潤と蜜

@yuki_nojo

潤と蜜

「世の中ってのはもっと面白えもんだと思ってたよ」

 蜜がそう言ったとき、私は本当にその通りだと思って、寝転がったまま読んでいた漫画の本を絨毯の上に置いて顔を上げた。

「こんな漫画みてえなことってホントのホントには起こらねえのかな」

 蜜はそう言って、私が広げて置いた漫画の本をすっくと片手で拾い上げる。ぱらりぱらりとページを捲って心底つまらなさそうに吐き捨てると、私がしたのよりももっともっと乱暴に床の上に投げ捨てた。

 私はそのかわいそうな漫画の本の表紙を見つめてううん、と唸る。私の部屋の本棚にぎゅうぎゅうに詰め込まれた漫画たち。その漫画の中の世界では、今日も男たちが命をかけた死闘を繰り広げ、女たちは騙し騙され愛に生きる。

「今みたいなこんなのは死んでるのとおんなじだ」

 そう蜜は悲しげに呟いてベッドの上に大の字に寝転んだ。美しい黒髪がシーツの上に波紋のような模様を描く。蜜のその嘆きが私にはほんの少しだけ理解できて、神妙な顔をして頷いた。すると蜜は真っ黒に潤んだ瞳をすっと細めて

「面白いもの、何にも見つからなかったらいっそホントに死んじまうか」

 そう言ったので、私は蜜が死ぬところをひっそりと想像してみた。それは、あまりに美しく、悲しく、とても漫画じみていて、私はいいなと思って小さく笑った。蜜は私が笑うのを見て、少し変な顔をしたけどすぐに大きな欠伸をして背中を丸めて目を閉じてしまった。


 私はこれから蜜が生きた永遠の話をする。


(一)美しいもの

 蜜は気性の荒い女だ。とにかく白黒をはっきりさせないと不満で、蜜の中には善か悪かの単純な二元論しか存在しなかった。そんな性格だったから彼女には誰も寄り付かなかった。彼女はいつも竜巻を身に纏っているようだった。と言うのも、周囲のものをことごとくなぎ倒しながらも彼女自身は至って涼しい顔で飄々としているからだ。彼女は竜巻の目そのものだった。


 それに引きかえ、私はクラスの中でも目立たない人間で、もしかすると担任の先生ですら私の名前を覚えていないかもしれない。それほどまでに恐ろしく地味な存在だった。が、別にそんな自分が嫌なわけでも、目立つ存在に変わりたいわけでもなく、あるがまま今の自分に十分満足していたので、毎日の学校生活(一人で食べるお弁当や担任の先生が一瞬詰まってから私の名前を呼ぶことやクラスの連絡網からすっかり漏れてしまっていることなど)は特段苦痛ではなかった。


 入学式からしばらく経ったある日のこと、クラスの派手な級友たちが登校したばかりの蜜を物々しく取り囲んだ。曰く「調子に乗っている」「ちょっと可愛いからってうざい」らしい。蜜は肩を怒らせる級友たちに囲まれながら、それでも真ん中でいつもの小難しい顔をして「邪魔だ」と言い放つ。

 いきり立った少女たちは口々に彼女に呪いの言葉を浴びせかけ、悪態を吐いた。その瞬間、蜜は目にも止まらない速さで右手を振りかぶり、主格と思しき少女の頬をぴしゃりと打った。少女はよろりとよろめいて教室の床にへたりこむ。

 何十対もの目が恐ろしい物を見るように蜜を睨め付けたが、反撃に出ようとする者は一人も居なかった。遠巻きに見ていた観客であるところの他の生徒が当事者たちよりも一瞬早く我に返り、大声で「先生!」と叫んだ。


 それからは上を下への大騒ぎで蜜と少女たちは余所のクラスからも出向いて来た野次馬でざわつく教室を後にして校長室へと連行された。校長室では担任の女教師と校長先生が厳めしい顔付きで蜜と級友に無意味な質問を繰り返し、事を把握しようと試みた。

 校長が最後に「どちらの言い分も分かる。どちらも間違ってはいない。しかし、大勢で一人を取り囲むような卑怯な真似をしてはいけないよ。言いたい事、聞いてもらいたい事があるのならちゃんとした話し合いの形を取らなくては。それから君は、」

 そう言って校長は蜜の方を見た。

「何があっても暴力という手段に訴えるのはよくないことだ」

 蜜がフンと鼻で笑って「お気軽脳天気な頭だな。めでてぇことで」と言うと担任はギョッと目を見開いて何事か口にしようとしたが蜜の方が一足早く口を開いた。

「どちらも正しい、なんてあたしは信じねえ」

 吐き捨てるように言った蜜の顔を私は今でも時々思い出す。燃え盛る炎が灯ったように両の目は爛々と輝き、長く艶めく黒髪は怒髪天を衝く勢いで逆立っていた。


 怒り狂う蜜は美しい。頭の中であの時の蜜の顔を再生し、私はいつもそう思う。気性の烈しい彼女を私は本当に美しく素直な生き物だと思うのだ。


 この話をすると蜜はいつも「お前あの時どこで見てたんだ」と不思議がる。その度に私はふふふ、と笑って答えない。しばらく蜜は膨れているけれど、すぐに別のことに気を取られ(たとえば、道を歩く野良猫や変な形をした雲)、次の瞬間にはもうけろりとして「潤、アイス食って帰ろう」などというのだった。


 私は自分だけの隠れ場所について考える。校長室の窓へと続く鬱蒼と草の生い茂った中庭。日の当たらない屋上のカビ臭い物置。汚くて饐えた匂いのするトイレ。

 校長室では校長先生と担任の女教師がしょっちゅうセックスをしているし、屋上の陰では優等生のあの子がタバコを吸っている。トイレは生徒同士の悪口と陰口で溢れかえっていて、そこで食べるお弁当は砂利とスポンジを咀嚼しているみたいに味気ない。


 学校。私たちの過ごすこの共同体の中で美しいものは蜜しかいない。



(二)教室の窓で白いカーテンが揺れていた

 蜜に初めて話しかけられたのは七月の第三土曜日のことだった。第一土曜日と第三土曜日の補習授業は入学してから毎月欠かさず行われるものだったので、私はその日も普段通りに起きて、朝ご飯を食べ、登校した。

 すると教室には私以外誰もおらず、授業開始時間の九時になっても生徒はおろか先生すら現れなかった。これはきっと今日の授業は中止になったに違いない、と思い教科書とペンケースをカバンにしまう。大方連絡網で中止の連絡が回っていたのだろうと考えられるが、連絡網に名前のない私の場合、こういう事態も当然起こり得ることである。

 特に何の感情も抱かず私は椅子にふんぞり返って天井を眺める。自分以外誰もいない教室はなんだか宇宙船のようでわくわくした。


 突然、ガラッと教室のドアが開く。私は危うく椅子から転げ落ちそうになりながら、慌ててドアの方を振り向く。そこには眉をひそめた蜜がいた。

「あれ。今日って休みか」

 大きく頷いて返すとふーんと肩をすくめ、蜜はまっすぐに私の方へと歩いてくる。

「お前、なんで来たんだ?」

 なんと答えたものかと考えているうちに蜜はすぐに興味をなくしたようでおもむろに私の隣の席に座った。当然その席は蜜のものではないけれど、そんなことは彼女にとって何の問題にもならない。蜜はそのまま机に突っ伏したかと思うと数秒後にはすうすうと寝息を立て始めた。

 どうしたものかと思っていたが、家に帰ってもやることは特にないので、このままここで本を読むことにした。カバンから文庫本を取り出し、ページを開く。一心不乱に読みふけっていると不意に蜜ががばっと勢いよく身体を起こした。

「思い出した。お前、潤だろ、名前」

 突然名前を呼ばれて動きが止まる。恐る恐る頷くと「やっぱりな」と蜜は満足そうに目を細めた。

「名前、きれいだから覚えてた」

 蜜は笑うと案外幼く見えた。唇から小さな八重歯がのぞくからだった。


 その日から私と蜜は一緒に過ごすようになった。蜜と一緒にいるとまるで夢の中を歩いているような心地がした。足元の地面はふわふわと頼りなく、辺り一面に甘いミルクの匂いが漂っている。そんな心地だ。

 いつの間にか私たちは同じ家で寝起きするようになっていた。お互いに家族のことは話さなかった。話す必要もないと知っていた。


(三)海と神様

 ある朝、目が覚めると蜜が隣にいなかった。蜜が眠っていたシーツの上や枕はまだほんのりとあたたかく、いなくなってからそう時間は経っていないことはすぐに分かった。

 ベッドから降りて一瞬、躊躇してからそっとふわふわのスリッパに足を突っ込む。前に蜜がいたずらでスリッパの中にムカデのおもちゃを入れていたことがあってから、スリッパを履くのがこわくなった。

 キッチンへ向かって冷蔵庫からよく冷えた牛乳を取り出す。二つのコップを食器棚から取り出して、そこになみなみと牛乳を注いでいると廊下をばたばたと走る音がしてドアから蜜が顔を出した。

「潤、雨だ。冒険しよう」

 そう言われ、ふと窓の外を眺めるとたしかに空は暗く、ガラスにはびしびしと大粒の雨が当たっている。蜜はコップの中の牛乳をごくごくと一気に飲み干して、口元をぬぐった。

「今日の雨はすごいぜ、今日こそ裏庭に川ができるかもしれねえ」

 興奮した様子で言って、蜜はコップを片付けもせずにまた踵を返す。私は二人分のレインコートを持って蜜の後を追った。


 裏庭の本当の広さを私たちは知らない。途方もなく広い、ということだけしか分からない。一度、一番奥の奥まで二人で行ってみようとしたけれど、途中で日が暮れてしまい、私がひどくこわがったから探索は中止になった。

 雨の匂いと濡れた地面の匂いと嬉しそうな緑の匂い。今日の裏庭はいろんな濃い匂いで満ちていた。先に裏庭に出ていた蜜はすっかりびしょ濡れで、手渡したレインコートを見て変な顔をした。

「いらねえ。もう濡れたし」

 それもそうだな、と思って私はひとり、レインコートの前を注意深く合わせる。雨の粒は隙間から容赦なく入り込んできて、寝起きの体を冷やした。

「こっち来いよ、潤」

 蜜に呼ばれてぬかるんだ地面の上を長ぐつで歩く。ずっと前から靴箱にしまってあった誰のものかわからない長ぐつは私には少し大きくて、歩くたびにかっぽかっぽと音を立てた。

 蜜がいた場所は、少し前に二人で大きな穴を掘ったところで、蜜はその穴の中を覗き込んでいた。海、と言ってその穴を指差して蜜は笑う。

 そこには確かに海があった。穴の中にはすでにたっぷりと雨水が溜まっていて私たちが自転車や一輪車で作った轍を通って四方から大量の水が、まるで川から海へと流れ込むように注がれている。

 その海には鱗のぬめぬめとした魚もいたし、イルカもサメもクジラもいた。クラゲだっていた。その穴の中に海の生き物はなんだっていた。

「ふたりでつくった海」

 蜜はもう一度そう言って、しげしげとその小さな海に顔を寄せた。私も蜜のうしろからその海を覗き込む。

「世界の始まりは海なんだぜ」

 しみじみと含みを持たせて響いたその台詞に、 私がうん、と頷くと蜜は

「ほんとにわかってんのかなあ」

と振り向いて肩を竦めた。


 蜜には言わなかったけど、私はそのとき、ちゃんと全部わかっていた。

 私たちは、神様になったのだということ。そして、蜜がそれをとても喜んでいるのだということ。私はちゃんと全部わかっていたのだ。


(四)そらまめの話

 海を作った私たちは、今度は裏庭にそらまめを植えることにした。

 裏庭はすでに緑でいっぱいだったし、植えるならお花がいいと私は言ったのだけれど、蜜がどうしてもそらまめを気にってしまったので、そういうことになった。


 蜜がそらまめを気に入ったきっかけはある日、突然やってきた。私がスーパーで安く買ったそらまめをさやから取りしていると、料理を手伝うわけでもないのにキッチンをうろうろしていた蜜が、私が剥いて中身を取り出したそらまめのさやを横からひょいとつまんで「うわ」と叫んだ。

「ふわふわしてる」

 蜜はそらまめのさやの綿毛のような部分を大層気に入り、裏庭に植えるのだと言ってきかなかった。


 そらまめの卵とじを食べた次の日、私と蜜は一粒ずつそらまめの種を持って裏庭に行った。そして、お家の方を向いて、つまり裏庭に背を向けて「せーの」と声を合わせて後ろに放った。

 蜜が言うには、神様は初めて世界に種を植えたとき丁寧に土をほじくり返したりしていないのだそうだ。だから、適当に投げて芽が出るのを待つんだよ、とどこに飛んでいったか見当もつかない種を目を皿のようにして探しながら蜜は言った。

「お膳立てされた環境じゃなくてもよ、ちゃーんと立派に生きるもんなんだよ」

 だって神様が投げた種だもん。蜜はまるで歌うように言い、どこからかホースを引きずってきた。へびのように太いホースを持ち上げて裏庭中に水たまりを作っていく。

 蜜の水やりは水やりというにはあまりに不格好で、私はもしもあそこにそらまめの種があったらきっとどこかに流れていってしまうだろうなあと思いながら、それでも神様が投げた種なのだからきっとどんな苦境、苦難にも耐えてのけるのだろう、と納得した。


 何カ月か経ってから、裏庭にそらまめの芽が出た。私はそらまめの芽というものを見たことがなかったので、本当にそれがそらまめの芽なのかはわからないけれど、蜜がそらまめの芽だと言い張るのできっとそらまめの芽なのだと思う。

 残念ながら出てきた芽は一本だけだった。何の根拠もないけれど、きっとあれは私ではなく、蜜が投げたそらまめだと私は確信している。そらまめの芽は小さくて、瑞々しいほど鮮やかな黄緑色をしていた。

「そらまめをたくさん育てて、あのふわふわした綿毛の上で寝たいんだ」

 蜜は石ころで囲ったそらまめの芽のそばでしゃがみこんで夢見るように呟いた。私はそらまめのベッドで眠る蜜を想像して、なんとも呑気な神様だなあとおかしくなってしまった。

 私にとって神様は蜜だけだった。私がそう思うと同時に

「潤って神様みたいだよな」

 そう、蜜が言った。


(五)うみにおちるちょうちょ

「海に落ちる蝶々の話、知ってるか」

 ある夜、校舎の屋上で突然、蜜がそう言った。うみにおちるちょうちょ。海を泳ぐでもなく、海を渡るでもない。滔々と蜜は言葉を続ける。

 知らない、と答えると、蜜は満足そうに鼻を鳴らして

「お前はほんと、何も知らねえな。仕方ないから教えてやるよ」

と笑った。私は蜜のその様子にひどく安堵する。

 私は、それでよかった。何も知らないことを幸福だと思った。蜜に、手を取り、足を取って、世界について教えてもらえることが、私にとってはこの上ない幸福だった。

「潤、聞いてんのか」

 蜜に呼ばれにやにやとして顔を上げると、蜜はきれいな顔をくしゃっと歪めて、また、ふんと鼻を鳴らした。

「あのな、溺れたなんて思ってるのは人間だけだぜ」

 風が校舎の下からごうっと吹いて蜜の制服のスカートがひらひらと豪快に舞い上がる。

「蝶々は自ら海に落っこちるんだ」

 そう言った蜜の目はいつものように爛々と輝いていた。いつか蜜もその蝶のように自ら海に落ちてしまうのかもしれない、と私はぼんやりと考えた。


(六)ささやかなふくらみ

 胸をさらけ出すことをあまり恥ずかしいと思わない。なぜだろうと考えたら、あまり胸が大きくないからだと思い至った。だって男の人は胸を見せても恥ずかしくないでしょう。

 私がいろいろと考えに考えてそう言うと蜜は「そうかそうか」とくつくつ笑った。

「それじゃあ、君のそのささやかな膨らみを優しく包んであげよう」

 そうして、芝居がかった口調でそう言うと後ろから私の胸をやわやわと揉むように撫でた。

「こりゃあホントに恥ずかしくねーかもな」

 私は蜜がそう言うからなんだか逆に恥ずかしくなってしまって、ばか、と言って蜜の匂やかな首筋に顔をうずめた。蜜だってささやかなくせに、そう言うと

「いーんだよ、ババアになった時垂れないから」

 その言い方から蜜も少しは気にしてるんだなぁとわかって、そんな蜜を私は可愛いと思ったのだった。


(七)罪深き

 蜜はよく「お前は罪深い、嗚呼、罪深い、あんまりだ」と繰り返す。罪深いというのはどういうものなのかと問うても、頭を振るだけで一向に答えてくれる様子もない。

「罪深い。ホントに罪深い女だよお前は」ただそう繰り返すだけである。

 だから、蜜の言う「罪深い」は私にはさっぱりよくわからないけれど、なんとなく良いような雰囲気がしたので、特に反論することもなく(そうは言っても私が蜜に楯突いたことなど今まで一度もないのだけれど)、ずっと言われるままになっている。


「潤は罪深い女だなぁ」

 蜜が嘆息してそう呟く度に、私は自分の唇がしたたかに赤くなっていくような気がしたのだった。


(八)葉月さんのこと

 私たちが二年生になった年の春に葉月さんは教育実習生としてやってきた。その時、葉月さんは大学生だった。

 葉月さんはすらりと背が高くて、腰がきゅっとしていて、胸が大きくて、何より壮絶なくらいに美人だった。“壮絶なくらい”という表現は蜜が使ったもので、なんだか私はその言葉のもつ物凄いような響きが葉月さんにぴったりだと思って、葉月さんのことを言うのに繰り返し繰り返し、「壮絶なくらいに」と言った。


 葉月さんは男子はもちろん女子にも人気があって、休み時間になると女子は葉月さんの周りに山のように群がってお洋服のことやお化粧品や香水のことを口々に尋ね、それだけでは飽き足りず、恋人の有無や初体験の年齢などプライベートな質問も無遠慮に浴びせかけていた。男子はそんな女子を遠巻きに見ながら、或いは大胆な者は自分もその輪に加わりながら、誰も彼もが葉月さんを盗み見ていた。

 葉月さんはもちろん職員室でも大人気で、体育の先生が葉月さんに告白しただの、社会の先生が葉月さんをデートに誘っただの、葉月さんが居た一か月間はそんな噂が絶えなかった。

 葉月さんを取り囲むその様子は甘いものに群がるアリの大群のようで、私と潤はその光景にぞっとしたものを感じていた。


 私が葉月さんと初めて口をきいたのは、校舎の一番上の階の端っこにひっそりと存在する図書館に本を返しにいった時だった。放課後なのにいつもの司書さんがいなくて、代わりに葉月さんが司書さんの席に座っていた。

「本、返しにきたの?」

 葉月さんは当たり前のようにそう尋ねると、私の差し出した本の束を受け取り、ぱらぱらと捲った。

「ふーん、こんなの読むんだ」

 その時、私が読んでいたのは寺山修司の詩集だったので、なんとなく気恥ずかしいような気がして俯いたままだった。私に付いてきていた蜜が後ろで「お前にゃ関係ねーだろ」とぶつぶつ言っていたけど、ちょっと睨むとまた静かになった。

「懐かしいなぁ、私も潤ちゃんぐらいの時に読んだよ」

 葉月さんは私のことを『潤ちゃん』と呼んだ。突然耳に届いたその名前はなんだか知らない人間の名前のように響いて、思わず顔をしかめて逃げ出すように図書室を後にした。


 それまで授業が始まる前も、授業の最中も、授業が終わった後も、私は一度も葉月さんと口をきいたことはなかった。しかし、それでも、私は否応なく葉月さんの視線をいつも感じていた。授業が始まる前も、授業の最中も、授業が終わった後も、葉月さんはなぜかいつも私を見ていた。そのことに気がついた時、消えてしまいそうなぐらいに恥ずかしくなったけど、蜜が「なんだあの女喧嘩売ってやがんのか」なんて毒づくものだから、すぐに平気になって気にとめなくなった。


 一か月後、葉月さんは実習を終えていなくなった。私はまた蜜と二人の時間に戻れたので心底ほっとした。


(九)てんし

 蜜の口癖は「何もかも捨てちまいてぇなぁ」だった。そのくせ、自分が背負って居る物が何なんだか曖昧としていて、蜜はそれがとても歯痒いのだと言った。

「背負ってるもんが何だか分かりゃーなぁ。ああ全部放り投げて自由になりてえ」

 私たちは誰もいない教室を探して薄暗い家庭科室にたどり着いたところだった。

 窓の外で暮れ行く夕焼けを見ながら蜜は苦虫を噛み潰したように険しい顔をしている。まるでゆらゆらと揺れる朱色の太陽に喧嘩を売っているみたいに見えた。


 これは蜜本人にも内緒の話なのだが、実は蜜の背中には羽根があって、でもその羽根は飛び立てないように錆び付いたチェーンで雁字搦めに縛られて居るのだった。いつかその鎖が外れたらきっと蜜は自由になれるんだと思う。

 私の背中にも同じように翼が付いているのだろうか。だけど、それは恐らく蜜にしか見えないから自分では確かめる事ができないのだ。


 天使って居ると思う?


 そう聞いた私に蜜は答える。

「ンなもん存在したとしてもここにゃ居ねーよ。天使は天国に居るんだ。もしも潤に天使が見えたんならそりゃ天を追放された堕天使だ」

 蜜はニヤリと笑って窓枠に足を掛ける。ア、と言う間もなく窓を飛び越え蜜は消えた。思わず空を見上げて姿を探す。

「どこ見てんだよー」

 笑い声が聞こえて慌てて下を向くとすぐ側の地面で蜜が大の字に寝転んで私を見上げて居た。

「あーあ。何もかんも捨てちまいてぇなぁ」

 ぽかんと開けた口で性懲りもなく蜜が叫ぶ。一番に蜜が捨てなくてはならない物はきっと私だろう。私は蜜の最後の砦だ。


 とっくの昔に沈んだはずの太陽が最後の力を振り絞るみたいにゆらりと微かな光を空に残している。紺色に紛れたオレンジ色が無性に寂しくて物悲しくて、私と蜜みたいだなぁと思った。


(十)夜のコンパス

 蜜にとって眠れない夜というものは必ず一ヵ月に一度はくるもので、蜜はその日

になると私が夜中の何時に目覚めても開け放した窓から外を眺めていた。私は不眠症(この蜜の症状をこの呼称で呼んでも差し支えないならば)とは縁遠い人間だったから、蜜が「眠り方を忘れた」と呟くのにも曖昧な相槌しか返せないのだった。

 私にとってベッドと枕は天国へ向かう方舟で、横になると忽ち眠りの中に引きずり込まれるものだったから、蜜はいつも私のことを羨ましい羨ましいと言っていた。


 一度眠れないという感覚について蜜に尋ねたことがある。蜜は頭の前の方の部分を指差して「この、前頭葉の部分から何か放出されてる気がする。潤、知ってるか? アドレナリンてーのだと思うんだけどさ」と言った。

 私にはゼントウヨウの漢字も分からず、唯唯、蜜という人はどこか人間離れしているなぁと感慨深く思ったものだった。脳内の感覚をさも自分の五感で知覚したかのように平然と言ってのける様が私には到底信じられなかった。


 蜜は眠り方を忘れた夜は窓際でじっと夜風に当たっている。虫の声を聞いている。星や月を眺めている。そうすると、アドレナリンの放出を緩和する別の物質が眼球の奥の方から発生して漸く落ち着くのだと言う。

 私はいつも蜜が何か小難しいことをつらつらと述べるのを聞きながら眠りの大海へと漕ぎ出す。すぐに蜜の声は睡魔の波音で遠ざかり、私は一人ぽつんと方舟に乗っているのだった。


 離れた所で蜜の声を聞きながら、いつも思うことがある。明日起きたら蜜にも方舟のことを教えてあげよう。そうしたらゼントウヨウやあどれなりんなんて面倒な理屈を捏ねずとも蜜もきっと安らかに眠れるに違いない。私たちは毎晩頼りない小舟で大海原を渡って行くのだ。眠ることは航海と同じなのだ。明日、蜜にそう教えてあげよう。私は寝ぼけた頭で考える。


 しかし、明朝になれば私はこの眠りの間際に浮かんだ妙なる思い付きを必ずきれいさっぱりと忘れてしまう。そして、結局眠れない夜から蜜を救うことができないのだ。


 いつか見た夢の中でひしめき合う羊の群に囲まれた蜜が白い塊に埋もれながら哀しそうに笑っていた。眠り方を忘れるとううのはひどく辛いんだろうなぁ。蜜の寂しい笑顔を見て私は夢の中ながらもはっきりと蜜を哀れんでいた。


(十一)セックスのこと

 蜜がひどく神妙な顔をしていたので、どうしたのと問うと片方の唇の端だけをくいっとあげて「知り合いとするセックスについて考えている」と言った。

 相変わらず妙なことを考える人だと思ってぽかんとしているとグイッと顔を近づけてきて「潤、お前とヤることだって考えてたぜ?」と曰ったので阿保らしいと一笑して私は教科書に顔を戻した。


 蜜という人はいつも突拍子もないことを考えている人なのである。しかし、そんな突拍子のなさに振り回されている余裕はない。私は私で先のことを考えなくてはならなかったからだ。

 私たちは三年生になって進路選択という重要な岐路に立たされていた。私が進路希望の紙を前に頭を抱えている脇で蜜は突拍子もないことを言う。進路希望の紙を出したのか、と尋ねても「丸めて捨てた」と八重歯をのぞかせて笑う。


 私はざらついたわら半紙にシャープペンシルの先を走らせながら、蜜とするセックスについて考えみた。が、経験のないことを想像するのには限界があり、ぼんやりともやが掛かった裸の二人を思い描いただけですぐにとん挫した。

 蜜の考えるセックスはどんなものだったのだろう。顔を上げると蜜は私に背を向け窓枠に腰かけていた。蜜の長い髪が風に吹かれてカーテンと一緒に揺れていた。


(十二)もう一度そらまめの話

 ある冬の日の朝、目が覚めるといつかのように蜜が隣にいなかった。けれど、今回は蜜が眠っていたはずのシーツや枕は、今だかつて体温を感じたことなんてございませんことよ、とても言いたげに冷えきっていた。

 やけに嫌な予感がして私は裸足のままベッドから飛び降り、家中を歩き回る。ずっと心臓がどくどくと脈打っていて、これが胸騒ぎかと冷えた頭の芯で考える。

 海を作った庭も二人で一緒に入ったお風呂も埃だらけの屋根裏部屋も見て回ったけれど、蜜の姿はどこにもない。

 そのうち雨が降り始めて、私は長ぐつを履いて傘を差し、もう一度庭に出た。立派に育ったそらまめには前日まで鈴なりにさやが実っていたが、今見るとすべてぱかりと口を開けて中のあの白いふわふわのわたが取り除かれていた。

 それを見た瞬間、蜜はそらまめのわたで作ったベッドに乗って天に帰ってしまったんだと確信した。私は傘を放り投げて天を仰ぎ、わんわんと泣いた。こんなに大きな声が出るなんて自分でも驚くぐらい、鳴り響くサイレンのように延々と泣き喚いた。

「潤?」

 突然、背後から蜜の声がして私は驚いて後ろを振り向く。

「なに泣いてんだよぉ。そらまめな、いっぱいあったから収穫したけど、ぜんぶしなびてた」

 収穫の時期っていつなんだろうなぁ、とのんきに呟く蜜の手にはたくさん白いわたが付いていた。


 その夜は、しなびて美味しくなくなってしまったそらまめを塩とこしょうで炒めて食べた。何度も蜜に「なんで泣いてたんだ?」と聞かれたけれど、恥ずかしくて答えられなかった。


(十三)おわり

 私たちは互いに制服を脱いだあとのことを知らない。正しくは、私は彼女が永遠に制服を脱いだあとのことを知らない。


 卒業式の夜、私たちは制服姿のままで行先も決めずに電車に乗った。電車は規則的にガタンゴトンと揺れるのを繰り返し、不眠症でない私はその揺れに思わず目を閉じてしまう。


 終点に着き、車掌さんに起こされると隣に蜜の姿はなかった。

「あの、一緒に座っていた女の子を知りませんか」

 そう尋ねると車掌さんは変な顔をして首を横に振る。

「黒くて長い髪で目が真っ黒で、その、とてもきれいな子なんです」

 車掌さんはますます怪訝そうな顔をして「見てませんよ」と答えた。


 それが私と蜜の最後だった。そらまめのあるあの家にはこの夜以降、帰っていない。もしかすると蜜が帰ってきているかもしれないと期待する半面、そこに蜜の姿がなかったらきっと私は呼吸の仕方を忘れてしまう。それが怖くて帰れなかった。


 それから、ずっとずっと後で、私が結婚して子供を産んで、おばあちゃんになった頃、一度だけ蜜を見た。制服姿で黒髪を揺らし、一瞬だけ私と目を合わせて「潤」と私の名前を呼んだ。蜜は笑うとやっぱり幼く見えた。唇から小さな八重歯がのぞくからだった。



おしまい

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