からのハンコがないとそのままとんぼ返りにあったのはひと月ほどまえのことだ。そんなミスが配属されてから三度あった。ずさんなところがあるのは、火星出身のムソム人の特徴だった。

 彼女が、空中に電子端末のディスプレイを展開したのを見届けてから、わたしは室内を出た。窓の外から見える空は、どんよりとした緑におおわれていた。



2.


 クシアが操縦する空飛ぶ車に乗って、その上品とはいえない運転に大きく身体を揺られながらたどりついた場所は、街のはずれにある、車で一時間ほどの山のふもとだった。

 近くの駐車場にバックで停めたあと、車から降りて、立入禁止・KEEP OUT、とかかれた鉄柵に移動し、そこにある機械のレンズに紙の書類をかざした。しばしのあと、レンズの上にあるライトが赤から緑に変化して、鉄柵の門が鈍い音を立ててひらいた。

「この時代にペーパーファイルってどうなんでしょうね」

 門をくぐりながら、クシアが声をかけてきた。

「お偉いさんのなかには、旧時代のまま時間が止まってる人もいるのさ」わたしは書類をしまいながら肩をすくめた。

 ふたりのまえには、どこまでも続く階段がある。野山につくられたコンクリートの階段は、段差によって幅や高さが違い、いかにも急造といったものだ。さらに、隙間や割れ目から雑草が顔をのぞかせ、てすりもないので非常に歩きづらくなっている。じっさい、三十分はど登ったところで、ひたいに汗が滲んできていた。ふたりの背中には一本の酸素ボンベと大きな袋――これから使う工具やわずかな食料、救急道具、緊急用バッテリーなどがいっぱいに詰め込まれてふくらんだリュックサックがある。それを背負ってこの急坂を登るのはひどく体力を消耗するのだ。

 わたしは前方に顔を向けた。

 あごから汗のしずくが滴り落ちるこちらと違い、先頭を歩く青い頭の足取りは軽快だった。青い髪と浅黒い肌と小柄な体格のムソム人は、身体能力が高く、体力もわれわれ地球人とはくらべものにならないほど多い。それは、宇宙暦になって最初のオリンピックでほとんどの記録を大幅に更新するほどだ。火星の地方で狩りをやって生活してきたムソム人は、その過程で超人的な身体能力を得たのだった。

「あ、先輩、遅れてますよ」

 徐々に差がつきはじめたふたりの距離に気付いて、クシアが歩く速度をおとして言葉をかけてきた。

「きみが早いのさ」とわたしはこたえた。

 じっさい、彼女の足取りは軽い。デスクワークから解放されて喜んでいるみたいに。スポーツマンというわけではないが、それでも遺伝子のせいか、彼女は身体を動かすのが好きだった。登りづらい階段も苦にしないで進む彼女と、歩を進めるたびに疲労が重くのしかかってくるわたしのあいだには、超えられない種族の壁がたしかにあった。

 そういや、と言葉を続けた。口をひらくたびに荒い呼吸がもれるが、会話をしたほうが疲れを忘れられるからだ。

「このまえの合コン、どうだったんだ。楽しみにしてただろ」

「全然ダメ」彼女は青い髪をなびかせて首をふった。「ちょっといい感じの男性がいて、向こうもわるくない感じだったので帰りぎわに声をかけたら、ごめん、きみはとても魅力的だけど、僕は指が三本の女性は苦手なんだ、って。ひどいと思いません?」

 こたえずに笑みをもらした。彼女が指のことでフラれるのは、記憶にあるかぎり、これで五度目のことだった。

「ムソム人だって、好きで指が三本になって生まれてきたわけじゃないのに、それを理由にするなんて。宇宙人権裁判所に訴えてやろうかな」

「そいつはいいアイデアだな。きっと、全宇宙のムソム人が支持するぜ」

「他人事みたいに」彼女はちらりと恨めかしい視線をおくってきたが、すぐにまえを向いた。「でも、なにかいい方法がないかな」

「市役所の相談ロボットに訊ねてみたらどうだ?」

「あれって意味あるんですかね。私、市役所にいくたびに見てますけど、いつもひとりで佇んでますよ」

 わたしは苦笑した。「あれでも役に立ってるんだぜ、ご老人たちの話し相手にな。今度、朝早くいってみな。老人たちが行列をつくってならんでいるから」

「ふうん、そうなんだ」と彼女。「でも、いいかな」

 それからは無言で登り続けた。

 上に行くたびに花の色や草の緑が減り、岩や石だけの殺風景がひろがってくる。右手にはめた腕時計に目をおとした。登りはじめて二時間ほどが経過しているが、一向に頂上は見えてこなかった。

 さすがに疲れてきたのか、クシアの足取りも重くなっている。そのとき、場違いな電子音が響いた。

「はい、もしもし」ポケットから電子端末を取りだして、彼女はそれを耳に当てた。「あ、はい、クシアです。おつかれさまです。え、そうですね、あとすこしで・・・・・・はい、はい、そうですね、わかりました。そう伝えておきます。はい、それでは、失礼します」

 通話を終えたあと、彼女は振り向いた。

「課長から伝言。地上のほうで騒ぎになりつつあるから、はやく復旧させてほしいって」

「もうすこし待っててくれと伝えてくれ」

「そういっておきました」

「きみの言葉なら、素直にうなずいただろう」

 彼女が冷たい視線をおくってきた。「なにか含みのあるいいかたですね」

「そういうわけじゃないさ」首をふった。「ただ、いまの課長は女性に甘いだろう。おかげで、われわれ男性職員は肩身の狭い思いしてるよ」

 配属されたばかりの新しい上司は金星出身のサポト人であり、彼らはレディ・ファースト第一主義の思想で、女性を優遇し、男性を冷遇しているのだ。

「でも、女性職員からすればいまのほうがいいですよ。まえのときは、課長が机に座るタイミングでお茶を出してましたけど、いまはそういうのないですから。そもそも、どうしてお茶を出さなきゃいけなかったんですかね」

 苦笑がもれた。「旧時代の風習だよ。きみは知らないだろうが、西暦の終わりのほうまで、お茶汲み係が存在していたんだぜ」

「へえ、いやな時代だったんですね」

 そいつはどうかな。わたしはその言葉を飲み込んだ。空はあいかわらず緑のままだ。すくなくとも、あの時代は本物の空があった。あの時代にしかない、本物の空と太陽が存在していた。


3.


 登りはじめて三時間が経過した。

 疲労と高度のせいで息苦しくなってきたので、わたしは肩から下げた酸素マスクを口のまわりに装着した。吐く息が荒く、心臓も大きく鼓動しているのがわかる。身体が重い。足も重い。まわりの景色は緑一色になっている。やっと頂上の近くまでやってきたのだ。

 不意に、前方からなめらかな歌声が聞こえてきた。ヴィレッジ・シンガーズの亜麻色の髪の乙女。その曲を、青色の髪のクシアが口ずさんでいるのだ。

「きみは、ずいぶん古い曲を知ってるな。オールディーズなんて、いまや絶滅危惧種みたいな音楽だぜ」

「先輩、知らないんですか。火星だといま、地球文化のリバイバルがブームなんですよ。この曲も、きのうやってた火星ラジオから流れてきたんです」

「ふうん。われわれには聞き飽きたものも、べつの星だと新鮮に聞こえるのかな」

「そうかもしれませんね」彼女が顔だけを向けてきた。「ところで先輩、もうすこしペースを上げれませんか。あともうちょっとで着くわけだし」

「無茶いうなよ。三十すぎのオヤジにはいまでもきついくらいだぜ」

「先輩、まだオヤジって年齢じゃないでしょう」

「これでも、きみより十歳は上なんだぜ」

「私の八人いる兄弟の一番上の兄は先輩と同世代ですけど、いまだにフルマラソンで自己ベストを更新してますよ」

「それは、きみたちムソム人だからだろう。地球人からすれば、三十を超えるともう、おじさんのカテゴリーにくくられるのさ」

 わたしは足を止めて、大きく深呼吸をしたあと、ふたたび歩きはじめた。

「そもそも、こんな場所にエレベーターがないのがおかしいんだ。どうして三階建ての市役所にはふたつもあって、ここにはひとつもないんだ」

「それなら、市役所の相談ロボットにいってみればどうですか」

「むかし、相談しにいったことがあったよ」わたしはいった。「まだきみが配属されるまえだな。仲間内で直訴しにいったんだ。そしたら、なんていったと思う?」

 彼女は首をかしげた。「さあ」

「考慮してみます、だ。それからなにも答えがかえってこない。三年間も考慮して、なにも起きないんだ。上のやつらは、おれたちを機械の部品としか見てないのさ。じっさい、うちの上司はみんな、現場の仕事のことなにも知らないだろう」

「あ、だから、たまに無理難題をいってくのか」彼女は虚空を見上げた。「でも、ここはいいほうですよ。私の同期の子は海のほうに配属されましたけど、いつも現場にいくとき、メールがきますもん。いやだ、いやだ、いきたくないって」

「それは、きみたちムソム人が海が苦手だからだろう」

 水が少ない火星にとって、そこの出身者は極端に海を――もっといえば水そのものを恐れている。第一回宇宙オリンピックで、ほとんどの記録を塗り替えたムソム人だが、水泳競技だけは結果が出なかった。そもそも、水泳に参加する選手がいなかったのだ。

 四時間ほど登って、やっと、ついに、目的の場所にたどりついた。

 岩場だらけの場所のなかで、唯一ひらけているところに一軒の小屋が立っていた。

 木製の物置のような小屋で、強風が吹けば飛んでいってしまいそうなほど古びている。わたしはクシアのまえに出て、その扉を開けた。白いものが舞ってほこりの匂いが鼻をついた。暗い室内の天井には蜘蛛の巣が張っていて、その奥には、わたしの腰の高さほどの機械の塊がある。

「あいかわらず、幽霊が出てきそうですよね、ここ」うしろから声がかかった。

「幽霊はいないが、ねずみなら出てくるかもしれないな」胸ポケットからペン型ライトを取りだし、あたりを照らしながらこたえた。

「ねずみか」彼女はむずかしい口調でいった。「さすがに、ねずみを生で食べるのは勇気がいるなあ」

「動物の肉をそのまま食べること自体、抵抗があるけどな」

「でも、地球人は魚を生で食べますよね。動物の肉は加工して魚はそのままって、ひどい種族間差別じゃないですか」

「それなら、宇宙人権裁判所に訴えてみるかい」わたしはいった。「そもそも、食べられるほうからすれば、差別もなにもないだろう」

 照らしてるライトが、その一点を見つけた。機械と機械のあいだ、ほこりに埋もれた床の下にあるケーブルの束のなかに、一本、切断されているものがある。ゴムのカバーが破れ、そのなかにある剥き出しの導線同士が離れかけている。これが接続不良となって、空の景色をおかしくしていたのだ。

 わたしはうしろにいるクシアにペン型ライトを渡した。

「ケーブルが破けてるから、空に映写ができなくておかしくなってるんだ」

「直せそうですか?」

「やってみるさ」


4.


 しゃがみこみ、リュックサックをおろして、ジッパーを開け、そのなかにある工具を取りだして床にひろげる。

「一度、電源を落とすから、おれの手元を照らしてくれ」

「了解しました」

 彼女が三本の指で器用にライトを握り、こちらの手元に光を当ててくる。わたしは機械の横にあるレバーを下ろした。

 世界から光が消えた。

 そのなかで、一筋の光線を頼りに作業をする。手早く正確に。若手時代に散々叩き込まれた教えが頭をよぎる。ニッパーで完全に導線を切断したあと、ハサミに持ち替えてゴムのカバーに切れ目をいれ、その部分をラジオペンチで引っ張りカバーを外す。それから剥き出しの導線と導線を繋げ、鉛でできたリングで固定し、持ち替えた圧着ペンチではさみ、圧力を加える。大事なのはここで、力を込めすぎると導線が潰れて切断してしまい、弱すぎると圧着できずに接続不良となってしまう。微妙な力加減が求められるこの仕事は、いくら高度に発達した機械でも完全には再現できず、人間の経験と手の感触だけが頼りなのだ。

 導線同士をリングで圧着したあと、絶縁テープを巻き込んで完全に固定する。このあいだ、おそらく一分くらいだろう。これでも遅いくらいだ。世界から光が消えているのだから。

 わたしはレバーを上げた。

 機械の上にある車輪がかたかたと音を立てて回転しはじめて、その動きに連動して、小さな車輪も動きはじめる。大小ふたつの車輪が順調に回転を繰り返し、やがて、小屋の窓から光が差し込んできた。無事に修理を終えた。わたしは大きく息を吐いた。

「おつかれさまです」

 頭上から優しい声がかけられた。彼女が、ペン型ライトのスイッチを消して、そのかわりにペットボトルの水を差し出してきていた。

「いつ見ても、先輩の手際の良さ、凄いと思います。惚れ惚れします」

「ありがとう」ペットボトルを受け取り、わたしはいった。「しかし、わるいな。おれは指が三本なのはごめんなんだ」

 背中を軽く蹴られた。「先輩っていつもひとこと多いですよね」

 苦笑をうかべ、酸素マスクをはずし、ペットボトルをかたむけた。ぬるくなった水が身体のすみずみまで潤いを与えてくれる。力が抜けた。ピークに達した疲労で緊張の糸が切れたのだ。しばらく、床に座ったまま身体を休めた。あちこちが痛い。あしたは筋肉痛かな。いや、あさってか。わたしは苦笑した。運動の疲労のピークが、まるで起動に時間がかかる古いパソコンのように、遅れてやってくる。それだけ歳をとったのだ。

 ペットボトルを彼女にかえし、床にひろげた工具をリュックサックに戻して、酸素マスクをつけ直したあと、リュックサックを背負って立ち上がった。

 小屋から出る。

 視界に澄んだ青がひろがった。薄暗い小屋のなかにいたせいで、そのあざやかな青色が目に沁みる。頭上には太陽もある。あかるい陽射しがまぶしくて、手で陽光をさえぎった。それでも指のあいだからもれる光が目に沁みる。わるくないと思った。人工の空と、偽りの太陽も、眼下にひろがるこの景色はわるくない。いまは二十時六分。太陽が沈み、夜のとばりが世界をつつむ時間だが、目のまえにはあざやかな快晴がひろがっている。宇宙暦がはじまってからすぐ、世界から夜が消えた。人々は夜の闇を克服したのだ。それがいいのかわるいのか、これからどう影響してくるのか、なにもわからない。だが、わるくない。このまぶしい青空をつくって、維持しているわれわれの仕事は、わるくない。

 わたしは彼女に声をかけた。

「さあ、戻ろうか。そして帰って乾杯しよう。この空の青さに」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

空の青さ ヤタ @yatawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ