悪魔憑き The haunted

西尾 諒

第1話 2030年8月7日


夏の盛りの暑い日だった。前日関東を襲った台風が去った後、川沿いの道には吹き飛ばされた木の枝や安手の壊れた看板がところどころに落ちていた。

その通りを浮浪者の男がよろよろと歩いていく。白茶けた髭だらけの顔面、薄汚れた帽子は過酷な日差しから薄くなった頭頂を守るための物だろう。腰は曲がり、しみだらけのシャツは所々穴が開いている。

良くある風景だった。2020年、東アジアを源としたCovit19が世界に蔓延して三年後その後遺症で世界景気は急速に悪化した。当初は株式・土地などの資産市場を守ることで景気の下支えを目論んだ各国政府であったが、ヘッジファンドの売りに押され市場価格が下がるとみると無制限な買い介入に限界があると見切った投資家たちが一斉に手を引いた。株価は暴落し、失業者はちまたに溢れた。男はそんな失業者の一人のようである。

アルミ缶を背負ってそれを売ろうとしているのだろう、背中にどうやってくくったのか、山ほどの金属を背負い歩を進めている。

その後ろから自転車に乗った少女が近づいていくのが見えた。灰色のジャケット、白のブラウス、お揃いのチェックのタイとスカートは愛らしく、乗っている自転車も安物ではなく、電動の国産メーカーの物らしい。つんと整った鼻、良く手入れのしてある艶やかな髪、二重瞼でふっくらとした唇。背はそれほど高くないが、顔が小さく七頭身と言ってもいいだろう。

川沿いのこの辺りでは滅多に見かけないお嬢様風の高校生といったところだろうか。その自転車が少しスピードを上げ、浮浪者を追い抜こうとした時だった。

きらりと銀色のラインが少女の手から放たれ陽を受けて輝いた。

その途端、浮浪者は思いがけない素早さで動いた。それだけではない。空を切った光の先が勢いを失ったその点で捉え、ぐいと引いた。銀色に見えた筋は鈍く輝く鉄の鎖であった。そのチェーンの先は少女の手元にある。勢いを失った自転車が前輪を空転させ、危うくひっくり返るところをなんとか踏みとどまった少女は、整った容姿と相貌から思いもよらない言葉を吐いた。

「何するんだよ、てめえ」

浮浪者は厚い唇をにやりと歪ませると、

「何するんだよ、てめぇ、はこっちのセリフだ」

と言葉を返した。ぐいっとチェーンを引っ張るとたたらを踏むように少女が男の方に近づき、主を喪った自転車が倒れて大きな音を立てた。

腕を地面に付けた少女は山猫のような目で浮浪者を見た。

「てめえらみたいな薄汚いやつはこの世から消えろ」

その美しい唇から呪いのような言葉が吐き出された。それだけではなかった。大胆にも少女はスカートを自分で捲ると、白い足とその間を隠しているピンク色の下着を晒した。だが、それは男の目をきつけるためのものではなかった。左の腿に革のベルトで巻き付けられたナイフを器用に抜くと、チェーンをぐいっと引っ張り体を寄せるようにしてそのままナイフで男の腹を突いた。目にも止まらない素早い動作だった。

だが、浮浪者は難なくそれをかわした。たたらを踏んだ女子高生の首に手刀を叩きつけると少女はあっけなく地面に沈んだ。

「面倒をかけやがる」

浮浪者が呟いた。自動車が一台、彼らを追い抜いていき、何人かの男女が、その様子をみていたにも関わらず近寄ってこようとはしなかった。だが、浮浪者がアルミ缶の荷物を地面に置き、倒れている少女を担ぎ上げた時、遠くでそれを見ていたひとりの男が駆け寄ってきた。三十代くらいのサラリーマン風の男は、少女を担ぎ上げた男の前に立つと、

「あんた、何しているんだ」

詰問きつもんした。それを見て、通行人たちが足を留めた。どうなるのか見物しようという所だろう。中には写真や動画を撮ろうとスマートフォンを取りだした者たちがいたが、動作しない事に気付いて首を捻っている。

「・・・」

にやりと男は笑うと、片手で少女を抱えたままもう一方の手で器用にズボンのポケットを探ると黒革の手帳を出した。

「内閣調査室?役人か・・・」

サラリーマンは男の姿をじろじろと見た。

「警察じゃないのか・・・」

「警察はおとり捜査をできないからな」

初めてしゃべり返した男の意外に若い声に驚いたようにサラリーマンは視線を上げた。

「悪魔狩りっていったら分かるか?」

「え、あ・・・あの」

狼狽えたようにサラリーマンは後ずさった。

「じゃあ、その娘は・・・」

「心配することはない。彼女自身は真正の悪魔ではない。うまくすれば数日で元に戻る。もっとも、」

と男は担いでいた少女を一度地面に下ろすと、少女の耳元で何かを囁いた。驚いたことにそれを聞くと、少女は体を硬直させ、機械的な動きをし始めた。最初は右腕を、次いで左腕をまっすぐに伸ばし、あごを上げると背を反らせた。

「ここまで病状が出ていると、数日と言うわけにはいかない。一年はかかるかもしれない」

そう呟いて、男は再び耳元で何かを唱えた。途端に少女の体は再びぐんにゃりと緩んだ。それを再び持ち上げると、男は車道の先に視線を転じた。いつのまにか、真っ黒の車体に遮光しゃこうシートを貼った車が控えていて、男の視線を看取ったのか、ゆっくりと近づいてきた。

怯えたように更に後ずさったサラリーマンに浮浪者の恰好をした男はにやりと笑いかけた。

「ここにいる連中の中で、あんただけは悪魔に憑かれない。それを俺が保証する。但しその理性に基づいてあんたにはこの件について沈黙を守ってもらう必要が出てきてしまった。申し訳ないが一緒に付いてきてくれ。何、住所氏名と秘密保持に関する説明だけだ」


「ロンが捕まえた。張っていたのが良かったみたいだな」

机の上に脚を乗せ、掛かってきた電話に応対した木下潤が受話器を置くと、龍に話しかけた。

「了解」

答えながら、机の上に突き出された潤の脚を見据えていると、仕方なさそうに潤は脚を下ろした。

「あいもかわらず、固いな、龍は」

「固いとか、固くないとかそういうことじゃない。潤も神主の息子だろう?いったい行儀を親から習ったのか?」

「親父はおふくろを追い出したからな。俺もいっしょに追い出されたんだ。神社の主はおふくろのオヤジだったのにな。おかげでおふくろは生活に追われて俺に礼儀作法なんぞ教える暇がなかったってわけ」

潤はそう言うと、ばね仕掛けのように椅子から体を起こして、

「女子高生だとさ。どんな女だって聞いたら、ロンの奴なんて答えたと思う?」

「さあ・・・」

「身長160センチほど、体重は恐らく43キロ程度、髪は黒、性格は狂暴、レベルは3。つまりは仮性だが一番の重症」

「うん」

「で、容姿はって聞いたらさ」

「それが何に関係がある?」

龍の答えに、親指を突き出して潤はその通り、と笑った。

「でも、女優の河合里美に似ているってさ。ということは相当の上玉だ」

「河合里美?」

「ああ、知っているだろう?昔アイドルだった女優。もう四十の半ばなのに相変わらずきれいだよな」

潤の軽口にも龍は頷かず、

「その女の名前はなんて言うんだ?」

と尋ねた。

「ええと、no.6993 xxxx 4x23と、、、澤村楓か。残念ながら河合里美と関係はなさそうだな」

潤がそう答えた。

「・・・その女、俺が面倒を見る」

龍の言葉に潤が、怪訝な顔をした。

「面倒を見る?」

「そうだ。観察対象として俺が申請する?」

「ここで飼うってことか?」

飼う、というのは龍と潤が属している研究組織の一角に住まわせることを意味していた。だが、龍は不快そうに、

「飼う、というな」

と潤に指を突き付けた。



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