7.クレヴィング公爵は仰天する
王太子の爆弾発言から一夜明けた翌朝。
アマーリアは早起きして庭で摘んできた花を活けた花瓶を持って、父、クレヴィング公爵の書斎を訪れた。
勤勉な性格の父は、公務のない日でも大抵こうやって朝から書斎で書類を見たり、読書をしたりしている。
「おはようございます。お父さま。素敵な朝ですわね」
入ってきたアマーリアを見て、公爵は厳つい顔をたちまち緩めた。
「おはよう。アマーリア。随分と早いな」
「ええ。昨晩はあまり眠れなくて……」
アマーリアがことんと花瓶を置くと、うず高く本と書類が積まれた机の上がぱっと明るくなったようだった。
「それはいかん。昨日はバランドのところのクレイグとお前の友達のあの可愛らしいアンジェリカ嬢の婚約披露の宴があったのだろう。帰りは遅かったのではないか?」
「ええ。宴の方は早々に失礼したのですけれど、そのあとでアンジェリカのところへ寄らせて貰っていて」
「そうかそうか。互いに結婚したらそういったこともあまり出来なくなってしまうだろうからな」
公爵はアマーリアをつくづくと眺めて目を細めた。
雪のように白い頬が、今朝はほんのりと薔薇色に上気している。
花びらのような唇を楽しげに綻ばせ、大きな瞳でこちらを見ているアマーリアはいつもにも増して輝くように美しかった。
「眠れなかったというわりに元気そうではないか。何か良いことがあったのか?」
「ええ、とっても」
アマーリアは、うふふと可愛らしく笑った。
「どんな良いことがあったのか、この父にも教えておくれ。小さなお姫さま」
公爵は愛おしくてたまらないというように、愛娘に手を差し伸べた。
しかし、次にアマーリアが口にした言葉を聞いた瞬間、公爵はその姿勢のままで凍りついてしまった。
「い、今、何と申した? もう一度申してみよ」
「はい。昨日、王太子殿下より婚約を解消すると申し渡されました」
「な……っ」
公爵はぱくぱくと口を動かした。聞きたいことが山ほどあるのに声が出てこない。
やがて、どうにか絞り出した声は公爵自身、情けなくなるほど震えていた。
「殿下との婚約を解消? 何をいっておるのだ、アマーリア。この父をからかうにしても冗談が過ぎるぞ」
「冗談などではありませんわ。お父さま。殿下は皆の前ではっきりと私との婚約は解消すると仰いました。二言はないとお約束して下さいました」
「皆の前? というとそなた達は昨夜の宴の席で皆の前でそのような話をしたというのか」
「ええ。私はアンジェリカとクレイグさまのお祝いの席でそのようなお話をするのはどうかとも思ったのですけれど、殿下が驚かせたいことがある、皆にも聞いて貰いたいと仰って……」
「ではその婚約破棄の話は殿下の方から言いだされたことなのか!?」
「はい。パーティーの席で突然、こう私に指を突き付けられて『アマーリア・クレヴィング! 私は今日をもってそなたとの婚約を解消する!!』と」
ゼスチャーと声真似つきでアドリアンの言葉を再現してみせるアマーリアを見て、公爵は低く呻いた。
「あ、の……バカ王太子が。何を考えておるのだ」
「まあ、お父さま。殿下にむかって不敬ですわよ」
アマーリアが形の良い眉をひそめて諫めるように言う。
「いったい何故そんなことになったのだ」
「よく分かりませんが、私が知らないうちに殿下のお気持ちを害するようなことをしてしまったようなのです。『父上に押しつけられただけの婚約者で愛情はない』とは以前から思われていたようなのですけれど、それ以外にも何かしてしまったようで……昨晩は随分とお怒りのご様子でしたわ。『金輪際、俺とマリエッタに近づくな』との仰せでした」
ちなみにアドリアンが怒っていたようだというのと、マリエッタに関する発言については昨晩、エイベル侯爵邸でアンジェリカとミレディの二人からこんこんと説明されて初めて知った。
アドリアンが「婚約を解消する」と言うのを聞いた瞬間、望まれない結婚という暗い未来から解き放たれた解放感と、愛する人に想いを告げることが出来るという歓喜でいっぱいになり、そのあとのことは正直ほとんど耳に入っていなかったのだ。
「そのマリエッタというのは何者だ」
「よく存じません。ミレディが言うのはどこかの男爵家のご令嬢で、このところ殿下と随分お親しくしていらっしゃる方だとか」
「男爵令嬢だと? その女のために殿下はそなたとの婚約を破棄すると言われたのか?」
「いえ。そうはっきりとは仰せではなかったようですけれど。何でも殿下が仰るには私がそのマリエッタ嬢に嫌がらせをしたとか、ひどい言葉をかけただとか……」
「そういった事実はあったのか?」
「まさか。昨晩、殿下から伺うまで私はその方のお名前も存じませんでした」
「で、あろうな」
公爵は深々と溜息をついた。
親の欲目があるのは認めるが、アマーリアはおおらかで優しく、まっすぐな性格をしている。
たとえ殿下に近づく他の令嬢に面白くない思いをしたとしても、ねちねちと嫌がらせをしたりはしないはずだ。
それくらいなら殿下本人に思っていることをぶつけるだろう。
「何か誤解があったということか」
「そうかもしれません」
筆頭貴族であるクレヴィング公爵家は、代々、王家からの信頼も厚く、歴代何人もの王妃や、大公妃を輩出している名門である。
そのぶん、妬まれることも少なくない。
長男のヴィクトールは、本人たっての希望で文官ではなく武官として宮廷に仕えることになったが、騎士団に入ったばかりの頃は鍛錬と称して、随分と理不尽なしごきのようなことにあったこともあるようだ。
ヴィクトール本人は、明るく前向きな性格に加え、生来の負けず嫌いが良い方向に作用して、剣や馬術の腕を磨き、武術大会がある度に目覚ましい結果を残して、実力でまわりに認めさせて、今は騎士団のひとつを任されるまでになっている。
だから、未来の王妃というアマーリアの立場を妬んで、根も葉もない中傷を王太子に吹き込む輩がいたとしても不思議はない。
それを王太子が鵜呑みにして、事実確認はおろか、アマーリアの父である自分や国王陛下に何の断りもなく、衆目の前で婚約破棄を宣言するなどというのは言語道断であるが。
それにしても分からないのはアマーリアの態度である。
そのような、普通の令嬢ならば衝撃のあまり泣き伏して、打ちひしがれずにはいられないような屈辱を与えられながらなぜ、平然としていられるのか。
いや、平然どころか普段よりもいきいきと幸福そうにさえ見える。
先ほどなど、さも嬉しそうに微笑みながら「とても良いことがあった」とまで言っていたではないか。
(まさか衝撃のあまり、正気を失ってしまっているのでは……もし、そうならばあの小僧、ただではおかぬぞ!)
アドリアンへの怒りを噛み殺しながら、公爵はアマーリアにむかって極力、穏やかな声で言った。
「話は分かった。アマーリア。疲れただろう。母上と朝食をとっておいで。今日はゆっくりと休みなさい」
「ありがとうございます。お父さま。朝食が済んだら少し用があるのでシェリルと一緒に外出してきます」
「外出!? こんな時にどこへ?」
「騎士団の詰め所へ行って来ようかと思っております」
「ヴィクトールのところへか? いかんいかん。また日を改めなさい」
公爵はきっぱりと言った。
アマーリアは兄のヴィクトールに懐いている。このような時だからこそ、頼りになる兄に慰めを求めたいのだろうが、昨夜のことがどのように広まっているのか分からない状態で、娘を世間の噂のなかに放り出すような危険は冒したくなかった。
「今日は……いや、しばらくの間は邸を出ずに母上と一緒に過ごしなさい。私がいいというまでだ。分かったな」
アマーリアは少し不服げな顔をしたが、すぐに
「はい。仰せの通りにいたします。お父さま」
と言って下がっていった。
あとには、にわかに痛み出した頭を押さえた公爵が残された。
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