接近

江川太洋

1

 今晩はトンカツにしようと私は思い立った。急に面倒な油物に手を付ける気になったのは、すっきりしない天候続きで気が塞いでいたからだった。好物のトンカツを作ってやって、挑む気持ちで夫にどうだと思わせてやりたくなったのだ。午前中に食材の買い出しを済ませたかったが、生憎あいにく今日も朝から雨だった。

 私は二階の掃除をしながら時折外の様子を窺ったが、妙な空模様だった。雲間からところどころ晴れた空が覗き、雨が上がる気配はあるのに陰気に降り続けた。そのうち蒸気のような薄い雲が見え隠れしていた太陽を覆うと、くっきりした光輪が中空に描き出された。逆光で雨が煙る中、周囲の空を鈍く光らせる光輪には、気持ちを落ち着かなくさせる何かがあった。少なくとも、十月半ばの天候に相応しいとは思えなかった。

 天気雨はしばらく続き、日差しの方が強まったり雨の方が強まったり不安定に推移しながら、午後三時過ぎにようやく止んだ。空を見るとまた降りそうな気配はあったが、焦れた私はカーディガンを羽織ってバッグを肩に提げると外に出た。

 私が雨の買い物を渋るのは、最寄りのコープに行くのも歩くには遠過ぎたからだ。車寄せには白のプリウスがあるが、運転の苦手な私は電動自転車を愛用していた。五月台さつきだいの中でも奥まった、私たちの家がある六丁目界隈は坂が多く、玄関に面する道から上り坂が始まっていて、コープに行くにはその坂を上る必要があった。

 私は急いで買い物を済ませると、食材の詰まった袋を自転車の籠に押し込んだ。梅雨時みたいな湿った風が頬をなぶり、遠雷が微かに響き、予断を許さない気配があった。コープは私の家からすると、駅前の踏切を超えた駅の反対側にあった。復路で折り返して渡った踏切を道なりに進むと、駅に隣接して一階が別のスーパーになっている商業施設に差しかかる。施設の裏手は植え込みに囲われた駐輪場になっていて、私はその脇を通った。通り過ぎながら何気なく駐輪場に目をやると、ある隅の一角に、不自然に人が密集していた。

 よく見ようと目を細めると、蝟集した人々の足の間から覗く路面に人の足が投げ出されていてぎょっとした。それは女性の足だった。スカートがまくれたのだろう、路上に転がった大根のような無造作さで肉付きの良いふくらはぎが地面に投げ出され、パンプスの黒い靴底が一瞬見えた。女性を囲む人々の輪からは切迫した気配が漂っていた。倒れた女性は、明らかに一刻を争う事態を迎えているらしかった。

 私は見ているだけで胸が締まるほど動機が激しくなって、堪え切れずに駐輪場を後にした。既にあれだけ人がいれば、自分にできることは何もないと私は言い聞かせて、その光景を頭から振り払おうとした。

 施設の一ブロック先の十字路で信号を待っていると、私の左側で手を繋いだ高校生のカップルがいた。二人は吐息がかかるほど顔を寄せ合って、男の子が女の子の鼻の頭を軽く突くと、女の子がわっと笑い声を上げた。何事もなければ、その光景は苦笑したくなるほど微笑ましかったに違いなかった。

 二人がこの瞬間を謳歌している一ブロック手前の駐輪場で、今まさに一人の女性が重体に瀕しているのに、信号を待つ人の大半がそれに気付いてもいない事実が、私に良からぬ考えを連想させた。まるでさっきの女性があの時あの瞬間に、多くの人の中から無作為に選ばれたように思えたのだ。

 私が帰宅して一時間も経たないうちに、再び雨が降り始めた。大雨ではないが安定して降り募る厭な雨で一晩中続きそうだった。ハーブティーをすすりながらテレビの天気予報にチャンネルを合わせると、日本海沿岸で高気圧と低気圧が交わる影響とかで、この先は週末まで天気の崩れが見込まれるとのことだった。また、昨夜未明に勢力の強い低気圧が北太平洋湾上で発生し、季節外れの台風に発展する見込みだと、小太りの男性予報士が伝えていた。

 私がトンカツの下拵えをしていると、普段はラインで連絡してくる夫から電話がかかってきて、そういう場合は急な都合で帰りが遅れる時が多かった。私が電話に出ると、夫は狭い廊下か階段の踊り場のような音の反響する場所から電話してきたらしく、背後からいかにも居酒屋らしき、何かの音楽と集団の騒ぎ声を一塊にしたような、くぐもったざわめきが聴こえてきた。

「ごめん。取引先の人が来週退職って、実はさっき分かって、急に送別会することになっちゃって」

 人目を忍ぶような小声で夫は詫びた。

「帰りいつ頃になりそう?」

「いや、深酒になりそうなんで待たなくていいから、ナツは好きな時に寝ちゃって」

 私の名前は夏海なつみなので、夫からナツと呼ばれていた。内心の落胆を抑えて私が分かったと答えると、夫が尋ねてきた。

「因みに今日の晩飯は?」

「トンカツ」

 私が答えると、夫は、「クッソ」と呟いて電話を切り、少しだけ私の溜飲が下がった。

 一階のダイニングとリビングは一続きで十八畳もあり、ダイニングテーブルは六人掛けだった。そんな巨大なテーブルの一角に小さく皿を並べて独りで食べていると、歯で衣を断ち切る音や味噌汁を啜る音が、がらんどうの空間に殊更大きく響き渡った。

 シャワーを浴びて少し梅酒を飲んだ後、淡いピンクのカバーに覆われた羽毛布団の乗った寝室のベッドを眺めると、望遠鏡を逆さに覗いた時のようにベッドが非常に遠くに感じられて私は溜息をいた。馴染み深いこの感じがすると、たいていは朝方までベッドで虚しく寝返りを打ち続けるのだった。眠りが極めて浅い為に、私はもう何年も前から夫と寝室を分けていた。

 駐輪場のあの物々しい光景が、私の中で未だ尾を引いていた。遠い親族の葬儀は何度か参列したが、既に召された亡骸を棺から見下ろしても、言い方は悪いが、私の目にはただの抜け殻としか映らなかった。それと眼前で人が死を迎えようとしている瞬間に遭遇するのとでは、切迫の度合いがまるで違っていた。あんな逃げ出したくなるような重苦しい瞬間に遭遇したのは、子供の頃以来かも知れなかった。

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