魔王の右腕になったので原作改悪します

魔王の右腕になったので原作改悪します/ビーズログ文庫

プロローグ


 カビのにおいって、最悪だと思う。

 湿り気を帯びたあくしゆうは汚れたぞうきんを顔面に押し付けられているかのような不快感を覚えさせる。雑巾であればはらいのければ済むが、カビの臭いは延々とまとわりついてくるのでより最悪だ。そんな臭いによって目が覚めたとなれば、原因を始末しない限りは二度寝もできない。しぶしぶ起き上がり、に向かう。

 すりガラスのとびらを開くとモワッと悪臭におそわれる。見た目にカビは残っていないけれどタイルゆかにバランスがまという歴史がありすぎる風呂場はどれだけそうをしてもカビくささが消えない。リフォームすべきだとは分かっているしそこに議論の余地は残されていない。しかし、めんどうくさい。それだけの理由で後回しにしている。そのくせ最悪な目覚めの度に面倒くさがったのかと過去の自分を批判する。

 もしかして私は鹿なのだろうか。もしかせずとも馬鹿なのだろう。

かべの中までになっている気がするなあ……まあ、いいか……」

 タイル床に磁器の入れ物を置きせんこうに火をつける。その場しのぎの対策で始めたこれが意外と有能で、簡単にカビ臭さを遠のけてくれる。くすぶる蚊取り線香を観察しながら、この蚊取り線香入れは買って正解だった、シンプルで可愛かわいい、などと考える。こんな調子でしなくていい理由を見つけ続けているからいつまでってもリフォームできないのだ。

 蚊取り線香を放置し風呂場を出る。台所はまだうすぐらい。早すぎるしようだったことがよく分かる。今日もいやな目覚めだったな、と思いながら、ため息をいた。


 とうきよう(というよりはさいたまに近い東京と説明した方がしっくりくるのだが、これを言うと埼玉の人におこられるので公言していない。要するに東京の北の方)のあらかわ沿いに建つ団地。コンビニや病院もへいせつしていて便利なのだが、その全てが築年数五十年越えの『年代物』だ。がいへきどころか内壁もひび割れているが直される様子はない。毎月支払っている管理費の使われ方を疑問に思わない住人はいないが面倒くさがってだれも声をあげない。

 そんなきだめのような団地の中にある、八階建てのとうの五階角部屋。

 げんかんを開けるとすぐに台所があり、他の部屋に入るには台所を経由しなきゃいけない間取りの3LDK。窓を開けると荒川と広い空を一望でき、時期によっては流星群さえも部屋から観測できる。

 それ以外に良いところはない。それがだ。

 家の中心となる台所にはふすまをひとつつぶす形で冷蔵庫とキッチンラックが置かれ、中央にはしよくたくさんきやくが並んでいる。ベランダに出るための窓には黄ばんだレースのカーテンがかかっている。ホーローのヤカンはガスコンロの上、そろいのマグカップはシンクの上にるされたたなの上、写真立てはキッチンラックの上、と、小物に至るまで全てのものに『住所』がついている。

 だから『住所不定』のものがあると、とても目立つ。

「うわ、また煙草たばこ買ったのか。やめるやめるだな」

 食卓に放置されたショートサイズの煙草の箱を開けると、二本しか残っていなかった。

「早死にするぞ、ジジイ」

 冷蔵庫の向こう側の部屋を見る。今日も今日とて襖は開きっぱなしだ。

 壁も床もくすおびただしい量の書物、あげたきり使われていない電子しよせきリーダー、読めないぐらいきたない走り書きばかりのノートが乱雑に放置されている。あの部屋のものはなにもかもが『ホームレス』だから、掃除しようという気にもならない。

 なんてことない、見慣れた光景。

「あ」

 しかし、とうとつに、私は思い出した。

「これ、『夢』だ」

 二年前にこの団地は建て直されることが決まり、住人は全員立ち退いた。だから私もこの家を手放した。思い出ごと全て捨ててきた。

 なのに、おくの通り、その全てが目の前にある。

 例えばこのかしの一枚板でできた食卓。その木目をくずす煙草のあと。例えばこのキッチンラックに置かれた写真立て。その割れたガラスと破られた写真。例えばこのぞろいの三脚の椅子。その一脚に置かれたウサギの人形。

「……リアルな『夢』だなあ……」

『夢』を見ている私はなつかしい人形をき上げて椅子にすわり、食卓の焦げ跡にほおをつける。目を閉じると、コツ、コツ、と時計の秒針が動く音が聞こえる。ゴォゴゥと鳴っているのは冷蔵庫だ。懐かしい雑音に導かれ『夢』の中なのにねむたくなってくる。

 ──そうだ。いっそ、ここで永遠に眠ってしまおうか?

 それはらしい考えに思えた。

 ここにいたときはれいなものはなにも持っていなかったけれど、この人形があればじゆうぶんだった。ここは古くて臭くてひび割れていたけれど、その程度の不満しかなかった。

 ここは安全だった。ここは安心だった。ここがよかった。

 ──なら、もうここでおしまいにしていいじゃないか。ここより遠くに行ったところでなにもいいことはないんだ。ここで今、ハッピーエンドのうちに幕を閉じよう。

『夢』と『現実』の境目がなくなり意識がけていく。深く息をすると眠りの扉が開く。

とおる

 しかし、『夢』に落ちる前に呼び起こされた。

「今日は空が青いねえ、お出かけ日和びよりじゃないか」

 カーテンが開く音とともに、まばゆい光が視界に飛び込んでくる。

「あ、でもいわし雲が出てきてる」

 私を起こしたその人はベランダの向こうの空を見上げていた。その後頭部には寝ぐせが残り、着古されたカーディガンは色落ちしている。

 そこに私の記憶通りの先生がいた。

「午後は雨が降るかもなあ」

 先生はどんな日もこうして台所で私の帰りを待っていた。

 だからどれほど気分が悪い日であっても、必ず先生に会わなきゃいけなかった。

『どうしてこの家はこんなつくりなんだ』と文句を言うと、『透が可愛いからだよ』と先生は笑った。当時の私は馬鹿にされていると思って先生を無視した。そんな、ただいまのひとつもまともに言えないひねくれものをむかえるために先生はこの古い家から越さなかったのだと、今なら分かる。でもいまさら分かったところでどうにもならない。

「まあいっか。雨が降ったられるだけだし」

 カーテンをめくる先生の右手のこうにあるあの目立つケロイドにしてもそうだ。私が少しでも馬鹿でなければ先生の手にそんなものはつかなかったのだ。

 馬鹿な私は自分で傷つけておきながらそのあとを消そうと、すきを見ては先生の手にクリームをりたくった。そのくせ一回だってあやまらなかった。そんなごうまんな私を責めることなく『ぼくの手より透だよ。女の子の指なのにこんなに汚しちゃって』と先生は笑った。

 なにもかもが今更で、取り返しがつかない。

「透、ほら起きて。出かけようよ。どこへでも行けるよ?」

 どこに行っても二度と会えない先生がそんなことを言う。

 こんな『夢』ですら先生の言葉を皮肉と受け取る自分にへきえきする。今もってなにも成長できていないまま、私はこんな『夢』を見ているのか。

 吐き気に似た息苦しさを飲み込み、ふるえる口を開く。

「先生は……、どこに行きたいの?」

「そうだなあ、ピクニックとか?」

「雨が降るかもしれないのに?」

「雨味のサンドイッチもしいよ。透が作ってくれるならさ」

 先生がいた。誰からもチャーミングとしようされるそのがおは『夢』の中でも健在だった。机にせたまま「いやだよ」と言うと、先生は「けち」と明るく言った。

「どこにも行きたくない。ここにいようよ、先生。ずっとここにいようよ」

「駄目だよ。それじゃ透がしあわせになれないだろ?」

 先生をて笑おうとした。出てきたのはため息だけだった。

「……しあわせなんて、そんなものはない」

「そうだね、しあわせはものじゃない」

 先生は私のを軽く流してしまう。全てが記憶通りでのどおくが痛くなる。

「しあわせっていうのは、心が満ち足りていることをいうんだよ。そりゃ透が僕のこと大好きなのは知っているけどさ、いつまでもここに逃げ込んじゃ駄目だ。ここじゃもう透の心を埋めてはあげられない。分かっているだろう? ここは『夢』なんだよ」

「先生、なんで?」

「なんでってなにが?」

「なんでそんなつまらないことを言うの」

「つまらなくないさ。僕が望むことは透のしあわせだけだもの」

 息を吐こうとしたら、喉の奥で潰れ、鼻の奥がつまった。言わなきゃいけないことがたくさんあるのに言葉より先になみだがこぼれてしまった。

「相変わらず泣き虫だなあ」

 先生が私のとなりの椅子にこしを下ろした。そこが先生の定位置だった。

だいじようだよ。泣くほどこわいものなんてこの世にはないんだ」

 そこでほおづえをついて私の話を聞いてくれる先生が私にとってのしあわせだった。

「……せんせ、なんで?」

「なんでってなにが?」

「……なんで、わたしなんか、ひろったの……」

 その頰にあるホクロだとか、その少し曲がっている指だとか、思い出すだけで泣きたくなる。だから全て忘れてしまいたかった。なのにこうして思い出してしまう。笑うときだけ少し高くなる声で、私にくれた言葉のひとつひとつを。それが夜空にこぼれた星のように、今になってこんなにもかがやいて見えて、どうして今はこんなにも遠く感じるのだろう。

 忘れることもれることもできない、ざんこくな『夢』の住人が笑う。

「僕のしあわせのためだよ。透が生きていてくれることが、僕のしあわせなんだ」

「……そんなの……やくにたたない……」

「役に立つさ。透がいるから僕の世界が救われたんだ。ね、だからもう少しがんろう。まだ、あきらめるには早いから」

 先生が私のかたたたく。その氷のように冷たい手が私を『夢』から追い出してしまう。

「さあ、起きる時間だよ」

 ──視界が反転した。


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